第2話「崩れゆく砂の城」

 五月の爽やかな風が東京大学のキャンパスを吹き抜けていた。桜の花びらは散り、新緑の季節を迎えようとしている。村上香織は研究室の窓から外の景色を眺めながら、何かを探すように目を細めた。何を探しているのか、自分でもよくわからない。ただ、何か大切なものを忘れている気がして仕方がなかった。


「先生、そろそろ講義の時間です」


 佐々木涼子の声に、香織は我に返った。


「ええ、ありがとう。資料は……」


 香織は机の上を見回した。いつもなら完璧に整理されているはずの講義資料が見当たらない。


「こちらです」


 涼子は微笑みながら、すでに準備されたファイルを手渡した。


「あら、ごめんなさい。準備してくれていたのね」


「いいえ、先生が昨日のうちに用意されていたものです。デスクの引き出しに入れられていました」


 香織は少し困惑したが、すぐに微笑みを浮かべた。


「そうだったわね。ちょっと頭が働いていなくて」


 講義室に向かう途中、香織は自分の記憶の曖昧さに不安を覚えた。最近、こうした小さな忘れ物や勘違いが増えている気がする。単なる疲れだろうか。バルセロナでの国際学会が迫る中、論文執筆と講義の準備、そして家事と育児に追われる毎日。誰でも少しは物忘れをするものだと自分に言い聞かせた。


 講義室に入ると、いつものように学生たちが香織を迎えた。彼女は深呼吸して気持ちを切り替え、授業を始めた。


「今日は認知バイアスが社会的判断に与える影響について考えていきましょう。まず、確証バイアスの例を挙げると……」


 香織は流暢に話し始めた。これまで何度も講義してきたテーマだ。学生たちも熱心にノートを取っている。ところが、説明の途中で突然、彼女の頭の中が真っ白になった。次に何を話すべきか、完全に忘れてしまったのだ。


 一瞬の沈黙。教室全体が静まり返る。学生たちの視線が彼女に集中した。香織は焦りを感じながらも、落ち着いた表情を保とうと努めた。


「すみません、少し話が脱線してしまいました」


 そう言って、手元のノートを慌ただしく確認する。しかし、そこに書かれた自分の文字が、一瞬よく理解できなかった。冷や汗が背中を伝う。


 何とか講義を続け、予定していた内容を教えきったものの、香織の心には不安が残った。講義後、研究室に戻った彼女は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。


「疲れているだけよ」


 そう自分に言い聞かせたが、心の奥では、何か深刻な問題が潜んでいるのではないかという恐れが芽生え始めていた。


 その夜、香織は美月の宿題を見ているとき、娘の質問に答えられない瞬間があった。


「ママ、この漢字、どう読むの?」


 美月が指さした漢字は、普段なら即座に答えられるはずのものだった。しかし、香織の頭の中では、その読み方が思い出せなかった。


「ええと……」


 香織は必死に記憶を探った。


「『逡巡』だよ。『しゅんじゅん』って読むんだって」


 美月が辞書で調べて答えた。


「そうね、その通りよ」


 香織は笑顔で答えたが、内心では動揺していた。小学校の漢字ではないその難しい単語を、娘に教えられるなんて。これまでの自分なら、絶対にこんなことはなかったはずだ。


 一週間後、バルセロナでの国際学会が始まった。香織は緊張しながらも、準備してきた発表を無事に終えた。質疑応答では、鋭い質問にも的確に応えることができ、一時的な調子の悪さだったのかもしれないと安堵した。


 学会の合間に、香織は妹の静香と再会した。二年ぶりの対面に、二人は抱き合って喜びを分かち合った。


「お姉ちゃん、相変わらず素敵ね。研究者のオーラがますます強くなったわ」


 静香は姉を眺めながら微笑んだ。医療ジャーナリストとして活躍する彼女は、香織よりも五歳年下の三十七歳。姉とは対照的な自由奔放な性格で、未婚を貫いていた。


「あなたこそ、世界中を飛び回って。今回の記事はどんなテーマなの?」


「最新の神経科学研究よ。特に認知症の早期発見と治療に関する新しいアプローチについて」


 二人はタパスバーで夕食を取りながら、それぞれの仕事や生活について語り合った。香織は美月の成長ぶりを誇らしげに話し、静香は最近取材した最先端の医療技術について熱く語った。


「それにしても、お姉ちゃん、少し疲れてない?」


 静香の鋭い指摘に、香織はワイングラスを持つ手を一瞬止めた。


「そんなこと分かるの?」


「ジャーナリストの勘よ。それに、お姉ちゃんのことはよく知ってるから」


 香織は少し迷ってから、最近の物忘れや講義中の出来事について話した。


「きっと疲れてるだけよ。シングルマザーで、教授の仕事もこなして……誰だって限界があるわ」


 静香は優しく姉の手を握った。


「それでも、念のため、帰国したらちゃんと検査してみたら? 私の取材先の先生を紹介するわ」


「そこまでする必要はないと思うけど」


「予防は治療に勝るのよ。約束して?」


 香織は最終的に了承した。静香の心配を和らげるためだけのつもりだった。


 帰国後、香織の状態は一時的に安定したように見えた。講義も研究も順調に進み、美月との時間も大切に過ごした。しかし、七月に入ると再び異変が現れ始めた。


 研究室で重要なデータを分析する際、香織は基本的な計算で間違いを犯した。涼子がそれを発見し、静かに訂正した時、香織は言い訳ができなかった。


「すみません、ちょっと確認させてください」


 涼子は懸念を隠しきれない表情で香織を見た。


「先生、お体の調子はいかがですか?」


「ええ、大丈夫よ。ただの集中力不足かもしれないわ」


 しかし、それだけではなかった。学部会議の時間を勘違いして欠席したり、同じ質問を短時間のうちに繰り返したり、さらには研究室の鍵を頻繁に紛失するようになった。


 ある金曜日の夕方、香織は予定していた美月の習い事のお迎えを完全に忘れてしまった。慌てて学校に駆けつけると、美月は一人、校門で待っていた。


「ごめんなさい、美月。ママ、すっかり忘れてたの」


 美月は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「大丈夫だよ。先生が一緒に待っててくれたし」


 その夜、美月が寝静まった後、香織は静香が紹介してくれた神経内科医の連絡先を見つめていた。バルセロナから帰国してから約一ヶ月、状況は良くなるどころか悪化している。もはや「疲れているだけ」という言い訳は通用しない。彼女は深い息を吐き、予約の電話をかけることを決意した。


 神経内科の徳永真理子医師との初診は、香織の恐れを現実のものにした。簡単な認知テストで、香織は思いがけない間違いを犯した。時計の文字盤を描く課題や、短期記憶のテストで明らかな異常が見られたのだ。


「村上先生、いくつかの検査をさせていただきたいのですが」


 徳永医師の静かな声には、専門家特有の冷静さがあった。香織は黙って頷いた。


 その後二週間、香織はMRIやPET、髄液検査など様々な検査を受けた。結果が出るまでの間、彼女は普段通りの生活を続けようと努めた。しかし、心の中では最悪の事態を予感していた。


 研究室では、涼子が以前よりも積極的にサポートしてくれるようになった。香織が忘れたことを自然にフォローし、ミスを目立たないように修正してくれる。それに気づいた香織は、複雑な思いを抱えながらも感謝していた。


 徳永医師との次の面談の日、香織は一人で病院を訪れることにした。検査結果を持った医師の表情は、彼女の予感が的中したことを物語っていた。


「村上先生、申し訳ありませんが、が見られます」


 その言葉を聞いた瞬間、香織の世界が一瞬にして暗転した。四十三歳での認知症診断。それは彼女のキャリアだけでなく、美月の将来、そして人生そのものを脅かすものだった。


「確実なのですか?」


 香織の声は、普段の自信に満ちた調子とは違い、震えていた。


「現時点での検査結果と症状から、その可能性が非常に高いと判断せざるを得ません。若年性アルツハイマー病は稀ですが、四十代でも発症することがあります」


 徳永医師は丁寧に説明を続けた。初期の症状、進行のペース、利用できる治療法や支援サービスについて。香織は医師の言葉を聞きながら、自分の人生が砂時計のように、少しずつ、しかし確実に流れ落ちていくイメージを抱いた。


「予後は……どのくらいですか?」


「個人差がありますが、早期発見できたことは大きなアドバンテージです。最新の治療薬で進行を遅らせることも可能です。ただ、完全に止めることはできないと、正直にお伝えしておきます」


  香織は黙って頷いた。研究者として、彼女は真実を求める人生を送ってきた。今、その真実が残酷なものであっても、向き合わなければならない。


「今後どうすればいいですか?」


「まずは定期的に通院していただき、薬物療法を始めましょう。また、ご家族への告知も考えていただきたいです」


 家族への告知。香織の頭に美月の顔が浮かんだ。八歳の娘に、どうやって母親が少しずつ記憶を失っていくことを説明すればいいのだろう。そして、京都に住む父親、そして……静香。


「考えておきます」


 診察室を出た香織は、病院の廊下でしばらく立ち尽くしていた。窓から差し込む午後の日差しが、白い壁に鮮やかな影を作っている。その光景が妙に印象的に見えた。これからの人生で、私はどれだけの美しい瞬間を覚えていられるだろうか。


 家に帰る途中、香織は公園のベンチに座り込んだ。スマートフォンを取り出し、静香に電話をかけた。


「もしもし、お姉ちゃん?」


 静香の明るい声に、香織は言葉を詰まらせた。


「静香、今どこ?」


「東京だよ。昨日帰国したばかり。どうしたの? 声が変よ」


 香織は深呼吸をして、診断結果を伝えた。電話の向こうで、静香が息を呑む音が聞こえた。


「今すぐそっちに行くわ。場所を教えて」


 三十分後、静香は香織の座るベンチに駆け寄ってきた。姉を見るなり、静香は言葉もなく抱きしめた。


「どうして……」


 静香の震える声に、香織は妹の背中をさすった。


「運命ね。でも、まだ絶望するには早いわ」


 二人は並んでベンチに座り、これからについて話し合った。静香は取材で得た最新の治療情報を共有し、香織は現実的な問題について考えを述べた。研究の行方、大学での立場、そして何より美月のこと。


「美月には、どう伝えるつもり?」


「まだわからないわ。でも、嘘はつきたくない」


 夕暮れ時、二人は香織のマンションに向かった。美月はシッターさんと一緒に夕食の準備をしていた。叔母の突然の来訪に、美月は飛びついて喜んだ。


「しずかおばちゃん! いつ来たの?」


「昨日帰ってきたの。美月ちゃん、また大きくなったわね」


 その夜は三人で楽しい時間を過ごした。香織は診断のことは一切口にせず、美月が寝た後で静香と再び話し合うことにした。


「明日、学部長に会うつもりよ」


 香織が言うと、静香は驚いた表情を見せた。


「もう? もう少し考える時間を取ったら?」


「考えれば考えるほど、言い出せなくなるわ。それに……」


 香織は窓の外を見やった。


「最近、講義中に完全に言葉に詰まることがあるの。学生たちにも気づかれ始めているわ」


 静香は姉の決意を尊重するように頷いた。


「一緒に行こうか?」


「ありがとう。でも、これは私一人でやるべきことよ」


 翌日、香織は学部長の山田教授との面談を終えて研究室に戻った。疲れ切った表情で椅子に座り込む彼女を見て、涼子は心配そうに近づいてきた。


「先生、大丈夫ですか?」


 香織は涼子の顔をしばらく見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


「涼子さん、あなたには話しておかないといけないことがあるの」


 香織が診断結果を伝えると、涼子の目に涙が浮かんだ。しかし、彼女はすぐに感情を抑え、研究者らしい冷静さを取り戻した。


「先生の研究は絶対に続けていきます。私がサポートします」


 その言葉に、香織は心から感謝した。しかし、現実は厳しかった。学部長との話し合いで、香織は学期末までは講義を続け、その後は研究顧問という形で大学に残ることになった。実質的な引退だった。


 次の難関は美月への告知だった。週末、香織は静香の助けを借りて、美月に病気のことを伝えることにした。


「美月、ママね、ちょっと病気なの」


 リビングのソファに美月と並んで座り、香織は優しく語りかけた。


「風邪?」


「いいえ、もう少し長い病気なの。ママの頭の中で、少しずつ記憶が消えていってしまう病気なの」


 美月は不安そうな表情で香織を見上げた。


「ママ、私のこと忘れちゃうの?」


 その質問に、香織の心が締め付けられた。


「そうはならないように、ママは頑張るわ。でも、時々おかしな行動をしたり、同じことを何度も聞いたりするかもしれない。そんな時は、優しく教えてくれる?」


 美月は真剣な表情で頷いた。


「約束する。ママが忘れても、私がいっぱい覚えておくから」


 その言葉に、香織と静香は涙をこらえきれなかった。八歳の少女の中に宿る強さと優しさに、二人は心打たれた。


「それでもママは、美月のお母さんであることに変わりはないからね」


 香織はそう言って、娘をしっかりと抱きしめた。


 診断から一ヶ月が過ぎ、香織の生活は大きく変わっていた。講義の回数を減らし、研究は涼子がメインで進めるようになった。薬物療法を始め、記憶力強化のためのトレーニングも日課となった。


 ある日の午後、香織は研究室の整理をしていた。長年集めた資料や書籍を分類し、重要なものは涼子に引き継ぐための準備だ。


 デスクの引き出しから一枚の写真が出てきた。博士号を取得したばかりの自分と、当時大学院生だった静香が写っている。二人とも若く、未来への希望に満ちていた。


「先生、これを見てください」


 涼子が持ってきた論文の校正を見ながら、香織は突然、ある理論の核心部分を説明できなくなっていることに気づいた。自分の研究の中核をなす理論なのに、その詳細が思い出せない。


「少し休憩しましょうか」


 涼子は香織の混乱に気づいて、さりげなく提案した。香織は感謝しながらも、自尊心が傷ついた。かつて学会で堂々と講演していた自分が、今は自分の研究さえ完全に把握できなくなっている。


 帰宅途中、香織は大学の正門前で立ち止まった。ここで過ごした二十年以上の月日。学生時代から教授になるまで、この場所は彼女のアイデンティティの中心だった。それが今、少しずつ失われていく。


 夕日に照らされたキャンパスを見つめながら、香織は自分の人生を振り返った。知性を磨き、学問の頂点を目指してきた日々。それが今、砂の城のように崩れ始めている。しかし、その崩れゆく砂の一粒一粒には、彼女の情熱と記憶が詰まっていた。


 マンションに戻ると、美月と静香が夕食の準備をしていた。


「おかえりなさい、お姉ちゃん」


 静香が優しく微笑む。彼女は仕事の調整をして、しばらく東京に滞在することにしたのだ。


「ママ、今日はカレーだよ! 私が作ったの!」


 美月が誇らしげに告げる。香織は二人を見て、温かい気持ちに包まれた。知性は失われても、愛情は残る。それが今の彼女の希望だった。


「ただいま」


 香織は笑顔で答えた。明日という日がさらなる不安をもたらすとしても、今この瞬間の幸せを大切にしたいと思った。砂時計の砂は確実に流れ落ちていくが、それぞれの砂粒が光を反射して美しく輝いている。その輝きを、できる限り長く心に留めておきたいと願った。

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