1月30日22:45 那須高原

 日の入り後、雪は激しさを増し、風も強くなった。吹雪の様相を呈している。


 最終の会議ブリーフィングを終え、目標の最も外周の包囲を担当する葬斂部隊そうれんぶたいの隊員たちが各々装備を整え出発し始めた。

 皆、白いレインコートを着、雪中に紛れるように施設から進んでいく。


 私は施設の浴室に向かった。並んだカランの前に座り、頭からシャワーを浴びる。壁の鏡には私の姿は映らない。湯の飛沫の様子で辛うじてそこに誰かがいるのがわかる。服を着れば服ごと映らない。吸血鬼ヴァンパイアとは奇妙なものだ。


 私は自分の顔をはっきりと見たことがない。二度目の生を迎える前、銅を磨いた板にぼんやりと自分の姿が映っていた記憶はある。水面に映った顔が、誰かが投げ込んだ石の波紋でうねうねと曲って見えた記憶もある。それだけだ。

 何度か絵を描いてもらったこともあるが、自分自身を認識できていない為、それが本当に自分の顔だという確信が持てなかった。幾度目かの絵を見た後、描いてもらうのをやめた。


 私には名が無かった。私に名をつけてくれたのは那須野なすのだ。都近くの野原で、偶然に出会った女性にょしょう

 自分のことを棚に上げ、怪異の類だと思った。

 雨の降る深夜。青白く光る鬼火を伴い、供も連れずに歩いている女がまともなわけがない。髪から着物までぐっしょりと濡れているのを意にも介していなかった。


 那須野は私に名、住む家、そして知識をくれた。私は言葉を知り、文字を読み、そして書けるようになった。歴史を追い、ルールを学び、ようやく世界の有り様を理解した。


 那須野は、私の恋人であり、妻であり、友であり、母でもある女である。


 私が闇夜を渡り歩き、血を呑むだけの獣にならなかったのは。そして、人間によって葬られることなく生き続けることができたのは、あの雨の夜の出会いが全てだ。


 雨音が闇に染み入る中、しとどに濡れて立つ女。鬼火に照らされ怪しくも美しく見える顔。私を見て笑った唇を今でも覚えている。伸ばされた右手。私はその手を取った。取ってしまった。


 あの出会いは偶然だったのだろうか。那須野に何度か聞いたことがある。だが、確かな答えをもらったことはない。


 部屋に戻ると、榊はすでに天照ルクス製の戦闘服「小忌衣オミゴロモ」を身にまとっていた。まぶしいほどの純白。

 その姿は、強いて言えば軍用の飛行服フライトスーツに近いが、もっとタイトに榊の身体を包んでいる。腰には漆黒の浄闇ノクスで織られた帯を巻き、ウエストリボンのように大胆に結んでいた。

「なかなか素敵じゃないか」

 私の軽口に榊がにこりと笑みを返してくる。

「御形さんが着付けてくれました」

「これからはそれでいこう」

 榊は笑みと共に頷いた。


 私はシャツに袖を通し、紅玉ルビーのカフスで袖を留めた。長年使いこんでいる革製のショルダーホルスターをつけ、グロックと弾倉を収めていく。

 榊も黒いショルダーホルスターを身に着けている。白装束にたすき掛けしているようにも見えた。


 私たちが入り口前のホールに向かうと、御形が独りタブレットで何かを読んでいるのが見えた。組んでいる脚は優雅だ。

 机の上にはバーボンの瓶とグラスが置いてある。髪をアップにまとめ、強めのメイクをした御形は常と違った印象を受けた。そこはかとなく危険な香りがする。涼しげではあるが、これからの躍動を秘めた気配。


 御形は私たちの姿を見ると、タブレットを机に置き、グラスを飲み干す。


 左手にコート、右手に散弾銃を持った三つ揃い。漆黒の私。

 腰に大小を差し、白い正絹の刀剣袋を持った戦闘服。純白の榊。

 中華風に見える五分袖の上着、タイトな五分丈のパンツ姿。深紅の御形。

 三人の魔物が並び立つ。


「お二人も召し上がりますか」

「いただこうか」

「頂戴します」

 御形は机に伏せられていたグラスを二つ取り、三つのグラスにバーボンを注いだ。各々グラスを取った後、互いに掲げ、一気に干した。

 口内に残るバニラの香り。洋梨のような酸味が舌に残った。


 私は懐から元結を取り出す。白い紙糸。

「お守り代わりだ」

 私はナイフで左の手の平を切り、浮いてきた紅い雫をたっぷりと元結に染み込ませ、二人に渡した。

 榊は元結を使って髪をきっちりと縛った。御形は左手を私に差し出してきたので、その手首に元結を巻いて結んでやった。


 三人は施設を後にした。

 作戦開始まで残り三十分。

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