三章 駆ける、光

第8話 駆ける、光.1

 幾重にも伸びる水流は地平の果てまで続いているように思えたが、次第に水脈は収束し、一帯は大きな湿地に変わりつつあった。


 ぬかるんだ足場は避けて、街道沿いを歩いていく。


 カランツの山中から、放射状の河川を辿り、数時間ほど進んでいくことで、この湿地帯に出られる。


 その道程は決して楽なものではなかった。


 繰り返し現れる妖怪じみた獣――魔物たちのせいである。


 以前相手にしたハイウルフほどではないものの、徒党を組んでこちらに襲いかかってくるものだから、決して気が抜けない時間が続いている。


「普通、こういうときは馬を使うものではないのか」


 燐子の言葉に呼応するかのごとく、少し離れた水辺で魚らしきものが水中から飛び上がり、水面に波紋を作る。


 水、水、水。


 日の本にいた頃にはあまり馴染みのない景色である。


「馬車なんて使うわけがないでしょ、高いのよ、アレ」


「馬車ではなく、馬だ。馬にまたがって行けば、もう到着している頃ではないのか」


「え、燐子、馬に乗れるの?」


 ミルフィが意外だという様子で目を見張る。


「馬鹿にするな」


「なによ、馬鹿になんてしてないわ、感心しただけでしょ。騎士団でもなければ、馬になんて乗らないのよ!」


 思いのほか正論が返ってきて、文句の言いようがなかった燐子は、一つため息を吐いた。


 荒れた街道沿いを進む二人は、何かといえば小言を言い合っていたが、段々と燐子のほうは口数が減っていった。


 日が昇ってから歩き始めて、夕暮れまでろくに休憩も取らず足を動かしていたものだから、さすがの燐子ものしかかるような疲労感を覚え始めていたのだ。


「少し休憩しよう」


「なに?もう疲れたの?」


 燐子の提案に対し、ミルフィが勝ち誇った顔でそんなことを言うものだから、負けず嫌いの燐子は、一度止めた歩みを無言のまま再び動かし始めた。


「別にいいのよ、疲れたんでしょ?燐子ちゃんは」


 明らかな挑発を受けた燐子は険しい表情を浮かべ、黙々と遠くを見据えた。


 湿原に広がる水面の上に、赤く燃える夕日が映り込んでいる。


 山の向こうへと落ちようとしている夕日を、水面越しに見ていた燐子は、ややあって、ふと、足を止めた。


「どうしたの?」


 真面目な顔をして問いかけたミルフィは、燐子の目線の先をたどってから、首を傾げる。


 灼熱に煌めく黄昏の光は、やけに眩しく、燐子の黒曜石を象ったような瞳に反射している。


 その跳ね返った輝きが消えるのを惜しむように、燐子はゆっくりと、だが、強く目を閉じた。


 そうすることで、朱色の光を、永遠に目蓋の裏側に閉じ込めておける気がしたのだ。


「ミルフィ」


「な、なによ」


「…休憩しよう」




 ミルフィは、手頃な場所を選んで燐子と共に腰を下ろした。


 しばらくは二人とも黙っていたが、夕日の半分ほどが山陰に隠れたところで、燐子が静かな口調で呟いた。


「私は、父の亡骸の前で腹を切れなかったことを…死ぬほど後悔している」


 普段のミルフィなら、その発言に対して、文句の一つでも返したであろう。だが、今回は燐子の様子が明らかに違った。


 思い詰めるように、あるいは全てを受け入れようとするかのように、凪いだ湖面のような穏やかさと諦観をまとっていた。


「あっそ…」


 ミルフィは小さく返事すると、燐子にバレないよう横目で彼女の顔を観察した。


 白い頬に、整った顔つき。頑固さと気高さを兼ね備えた、歳不相応の貫禄のある瞳。


(…ま、見た目だけは良いわね。本当、見た目だけは)


 彼女は、燐子が再び口を開くまでの間、オレンジ色の光に照らし出された燐子の横顔を黙って眺めていた。


「それができなかった結果がこれだ」


 ぽつり、ぽつりと吐き出す。


「私を知るものはおろか、武士も侍もいない…この世は、あの日、腹を切り損ねた私にとって、生きるに値しない」


「また、それ?」


 横目で燐子がミルフィを一瞥したことで、二人の目線が交わった。


 泣いている、と初めミルフィは思った。


 しかし、すぐにその輝きは、燐子の目に反射した死にかけの陽光だということに気がつく。


「だが…」


 燐子が再び夕焼けに目を戻す。


 もう、日が落ちそうだ。


「――この世界は、本当に美しい」


 次にミルフィを見つめた瞳は、確かに濡れていた。


 瞳を波打たせる燐子を、唖然とした表情で見ていたミルフィは、彼女に言ってあげられる言葉を何も持ち合わせていないことに気がついて、その奇妙な悔しさに歯噛みした。


 今、燐子に何か言ってあげられたら。


 せめて慰めの言葉一つでもかけてあげられたなら…。


 そうミルフィは考えたが、きっとそんなもの、燐子が望んではいないことも分かっていて、行き場のない無力感を覚える。


「時折、自分が生きている意味を忘れてしまいそうになるのだ」


 燐子の瞳から、雫があふれるのではないかと、恐ろしくなった。


「…意味なんて、きっと誰も持ってないわよ」


 その言葉を耳にして、燐子は小さく自嘲するように笑う。


「私はそうでなかった、持っていたのだ。死するに値する、意味を」


 一つ、嘆くようなため息がこぼれた。


「だが、それも今となっては無意味だ。花の咲かない蕾と同じ。生きていても、死んでいても変わらない。そのはずなのに…」


「燐子」


 名前を呼んでも、彼女は止まらない。


「運命の激流が私を押し流そうとしている。分かるのだ。どうにもならないほど、強い流れの中にあると。今までの私を否定する濁流が――」


 これ以上、聞いていられない。


「やめてよ」


 ミルフィの心からの嘆願を耳にした燐子は、我に返ったように目を大きく開くと、苦虫を噛み潰したような顔をして呟いた。


「忘れてくれ」





 侍の誇りのために死なねば、と思っている自分がいるのは確かだ。


 だがここには、自分が義を全うした後に、誇りを讃えてくれる人間が一人もいないこともまた確かである。


 そんなものに関係なく、自分の中の信念だけに従っていたいのに、腹を切った後に残る惨めで孤独な残骸を想像すると、恐ろしくなってしまう。


 結局、人間は、自分と他人とを照らし合わせてしか、己の価値を見定められないのだろうか。


 だとしたら、どうすればいい。


 日の本の人間はこの世界にはいない。どうやって真の自分を見定めるのか。


 この世界では自分だけが異端だ。


 もう気づいている。どこに行ったって、自分の覚悟を讃えてくれるものはいない。


 ミルフィが何か言おうとしているのが、その小さな身動きで察せられる。


 燐子は、それを拒否するために立ち上がった。


「もう大丈夫だ。行くぞ」


 すでに夕日は、山の向こうに沈みきってしまっている。


 山頂が燃え上がるように輝き、二人の進むべき道に一条の光が差す。


 その光の下へ、燐子は再び歩き出した。


 水草が無数に浮かぶ水面が、街道の右手にどこまでも続いており、左手には鬱蒼とした木々と、泥ばかりが侵食している沼地が広がっていた。


 そのうち、分かれ道に差しかかった。


 すっかり瑠璃色に染まった夜空の星を見上げたミルフィが、迷いなく行く先を示す。


「こっちね」


 ミルフィによれば、もう一時間も歩き通せば、湿地帯の終わりに設営されている休息地にたどり着くそうだ。


「近道はないのか?」


「あのねぇ、あればそっちに行っていると思わない?」


「…それもそうだな」


 ミルフィは肩を落とした燐子を見て、エミリオにするように困った表情で笑うと、ぽつりと呟いた。


「まぁ、今が秋の初めか、冬だったなら、使える道もあったんだけどね」


「なに?」


 ミルフィが放ったその一言に、ぴたりと隣を歩いていた燐子が動きを止める。


「今…、秋、それに冬と言ったか?」


「ん、ええそうよ」


「ではこの世界にも、四季があるのだな?」


 興奮した様子で詰め寄ってきた燐子に、驚き硬直したミルフィは、「あ、あるわよそりゃあ…」と力無く囁いた。


 燐子にとっては、嬉しい誤算である。


 当然あるものが、ない。


 そのような経験をひたすらに繰り返してきた燐子にとって、今回のことは俯き気味だった心に与える希望としては十分すぎるものであった。


「となれば今は春か」


「ええ、春も終わりに近づいているけど…」


「そうか…それで、季節によって使える道が違うのはなぜだ?」


「あぁ、それね」


 ミルフィは薄ら返事をすると、道に転がった石ころを蹴り飛ばし、その石ころが水面に作った波紋を興味なさげに見送った。


「その道は、春から夏にかけては、手に負えない魔物が出てくるのよ。さっきの分かれ道なんだけど」


「手に負えない魔物、か」


 なるほど、見てみたい気もしないでもない。


 燐子は、この世界の生き物に関しても強い興味を抱いていた。


 日の本にいた頃からは想像もできないほどに凶暴な生き物や、不思議な生き物がゴロゴロ存在している。


 今のところ、命の危機を全身で感じるような相手とは出会えていない。しかし、それも時間の問題のような気もしていた。


「興味深いな」


 言わずにおこうと思っていた言葉が、口をついて出てしまった。


「は?駄目よ、本当に危ないんだから。ハイウルフなんて目じゃない怪物がいるのよ?何があったってそんなリスクは負わないわ」


「分かっている、そう口うるさく言うな」


 別に負けるとは思わないがな、と意地を張る相手もいないのに、燐子は頭の中で唇を尖らせていた。






 ざわつく鳥のさえずりに混じって、外のほうから騒がしい人の声が聞こえてくる。


 その声で覚醒した燐子は、隣の寝床がもぬけの殻になっているのを確認すると、重い体を無理やり起き上がらせた。


(なんだ…?)


 天幕の隙間から外を覗くと、十人近い人々が輪になって荒い口調で話し合っていた。その中心にはミルフィの姿もある。


 昨夜やっとの思いでキャンプ場まで到着した二人は、空いている天幕を借りて泥のように眠っていた。


 燐子は一先ず、顔でも洗ってこなければと天幕から身を出した。


 近くの水場で顔を洗い、口をすすぐ。


 湿地とは違う澄んだ清流の水が、朝の粘ついた気分をすっかり消し去ってくれた。


 燐子は、顔についた水分をシャツの袖で拭き取りながら、例の集団に近づき顔を出した。


「どうしたのだ、日も昇らぬ前から」


「燐子、アンタ寝てたんじゃないの?」


 質問に質問で返されたことで、燐子はムッとした面持ちになる。そのうち、彼女の代わりに他の人が質問に応じた。


「それが、彼らの二番車が、まだこのキャンプ地に到着していないみたいなんだ」


 ミルフィの代わりに口を開いた中年の男性は、少し離れたところで、不安と悲壮に沈んだ商人らしき一団のほうを指差しながらそう答えた。


 一団の中には、思いつめたように俯いている男や、泣きじゃくっている子どもの姿がある。


 ただごとではないらしいが…。


「その二番車は、昨日話したほうの近道に進んじゃったみたいなのよ」


「凶悪な魔物がいると言っていた道か」


「そう」


「商いの達人が、どうしてそんな過ちを犯したのだ」


「昨夜遅くは、濃い霧が出てたらしいのよ。それで、道を間違えたんじゃないかって…」


「なるほどな」


「誰かが助けに行ったほうがいいのは間違いないんだけど、あそこは危ないから、みんな足踏みしちゃってるのよ」


 燐子は、深刻そうな表情でああでもない、こうでもないと話し合う面々を一瞥すると、黙ったまま踵を返し、天幕に戻ろうとした。


「ちょっと、どこに行くのよ!」


 責めるような声をぶつけてくるミルフィを、ゆっくりと振り返る。


「寝る」


「はぁ?」


 言わねば伝わらないか、と燐子は無感情な様子で呟く。


「私には関係ない。今はしっかりと体力を回復して、残りの旅路に備える」


 あまりに冷酷な一言にミルフィは、慌てて燐子を引きずって、自分たちの天幕の前へと移動させた。それから、急に般若のような顔つきになって、小声で怒鳴りつける。


「アンタねぇ、言うに事欠いてあんなこと言うなんて…もう少し周りの人の気持ちを考えなさいよ!」


「考えてどうなるのだ」


「下手したら、誰か死んでるかもしんないのよ!?」


 ミルフィの発言に、燐子は面倒くさそうに口元を歪める。


「死んでいる、だと?」


「そうよ」


「そんなことは、別に珍しくもなんともない。戦火舞う時代において、何も失っていない人間のほうがよほど珍しかろう」


「それとこれとは、別問題よ」


「魔物の被害はどこにでもあると教えたのはミルフィだろうに…」


 ミルフィが強く自分を睨む中、一際大きな声で、小さな男の子が泣き声を上げたのが聞こえた。


 それを聞いて、燐子は合点がいった。


「…エミリオを重ねたか」


 図星を突かれたらしいミルフィは、焦ったように視線をさまよわせて吃り、適当な理由をつけてごまかそうとしていた。だが、彼女の本心はもうすでに透けて見えている。


「日頃のミルフィの態度を鑑みれば、まぁ、無理もないことだろうが…それで、私たちに何ができる」


 ミルフィは正論により言葉を詰まらせたのだが、ややあって、燐子に顔を近づけると、声を潜めて早口で提案した。


 すぐそこに迫ったミルフィの首元から、ふわりと良い香りがした。


「あのさ、いや、まあアンタの言うことも一理あるわけだけどさ、あの…何とかしてあげられないかなぁ?」


「おい、ミルフィ…」


「いや、だってさぁ」


 ミルフィは未だに険しい目つきをしている燐子からさっと目を逸らすと、少しの間おさげの先をいじっていたが、そのうち、俯き気味のまま呟いた。


「…かわいそうじゃん」


 ほんの少し首の角度を変えて自分を上目遣いで見つめてくるミルフィに、燐子は得も言われぬ感情によって、一瞬だけ息が詰まった。しかし、これでほだされてはならない、と小さくため息を吐いて腕を組んだ。


「ミルフィ、お前、言っていることが無茶苦茶だぞ。昨夜は、なにがあってもその道は通らんと言ったではないか」


 燐子がそう言っても、ミルフィは結局もう一度、「だって、可愛そうじゃん」と呟いただけだ。


「そもそも、またあの道を戻るのか?」


 寝る間も惜しんで、数時間をかけてここまで歩いて来たのに冗談ではない。


 そもそも、助けが間に合うとも思えない。


「一時の感情に惑わされて、無駄足など踏むべきではない」


「それは…」


「現実を見ろ、昨晩の話だぞ?何時間経ったと思っている」


 理詰めされるのが苦手なのか、それとも自分の中で必死に葛藤しているのか、ミルフィはぶら下げた両の拳に力を込めて震わせて、唇を噛み締めていた。


「でもでも、分かんないじゃない!もしかしたら、まだ生きていて、怖い思いをしているかもしれないのよ…!?」


 駄々をこねる子どものような態度を重ねるミルフィに、次第に苛立ちを募らせていた燐子は冷酷な口調できっぱりと告げることにした。


「どうせもう、死んでいる」

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