第9話 駆ける、光.2

 冷淡極まりない一言にミルフィは、目と口を大きく開けて呆然と燐子を見ていたのだが、ハッと我に返ると、怒りで満ちた瞳のまま燐子の胸ぐらを掴み上げた。


「アンタねぇ!」


「ぐっ…いい加減にしろ!お前は、他人の問題に首を突っ込むためにドリトン殿に遣わされたのか?違うだろう!」


「ここで放っておいたら、騎士団が私たちの村にやってることと同じになるのよ!そんなの、認められないわ!」


「それはお前の理屈だ。私には関係ない」


 ぎりっ、とミルフィが歯噛みしたのが燐子にまで伝わった。


「もういい。私だけで行くわ」


 そのうち、ミルフィはぷいっと背を向けて商人の一団のほうへと進んでいった。


「おい!」


 燐子は苛立たし気に顔を歪めて後を追う。


「お前一人で何ができる」


「黙ってなさいよ、燐子」


「本当に私でも手に負えないような相手なら、むざむざ死にに行くようなものだ」


 二人のやり取りを、商人たちは不安げな顔で聞いていた。それがまた、燐子の逆鱗を撫でたため、彼女は商人たちを睥睨しながら言った。


「そもそも、なぜ人に縋る。自分の家族ならば、人に頼らず、自らの手で救い出そうとは思わんのか」


 燐子の辛辣な言葉は、人々の胸を苛んだ。それが正論であれば、なおのこと刃は鋭かったことだろう。


 どよめく周囲のことなど気にも留めずに、二人は互いの瞳の奥を見透かそうとするかのように見つめ合った。


「誰もが戦う力を持っているわけじゃないのよ」


「それは弱者の理屈だ」


「アンタのそれこそ、強者の理屈でしょ」


 ミルフィが毅然と返す。


「その弱者を守るのが、強者の仕事だとは思えないの?」


 力なき民を守る、か。


 確かに、侍のあるべき姿として正しいのかもしれない。


 だが、この世に侍はいない。そして、そこに讃えられるべき誇りもない。


 そんな中で、何を求める?


「生きるに値しない、って言ってたわよね」


 じっと、ミルフィの言葉を待つ。


(私は何を期待しているのだろう?目の前の自分と変わらないぐらいの女に、何を待っているのだ)


「だったら、つべこべ言わずに、その無用の命をかけて困ってる人を助けなさいよ!」


 苛烈な眼差しだった。


 鍛冶場の炉で燃え盛る炎より、ずっと熱く、鮮やかで、美しい。


「とにかく、私は行くから!」


 ドスドスと足音を立てて、一団のほうへと離れていくミルフィ。その意地っ張りというか、向こう見ずな背中に、ため息混じりで声をかける。


「どうやって行くつもりだ?」


「うっ…」


「まさか、歩いて戻るのか?」


「そ、そうよっ!」


 はぁ、とため息を吐く。


 この調子では、本気で徒歩で戻りそうだ。


 そうなると、いよいよ時間の無駄になる。


 自分は、危険を冒すのが怖いのではない、ただ単にそうしなければならない理屈が分からないだけだ。


 彼らがなけなしの勇気を振り絞り戦うのであれば、自分も率先してその矢面に立つだろう。


 それがない以上、本来は手を貸す必要もないと思ったのだ。


(ただ…ミルフィは覚悟を示した。こいつは、自分と同じ無関係者のくせに、だ)


 もう何回目かも分からないため息を吐いた燐子は、商人たちのところにいる毛並みの良い馬を見やると、「おい」と声をかけた。


「な、なんでしょう」


「その馬をよこせ」


「あ、あの馬をですか…?」


 商人が振り向く先には、立派な馬が一頭。


 美しい栗毛が木漏れ日に照らされて、その筋骨隆々とした体をゆっくりと上下させている。


 大人しく優しそうな瞳だが、そのうちに秘めたる気性の荒さが、鼻息に如実に表れている。


「あのぉ、どうしてでしょうか?」


 それでふっと現実に戻ってきた燐子は、数秒間だけ瞳を閉じて心を落ち着かせると、無感情な声音で告げた。


「私も行く。だが、徒歩で行っても意味はなかろう。せめて、その馬をよこせ」


 燐子が言葉を発したのがよっぽど驚きだったのか、ミルフィも含めた全員が目を見張り、彼女を見据えた。


「り、燐子…!」


「お前を死なせるわけにはいかん」


 真っ直ぐ、ミルフィの瞳を貫く。どうしてか、彼女の頬が紅葉を散らしたみたいに赤くなった。


 すっと視線を逸らしたミルフィが、酷くあどけなく見えて、燐子の心のうちがほんの少し揺れる。


(さっきまでの顔つきとは大違いだ。急にそんな顔をされると、落ち着かんではないか…)


 動揺を悟られぬよう、早口で言葉を紡ぐ。


「…勘違いするな。エミリオやドリトン殿に、申し訳が立たんからだ」





「こ、こんなに揺れるの!?」


 自分の後ろに乗ったミルフィが叫ぶ声が、風を切る音に混じって燐子の耳に聞こえてくる。


「あぁ、だから言っただろう。しがみついておけと」


「嫌よ!アンタにしがみつくなんて、絶対に嫌!」


 駆け出す前に、振り落とされると危ないから背中にしがみついておけと命じたのに、道理の通らない意地を張って、ミルフィは鞍に両手で掴まっている。


 普段なら、小言の一つも言いたくなるミルフィの態度であったが、今はそんな気分にはならなかった。


 随分と久しぶりに、馬で大地を駆けている。


 彼らは、人間では到底及びもしない速度で、この世界を巡る風に追いつこうと駆けていくのだ。


 こうして馬の背に跨り、風を感じていれば、あの頃も、嫌なことは一切合切忘れることができていた。


 思わず上機嫌になって、燐子は背後を振り返る。


「風が気持ちいいな、ミルフィ」


 ミルフィはきょとんとした表情でこちらを見つめた後、優しくも、呆れに満ちた笑みを刻んで燐子の目を見据えた。


「ええ、ちょっと揺れるのが怖いけど」


「それがいいのだ。…今は、何もかも忘れられる」


「忘れるのはいいけど、気は抜かないでよ、燐子」


 ミルフィがそう言った瞬間に、二人の姿を幾重にも広がる濃い影が覆った。


 例の道に入ったのだ。


 生い茂る木々が頭上に広がり、やけに冷たい湿気を帯びた空気が、泥の隙間からあふれ出してきている。


 燐子は細心の注意を払いながら、段差やぬかるみを避けて、奥へ奥へと巧みな馬術で駆けていく。


 記憶の底をさらうのは、ここまでだ。


 足場が悪くなるにつれて、馬上の揺れも激しくなっていく。


 ついに耐えられなくなったのか、ミルフィもようやく素直に燐子の腰に手を回して、辺りの様子を窺い始めた。


 どれだけ目を凝らしても、広がる限りの泥の森。


 その粘着質な重みに塞がれるかのように、二人の間から会話がなくなっていた。


 もう三十分も駆けているだろうか、というところで、事態に動きがあった。


「見て、燐子!」


「ああ」


 数十メートル先の光景に焦点を合わせ、渋い顔をしてみせる。


 眼前に近づきつつある一つの残骸。


 車輪も馬もいなくなってしまった、馬車とは呼びようのないそれを凝視し、ゆっくりと馬の速度を緩める。


「…やはり、間に合わなかったか」


 馬が横たわっていただろう溝には、夥しいほどの鮮血がこぼれ、泥に混じっていた。


 思わず、身震いをする。


(馬を跡形もなく食ったのか?なんという…)


 周辺に人の姿はない。


 ミルフィが辺りを警戒しながら地面に降りた。血溜まりに顔をしかめつつも、彼女はそろりと馬車の残骸に近づき、中の様子を確認した。


「気をつけろ」


「分かってるわ」


 それからすぐに彼女が残骸の裏から顔を出し、悲壮感にあふれた顔で首を左右に振った。


「誰もいないわ…」


 情けのない声で、「やっぱり、もう…」とぼやいたミルフィを馬上から見下ろした燐子は、もう一度周囲の確認をすると、地面に鮮やかに降り立ち、自分も残骸の周りを観察した。


 やはり、何かが暴れたようだ。木製の馬車は歪み、金具も吹き飛んでいる。


(本当にこのような巨躯を持つ生物が存在しているのか…?万が一、こんなものに襲われれば、人間などひとたまりもないぞ…)


 泥についた足跡や爪痕などの痕跡も、その持ち主の大きさを物語っており、燐子はごくりと無意識のうちに喉を鳴らした。


「燐子」


 考え事をしていた彼女は、名前を呼ばれてすぐにミルフィの元へと移動する。


「これ見て」


 ミルフィが地面に向けた指先を追うと、そこには、明らかに巨体が通っただろう獣道ができあがっていた。泥と木々を押しのけ、へし折り、進んだ痕跡だ。


「まだ、間に合うかもしれんな」


「早く行きましょう!」


 燐子は馬の鼻面を撫でて、危険なときは逃げるように優しく囁いたあと、ミルフィとその道の奥へと進むことに決めた。


「油断するなよ」


「そっちこそ」


 お互いに全神経を集中させつつ、忍び足で奥へと進んでいく。


 先へ行けば行くほどぬかるみは酷くなり、天井に広がる木々もその密度を増して、夕方のような闇を辺りに充満させている。


(…死地の匂いがする)


 燐子は、自然と察していた。


 かすかに漂ってくる、様々な生き物の気配。


 光の濃淡が生み出す死角。


 つい最近まで、自分が身をおいていた戦場とはまた趣が違うが、ここもきっと似たようなものだ。


 ぺろり、と舌なめずりする。


 気が急いていることが自分でも分かった。


 獣道らしきものが途絶えれば、大きな木が立つ、少しだけ開けた場所に出る。


 ここで終わりなのか、と不審に思って燐子ははたと足を止める。


 周囲を見渡していたミルフィに無言で目配せをして、警戒を怠らないように伝える。


(奇妙だ。確かに生き物らしきものの痕跡はここまで続いていたはずだが…)


 人が死んだような痕跡も見当たらない。


 上手く逃げたのか?いや、そんなはずはない。道中、人に会わなかったし、すぐさま逃げ帰っていたのだとしたら、すでにキャンプ場に到着しているはずだ。


 ふと、燐子の視界に妙なものが映った。


 それは、とても鮮やかな色をしていたため、彼女の注意を引いた。


 泥の少ない地面に膝をついて、それを手に取る。


「人形か?」


 不意に、頭上に何者かの気配を感じ取って反射的に顔を上げる。


「あ」と小さく声が漏れたのが聞こえた。


 不自然に動きを止めた燐子の視線を素早く追ったミルフィが、ぱぁっと明るい顔つきをして大声を出す。


「良かった、無事だったのね!」


 大きな樹木の上に登っていた数人の人間たちと目が合う。おそらくは例の商人だ。


 彼らはおかしなことに、誰一人として助けが来たことに喜ぶ素振りを見せず、みんなが一様に怯えた表情をたたえていた。


 なぜ、そんなところにいる。


 そう燐子が尋ねようとした刹那、こちらを見ていた幼い少女の口元に意識が吸われた。


『う、し、ろ』


 その言葉が、やけにゆったりと脳内で変換される。


 瞬間、燐子は凄まじい悪寒に肌を粟立たせながら、刀の柄に手をかけて素早く抜刀し、背後を振り返った。


「ミルフィ!」


 驚いた顔をしているミルフィを片手で引き寄せ、目の前へ飛んでくる槍のような先端を刀で弾いた。


 ギィン、と高い音が鳴る。


「きゃっ!?」


 胸の中でミルフィが悲鳴を上げているが、今はそれどころではない。


 槍と錯覚するほどに鋭利な先端が、ゆらりと水草のように揺らめきながら、奴の背後へと戻っていく。


 その距離感を計算しながら、ゆっくりと腕を解き、言葉も失ったらしいミルフィを自分の背後へと下がらせる。


(…まるで気配を感じなかった)


 燐子はほぞを噛みながら、目の前の敵を素早く観察する。


 ハイウルフの数倍大きい巨躯、泥のついた黒と茶色の外殻、槍のようになっている細長い尻尾。


 三本の指に装着された強靭な爪、トカゲを肥大化させたような頭、極めつきには、口の間からはみ出している何本もの大牙。


 まともな生物とは、とても思えない。


 それほどまでに馬鹿げた凶暴さがそこには存在していた。


 こいつは危険だ、ミルフィがあれほど言うのも分かる。とても個人の手に負える代物とは思えない。


 戦うか、逃げるか、その比重が後者に傾きかけたとき、頭上で誰かが呟く声が聞こえた。


「…た、助けて」


 とても弱々しい声だった。だが、燐子がその場に留まることを選ぶには、それだけで十分だった。


 ――…腹を括る。


「ミルフィ、やるぞ」

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