【短編小説】「砂時計の中の知性 ~流れ落ちる記憶と新たに育まれる絆~」
藍埜佑(あいのたすく)
第1話「頂点の日々」
東京大学本郷キャンパスの心理学研究棟に朝日が差し込み始めた頃、村上香織はすでに研究室で論文の校正作業に没頭していた。窓から差し込む柔らかな光が、彼女の肩にかかる長い黒髪に黄金色の輝きを与えている。四十二歳になった今でも、香織の容姿は学生たちから「知的美人」と密かに称されるほど整っていた。しかし彼女自身は、自分の外見よりも頭脳の方をずっと誇りにしていた。
デスクに広げられた論文には赤ペンで細かな修正が施されている。認知バイアスと意思決定の関係に関する最新の研究は、国際学会でも高い評価を受けていた。香織は眼鏡を上げて目元をこすり、腕時計を見た。午前六時三十分。朝早くから研究室に来るのは、シングルマザーとしての生活と研究者としてのキャリアを両立させるための、彼女なりの工夫だった。
スマートフォンの着信音が静寂を破る。
「ママ、今日の特別授業、忘れないでね!」
娘・美月からのLINEメッセージに、香織は思わず微笑んだ。
「もちろん覚えてるわ。午後三時ね。ばっちり予定入れてるから安心して」
返信を送りながら、彼女は心の中で学内会議のスケジュールを確認した。今日は学部会議があり、そのあとすぐに美月の学校へ向かう必要がある。タイトなスケジュールだが、娘との約束は絶対に守りたかった。
香織は立ち上がり、研究室の窓から広がるキャンパスの景色を眺めた。桜の木々が風に揺れ、早朝から勉強に励む学生たちの姿が見える。この景色を見るたびに、彼女は自分の歩んできた道を誇らしく思った。
二十代で博士号を取得し、三十代前半で准教授に就任。そして三十八歳で心理学部最年少の教授となった香織のキャリアは、多くの女性研究者の憧れだった。しかし、その裏には並々ならぬ努力と犠牲があった。特に、七年前に夫と離婚してからは、仕事と育児の両立に四苦八苦する日々が続いていた。
「香織先生、おはようございます。こんなに早くからお仕事ですか?」
声に振り向くと、助教の佐々木涼子が立っていた。三十二歳の涼子は香織の元で博士課程を修了し、現在は彼女の右腕として研究をサポートしている。
「おはよう、涼子さん。あなたこそ早いわね」
「先生に遅れをとるわけにはいきませんから」
涼子は微笑みながら、手に持っていたコーヒーカップを香織に差し出した。
「ブルーマウンテン、いつもの通り少しミルク入りで」
「ありがとう。あなたがいないと研究室が回らないわ」
香織は感謝の気持ちを込めて、コーヒーを受け取った。そのぬくもりが冷えた指先に心地よかった。
「そうだ、涼子さん。国際認知科学学会の発表資料、最終確認してもらえる?」
「もちろんです。でも先生、バルセロナでの学会まであと二週間ありますよ」
「準備は早いに越したことないわ。それに……」
香織はスマートフォンの画面を見せた。美月の学校行事のカレンダーが表示されている。
「発表直前は美月の音楽発表会と重なるの。できるだけ前倒しで準備を終わらせておきたいのよ」
涼子は理解を示すように頷いた。彼女は香織のプライベートな苦労を知る数少ない同僚の一人だった。
「わかりました。今日中に目を通しておきます」
二人は並んでデスクに向かい、朝の静けさの中で研究作業を始めた。窓の外では、キャンパスが徐々に活気づき始めていた。
午前九時。香織は「認知心理学特論」の講義のために教室へと向かった。大教室に入ると、百人以上の学生たちが一斉に静かになる。彼女の講義は常に満席で、他学部からの聴講生も多かった。
「おはようございます。今日は前回の続きで、意思決定における感情の役割について考えていきましょう」
香織は流暢に講義を進めていく。彼女の話し方には独特の魅力があった。難解な理論も身近な例えを用いて説明し、時折ユーモアを交えることで、学生たちの関心を引きつける。
「合理的だと思われている私たちの判断も、実は感情に大きく左右されています。例えば……」
彼女の講義は常に最新の研究成果を織り交ぜながら、学生に考える楽しさを教えることを大切にしていた。九十分の講義はあっという間に過ぎ、終了のチャイムが鳴ると、多くの学生が質問のために教壇に集まってきた。
質問に一つ一つ丁寧に答えながら、香織は時折腕時計を確認した。そろそろ学部会議の時間が近づいている。
「すみません、あと一問だけお願いできますか? 残りの質問は次回の講義の前か、オフィスアワーにお願いします」
最後の質問に答え終えると、香織は急いで研究棟の会議室へと向かった。途中、学内のカフェでサンドイッチを買い、歩きながら昼食を済ませる。
会議室では、学部長の山田教授をはじめとする心理学部のスタッフが集まっていた。香織は最後の一席に滑り込むように座った。
「ぎりぎりセーフね」
隣に座っていた発達心理学の金森教授が囁いた。同じく五十代の女性教授である彼女は、香織が助教だった頃からの良き相談相手だった。
「美月ちゃんの学校行事があるんでしょう?」
香織は小さく頷いた。金森教授は優しく微笑み、「頑張ってね」と囁き返した。
学部会議は予定通り一時間で終了した。香織は急いで荷物をまとめ、研究室に戻って必要な書類を取ると、タクシーを呼んだ。
タクシーの中で、香織は美月へメッセージを送った。
「あと15分くらいで着くわ。楽しみにしてるね」
返信はすぐに来た。
「待ってる! 今日ママに見せたいものがあるの!」
香織は画面を見つめながら、幸せな気持ちに包まれた。どんなに忙しくても、美月との時間は何物にも代えがたい宝物だった。
小学校に到着すると、授業参観のために集まった保護者たちで校庭は賑わっていた。香織は名札を受け取り、美月の教室へと向かった。
教室のドアを開けると、美月が一番前の席から手を振っているのが見えた。八歳になった娘は、香織の小さな頃の写真とそっくりだった。同じ黒髪に大きな瞳、ただ性格は香織よりもずっと社交的で活発だ。
香織は他の保護者たちと一緒に教室の後ろに立ち、特別授業が始まるのを待った。今日は「将来の夢」についての発表会だという。
一人ずつ前に出て発表する子どもたち。医者になりたい、パイロットになりたい、ケーキ屋さんになりたい……様々な夢が語られる中、美月の番がやってきた。
「私の将来の夢は、ママみたいな大学の先生になることです」
美月の堂々とした声に、香織は胸が熱くなるのを感じた。
「ママは毎日とっても忙しいけど、研究や授業で人の役に立っています。私も大きくなったら、心の勉強をして、悩んでいる人たちを助けたいです」
美月は誇らしげにスケッチブックをめくった。そこには香織が講義をしている姿や、二人で本を読んでいる様子が描かれていた。最後のページには「世界一かしこいママ」と大きく書かれている。
授業が終わり、子どもたちが下校準備をしている間、香織は美月の席に近づいた。
「素敵な発表だったわ、美月」
「ママ、見てくれてありがとう! びっくりした?」
「とても。ママみたいになりたいなんて、嬉しすぎて言葉が見つからないわ」
香織は美月を抱きしめた。小さな体から伝わる温もりが、疲れた心を癒してくれる。
「お腹すいた? 今日はどこか特別なところでお祝いディナーしましょう」
「やったー! じゃあ、イタリアンがいい!」
「そうね。美月の大好きなところに行きましょう」
母娘は手をつないで校門を出た。夕暮れの街は優しい光に包まれ、二人の長い影が寄り添っていた。
レストランでは、美月が学校であった出来事を嬉しそうに話し、香織はそれを微笑みながら聞いていた。パスタを食べながら、美月は突然真剣な顔で質問した。
「ママ、どうして研究者になったの?」
香織はワイングラスを置き、少し考えてから答えた。
「人の心がどうして動くのか、どうして人はそれぞれ違う考え方をするのか、それが知りたかったの。特に、なぜ人は時々自分に不利なことを選んでしまうのか、その謎を解きたくて」
美月は目を輝かせて聞いていた。
「難しそう……でも、すごいね」
「あなたも将来、自分が本当に知りたいことを見つけられるといいわ。それがどんなことでも、ママは応援するからね」
「うん!」
美月は嬉しそうに頷き、デザートのティラミスに舌鼓を打った。
家に帰ると、香織は美月の宿題を見てから、一緒にお風呂に入った。湯船の中で二人は向かい合い、美月は香織の長い髪を優しく洗った。
「ママの髪、すごくきれい」
「美月のも同じよ。わたしのママ、つまりおばあちゃんも同じ髪質だったの」
「おばあちゃんに会いたかったな」
香織の母は美月が生まれる前に亡くなっていた。健在なのは京都に住む父親だけだ。
「おばあちゃんもきっと美月のこと、大好きだったはずよ」
お風呂から上がり、美月を寝かしつけると、香織は再び仕事モードに戻った。リビングのソファに座り、ノートパソコンを開く。明日の講義の準備と、投稿中の論文の修正が残っていた。
深夜零時を回っても、香織の作業は続いていた。ふと、スマートフォンに視線を移すと、妹の静香からのメッセージが届いていた。
「お姉ちゃん、元気? 今度のバルセロナの学会、私も取材で行くことになったよ。久しぶりに会えるね」
香織は嬉しそうに返信を打った。医療ジャーナリストとして世界中を飛び回る妹とは、なかなか会う機会がなかった。
「それは嬉しいわ。美月も喜ぶわよ。バルセロナで会いましょう」
メッセージを送ると、香織はふと窓の外を見た。満月が東京の夜空を照らしている。自分の人生は決して楽ではないが、研究と美月という二つの大切な宝物があると思うと、この忙しい日々も幸せに思えた。
香織はノートパソコンを閉じ、美月の部屋をそっと覗いた。安らかな寝息を立てる娘の頬にキスをし、自分の寝室へと向かった。明日もまた忙しい一日が始まる。しかし、今はただ静かな夜の中で、つかの間の休息を取るときだった。
布団に横たわり、香織は満足感と疲労感が入り混じった状態で目を閉じた。学問の頂点に立ち、尊敬される研究者として充実した日々。しかし、彼女はまだ知らなかった。この平穏な日常が、やがて少しずつ崩れ始めることを。まるで砂時計の砂が一粒一粒と落ちていくように。
東京の夜空に浮かぶ月明かりの下、村上香織の心は、次の論文、次の研究、そして何より美月の未来への希望で満ちていた。それは彼女の人生が最も輝いていた瞬間だった。静かに流れる時間の中で、香織はやがて訪れる嵐を予感することもなく、穏やかな眠りに落ちていった。
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