第15話 銀月.4
辺り一帯が血の海と化した。動かなくなった六つの屍が、冗談のように静かに転がっている。
草木や土に染み込んだ赤は、すぐにその色を変容させて元の色を失わせた。
「燐子…」
燐子の背中に、酷く怯えた声が力なく投げかけられる。
その続きを待とうかとも考えたが、どれだけ待ってもそれ以上はない気がしたので、燐子は太刀に残っていた鮮血を眺めて言った。
「見ろ」
ミルフィのほうへ刀身をよく見えるよう傾ける。
「魔物と変わらない」
流れ出る血の色は同じ。
「魔物を斬るのも、人を斬るのも、命を斬ると言うことには変わりはない」
ドロリとした血液が刀身をつたい、鍔を辿り、そして柄を通して掌に至る。
「とどのつまり、そこに行き着く」
ズボンのポケットから懐紙を取り出して、その血液を拭い、最後に刀身を拭き取って、深く息を吐いた。
「私は…数多くの命を斬ってきたぶん、その意味を理解しているつもりだ」
自分の神経がまだ昂ったままなのが、分かる。
恐怖でも緊張でもない、名も知らぬ感情によって、指先が小刻みに震えていたが、燐子は自分がどこか物足りなさを感じていることにも気づいていた。
(あのトカゲのほうが、もっと戦い甲斐があったな…)
そんな燐子の気持ちを知ってか知らずか、ミルフィは強い口調で相手の正気を疑うように罵った。
「こんなの、どうかしてるわ」
転がる死体から目を背け、胸元を片手で押さえつけるようにして喋る。
「帝国兵も、騎士団も、みんないなくなればいいとは思ってたけど、こんな死に方はあんまりよ」
「…あんまりではない死に方があるのか」
戦いの後の心地良い高揚感に水を差された燐子は、苛立ちを込めた声で尋ねた。
顔を曇らせたミルフィは、燐子を哀れむように、「あるわよ」と答えたのだが、それに対して燐子は嘲るように鼻を鳴らした。
「こいつらだって、人を殺しているのだ。殺される覚悟はあろう」
「そんなの分からないじゃない!まだ誰も殺してないかもしれないわ」
「お前だって、今、殺した」
その一言に明らかに動揺を見せたミルフィだったが、キッとすぐに目力を強くした。
それを見て、燐子は抑揚なく呟く。
「…そんな基準は無意味だ」
そんなことを考えて何になるのか。
初めは小さな苛立ちだったが、道理の通らない綺麗事を並べるミルフィに段々と怒りが募って、自然と強い口調に変わってしまう。
「仮に殺していないとしても、こいつらは武器を手にした。つまりは殺されることに同意しているに等しい」
「滅茶苦茶よ!」
「何が滅茶苦茶だ。お前の言っていることのほうがよっぽどおかしいだろう。敵兵が武器を手に近づいてきても、殺す気があるかどうか尋ねるのか?今まで何人殺したのか問うのか?そんなものこそ全くの無意味だ!」
怒声をまき散らしながらずんずんと近寄って来る燐子から目を逸らさず、真っ向から勝負するミルフィは、目の前で自分を睨みつける燐子の胸倉を掴んだ。
「誰もがあんたみたいに、死にたがってるわけじゃないのよ」
話が通じないどころか、自分の戦いを自殺願望による行動だと指摘された燐子は、ますます怒りで顔を紅潮させ、ミルフィがしたように胸倉を掴み返した。
「私は、死ぬためではなく、信念と誇りのために戦っている」
「そんな目に見えないものが、何になるの」
「それ無しで死んでは、犬死にではないか」
強く言い切った燐子は、ミルフィの唇が震えていることに気が付いて、息を呑んだ。泣くのではないかと考えたのだ。
「お父さんに」
ミルフィは途端に声を小さくして、噛み締めるように続けた。
「そんなものは無かった」
燐子は、はっと自分が言ってはいけないことを口走ってしまったことを悟り、目を逸らした。
徴兵されて戦争に駆り出された兵士に、そのような信念や誇りがあるはずもない。
(そうか、そのような兵士もいて当然なのか…)
不意に、自分が無残に斬り捨てた兵士のことが気になって視線を彼らに向けた。
もしも、彼らがそうだったならば?
私のしたことは、何だ。
ぞっとする恐ろしい答えが背を這い、激しく頭を振った。
こうしなければ、すぐにでも村が襲われたのかもしれない。
あるいは谷底の兵士の死体が見つかるかもしれない、またあるいは、防護壁を建設しているところを見られ、本隊に報告されるかもしれない。
「同情した?」
どこか他人行儀な声音に変わったミルフィのほうへと、再び視線を向ける。
傷ついた顔を覗かせていたミルフィに、何か伝えようと口を開いたのだが、そもそも傷つけた側である自分に、何を言う権利があるのか不安になって、結局は首を前に倒して俯いてしまう。
それからすぐに強烈な力で燐子を弾き飛ばしたミルフィは、尻もちを着いた彼女を見下ろして「舐めんじゃないわよ」と吐き捨て反転し、元来た道を戻り始めた。
彼女に追いつけるだろうか、と加速度的に遠ざかっていく背中を呆然と見つめた燐子は、意識して、自分のやっている行為について考えるのをやめた。
カランツの村に到着したときも、ミルフィとの距離は縮まっていなかった。
なだらかな丘から見下ろすカランツの風景は、数時間前に比べて、物々しくなっていた。
丘側の出入り口には新たな門を建てる予定だったのだが、その骨組みは想像より大きく作られており、この規模の物では下手したら間に合わないのではないかと不安になってしまう。
駆けだせば転げ落ちてしまいそうな急斜面をゆっくりと進んでいると、東の空が赤く燃え始めた。
朝日か、と燐子はじっと立ち止まる。
橙色の光が、一睡もしていない鈍った瞳に突き刺さり、反射的に目蓋を下ろす。
(…思いのほか、疲れているようだ。ドリトン殿の家に帰り着いたら、眠れるときに眠っておこう。しばらくは本隊も動き出さないはずだ)
一日…いや、二日も斥候が帰って来なければさすがに不審がって、偵察ぐらいはしに来るかもしれない。
そのときまでに万全の態勢を整えておけるのが最良ではあるが、やはり、それは運次第であろう。
すっかり遠くに移動してしまったミルフィを追い、村の入り口まで移動すれば、すぐにドリトンの声が聞こえた。
「燐子さん!」
その曲がった体躯から搾り出たとは思えない声量にこっちが驚いてしまい、思わず目を白黒させる。
「な、何でしょう」
「血だらけではないですか!平気なのですか」
ああ、そういうことかと燐子は苦笑いを浮かべる。
「私の血ではありません」
「そ、それでは…」
こくりと、一つ頷く。
「全て返り血」
淡々と言ってのける燐子を中心に、波紋のようにざわめきの声が広がっていく。
燐子は青ざめた表情をする村人たちを横目で見回した。
(怯えているか…無理もないな)
誰もかれもが作業の手を止めて、血の衣を着た燐子を遠巻きに見つめている。
「村のほうも抜かりがないようで」
門や木の防壁や櫓は水際に沿って建てられており、燐子が想像していた以上の進捗具合であった。
「ええ。みな、猟師の家のものですから…手先が器用なのです。女も、年寄りも」
「何よりです。これなら、予定通りに時間も稼げましょう」
使いの者がアズールに到着するのに半日。アズールから騎士団が来るのに、一日。いや、一日半。
帝国兵にしても、斥候がいなくなったことも考えるとそうすぐには来ないだろう。そんなに近くに野営を構えているとも思えないから、怪訝に思った帝国が進軍してきても、おそらく、一日から一日半。
ギリギリだ、すべて。だが、粘る価値はある。
「燐子さん。そろそろ聞かせて下さいませんか?砦を作った後、どうやって帝国兵を迎え討つのかを」
ドリトンが不安そうに燐子の顔を覗き込んだが、彼女はたいしたことはない、とでも言わんばかりに出来上がっていく門を見つめながら答えた。
「あぁ、私が何とかしましょう」
ミルフィは初め、燐子が何を言っているのか分からなかった。
疑いようもないほどに真剣な眼差しで告げたので、冗談でないことは確かだ。
(また、とんでもないことを…)
自分の白シャツを勝手に真っ赤なドレスへとコーディネートした燐子を櫓から見下ろしながら、ミルフィは漠然とそう思った。
村に戻ってきたミルフィは、一旦エミリオの様子を確認してから、想像以上に立派になりつつあった村――いや、砦を散策していた。
そして、この櫓からなら丘を下ってきた帝国兵を狙い撃ちできるな、と考えていたところ、自分が人を殺す前提になっていることに空恐ろしさを感じた。
そんなときに、燐子が下で祖父に告げた言葉が聞こえてきたのだ。
「じょ、冗談でしょうか」
「つまらぬ冗談は言いません」
「そんな馬鹿なことがありますか…!?」
穏やかさを保っていたドリトンが、驚愕した様子で燐子に迫る。
「斥候どころではないのですよ、百人近い兵士が押し寄せてくるのです。たとえ、敵を一箇所に集めて、一対一の戦いを続けられたとしても、十人も相手にすれば限界が来ます!」
「騎士団が来たら、そこで私の出番は終わりです」
「必ず間に合う保証もない!」
「そのときは、そのとき」
燐子が他人事のように無感情に言い放つものだから、ドリトンは呆れたように、あるいは驚いたように額に手を当てて唸り声を上げた。
「なんという人だ…かかっているのは自分の命だというのに…死ぬおつもりですか?」
後ろで結い上げた燐子の髪が艶やかに揺れる。
「とうに死ぬ覚悟はできています。――が、死ぬつもりで戦うわけではありません」
「し、しかし…」
つい先ほど人を殺めた女とは思えないほどに、真摯さに満ちた凛とした雰囲気に、ミルフィは時折彼女が口にする『気品』という言葉の意味を垣間見た気がした。
(燐子の言葉は、どうしてこう…)
圧倒的だった。説得力、というものに満ちていた。
…森の中で燐子が言ったことだって、理解できないわけではなかった。
ただ、頭に心が追い付いてこなかったのだ。
燐子の発言に賛同してしまえば、徴兵されて死んだ父の魂が、私たちの元から離れていく気がした。
きっと、エミリオだって離れていく。
だから、燐子の話は到底認められなかった。
(それなのに、こんなにもこいつの在り方に目を奪われるなんて…)
燐子の意見を受け入れてしまえば、自分の中の大事なものが失われるかもしれないのに、彼女の手を取って、あの黒曜石が見ているものを理解したいと思ってしまっている。
彼女の何が自分を引き付けるのか。
(…あぁもう、駄目ね。沼にはまってるわ)
ミルフィは一つため息を吐いて、もやもやとした自分の思考を追い払った。
今、分かっているのは、燐子の力なくしては自分の故郷は守れないということだ。
「おじいちゃん、みんな。無茶な話だけど、村を守るためにはやるしかないわ。どうせ、今からみんなでアズールに逃げても絶対に間に合わないんだから」
燐子は近寄ってきたミルフィの姿を確認すると、思い出したかのように、「門の上に弓兵も欲しい。できればミルフィほどの実力があるといいのだが」と言った。
ミルフィはその言葉を聞いて、弓の腕を認められた、と不覚にも少しだけ嬉しくなってしまった。
「そんな人いないわよ」
「…そうか」
微妙な表情だ、どうやら先ほど自分と揉めたことを少しは気にしているようだ。
「――私本人以外はね」
白い顔をこちらに向けて、燐子が小さく口を動かした。
「いいのか。人が大勢死ぬぞ」
横目で覗きながら、燐子に合わせて小声で返す。
「仕方がない、なんて絶対に言わないわよ」
それを聞いた燐子も堂々とした顔つきのままだ。
「でも、みんなやおじいちゃん、エミリオの命には代えられない。それに私だって、死にたくはないもの」
ふ、と燐子が笑ったような気がした。
くそ、やっぱり顔は良いな、と無意識に敗北感を感じてしまう。
「それでいい」
「何よ、偉そうに」
そっと、燐子が腰にぶら下げた太刀を撫でた。虚空を見つめている様子からして、無意識でやっていることみたいだった。
「大事なモノがハッキリしていて、ミルフィらしいと思っただけだ。…きっと、人間そのほうがいい」
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