1月30日15:20 那須高原

 池袋から車で約2時間半。私と榊は作戦本部を設置した県立の宿泊施設に到着した。昨日午後からの降雪により見渡す限り雪景色である。


 那須高原は冬季のアクティビティでも人気がある。人目があるので偽装に手を抜くわけにはいかない。施設の駐車場は道路から丸見えの為、観光バスやトラックを目隠しに使い、葬斂部隊そうれんぶたいの現場指揮車両が奥側に配置されていた。

 動き回っている隊員たちもこれ見よがしに戦闘服を着ていたり、銃器を持っている者はいない。一見すると何かの合宿のようにも見えるが、動いている者たちに笑顔はなかった。

 最終的に全員が配置につくのは陽が落ちてからである。ほとんどの隊員たちは施設内で休息を取ったり、準備を整えたりしている。


 私は自分と榊の装備が詰まったスーツケースをあてがわれた部屋に運び入れる。榊は肩に担いでいた大きな箱を部屋の片隅に丁寧に置いた。

 榊が巻かれていたさらしを取ると、白い桐の箱が現れた。榊は箱の前に正座し、背筋を伸ばした後、箱に向けて丁寧に拝をした。

 私はスーツケースを開け、自分スーツやシャツを取り出し、畳に並べた。その後、銃器や弾薬を並べていく。一つ一つを丁寧に。一つ一つを確実に。


「お疲れ様です」

 開けっ放しのドアの前には御形が立っていた。落ち着いた雰囲気のブラウンのパンツスーツ。艶のある黒髪は束ねられており、首には深い赤のスカーフを巻いている。黒いヒールは雪の高原には似合わない。これから仕事の会議にでも向かいそうな様子だ。

「到着早々で恐縮ですが、巽さんがお呼びです」

「わかった」

 私は榊に準備を進めるよう言い残し、御形に案内を頼む。

「こちらです」

 外に向かうようだ。施設から出ると、雪が舞っていた。時折轟々とした風が吹きつける。空気がきらきらと煌めく。


 施設の裏手も一面の雪だが、森の中に向かって足跡が続いていた。

「巽さんがかなり消耗されていたご様子でしたので、簡単ではありますが「斎館さいかん」をご用意しました」

 森の中を少しばかり進むと、唐突に開けた場所に出た。其処にはやや大型のテントが張ってあり、四方には斎竹いみだけが立っている。張られた注連縄が風に揺れていた。


「巽さん。お連れいたしました」

 御形はテントの外から声をかけ、私に中に入るように促した。


 遮光性の強い素材だ。テントの中は昼だというのにほぼ真っ暗である。だが、私には問題はない。テントの中に大きめの浴槽が置いてある。訪問入浴介護で用いられるような機材だ。その中には黒に近い深紅の液体が湛えられており、裸身の巽が浸かっていた。奥には円筒形のタンクが一つ二つと積んである。

 テントの中には鉄の匂いを含んだ生臭い空気が満ちている。何らかの暖房器具があるのかもしれない。中は外ほどは冷え切ってはいなかった。

 時折、風がテントを叩く音が聞こえる。


 私の気配を感じ、巽が浴槽からその半身を起こす。ちゃぷりと粘度が感じられる水音がテントの中に響いた。白く細い身体を伝って落ちる紅い液体。

 血である。巽は血に浸かっていた。

 右手から腕を流れ落ちる血を捉える巽の舌。ゆっくりと手を舐めあげる舌は長く、そして鋭い。

 テントの外にいた御形が施設に戻っていくのを感じ、私は改めて巽の傍に向かう。


 暗闇の中、巽の眼が深紅に光っている。まるで熾火おきびのようだ。細い身体から届く声。

「頑張ってるよ。巽は」 

 下半身は血に浸かったまま、茫洋とした表情で頭をぐるりと回し、私に話しかけてくる。視点が微妙に定まっていない。

「よくやってくれた」

 ちゃぷり。巽は浴槽の中でゆっくりと立ち上がる。

「もっと優しく褒めて」

 顔や首筋、鎖骨から小ぶりな乳房の間を流れ落ちる雫。腕やわき腹を流れる紅い血筋。私は右手で巽の髪を撫で、左手で頬に触れる。

「よくやってくれたな。小春」

「うん」

 巽とは私がつけた名だ。私の下を離れた後も気に入って名乗ってくれている。巽は、はにかむように顔を俯けながら、私の手を強く握り返してきた。

「自慢の娘だ」

 巽の満面の笑顔。

 ちゃぷり。血の音が響く。


獄鎖チェインズを解く」

「そんなに大ごとなの」

「念のためだ」

「わかった」

 私は手早く服を脱ぎ、裸身となった。浴槽の中に立ち、巽と向かい合う。巽は私の両の手を握る。巽の低い声が部屋に流れ出して満ちていく。

けまくもかしこき大禍津日神おほまがつひのかみ大前おほまえおろがまつりてかしこかしこまをさく」

 巽の歯が鋭く伸び始める。口の端から唾液が流れ落ちるまま言葉を紡ぎ続ける。

大神おほかみの深く厚き御恵みめぐみをかたじけなまつり ふかくら神教みをしへのまにまに」

 巽は私の肩に置いた手に力を込め、私をかき抱く。外見からは想像もできないほどの力で抱き寄せられる。伸びた爪が私の身体に食い込み、赤い雫が落ちる。

真祖まことのみおやを仰ぎ奉り なほき正しき真心まごころもちて くらやみの道にたがふことなく ひ持つわざに励ましめたまひ 家門いえかど高く 身健やかに 世のため人のために尽くさしめ給へと かしこかしこみもまをす」

 言い終わると巽は私の首筋に尖った犬歯を埋めた。痛みは無い。脳髄を突き抜ける刺激。久しく忘れていた噛まれる愉悦を思い出す。

 私の血が吸われ、私が巽の中に入って行くのが感じられる。徐々に染み込んだ私が、巽の中で私の血と巽の血と絡み合っていく。

 

 巽が茫とした目で私を見る。

 私は巽の首筋を噛んだ。

 口中に広がる巽の血。喉を内側から愛撫するかのように腹中に落ちていく。

 巽の血と交わっていた私の血の一部が戻ってくる。暗中の室内でお互いの首筋から血を貪り合う不死者ノスフェラトゥ。血を介在し、魂が一体となる。吸血鬼ヴァンパイア同士だけの血の交歓。


「嗚呼…」

 巽の吐息が響く。私は巽の右の胸に手を当てる。その手が胸の中に突き入れられる幻視ヴィジョン。巽が背を反り返させながら悲鳴とも吐息ともつかない声を絞り出す。私は巽の乳房ごと手を握りしめ、一気に引いた。

 私の手には頭の無い漆黒の蛸のような触手が絡みついてきており、しばしの間うねうねと動いていたが、ゆっくりと黒い滓となり、消えていった。

 力を失い、倒れ込む巽を支え、湯船に浸からせる。私は湯船を出ると、用意されていたバスタオルで身体を手早く拭いた。


 湯船の近くにテーブルがあり、陶器のゴブレットが置かれていた。私はそこに血を満たし飲む。

 口元から垂れた雫をタオルで拭い、服を着た。湯船に沈む巽に声をかける。

「後、8時間ほどで始まる。大丈夫か」

「任せておいて」

「ああ、頼んだ」

 巽は湯船から両手でピースサインを返してきた。私は頷く。


 私はテントを後にする、施設に近づくと御形が待っていた。頭と肩にうっすらと雪が積もっている。

「お疲れ様です」

 微笑を浮かべた御形に導かれ、私は部屋へと戻る。雪が徐々に強くなってきた。

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