三日 #鏡

 稽古場の戸を開けたヤヨイは自分が最後だと悟った。目も向けてもいないのに、トウマの視線が鋭く刺さる。

 今回は自分のせいではない、とヤヨイは何食わぬ顔で下座に滑り込んだ。

 他の舞姫達は姿勢を正したまま振り返らない。

 一番先頭に座る大巫女に叱責を受けるだろうかとヤヨイは恐々とうかがったが、場内に響くのは蝉の声だけだ。

 こっそりと息をついたのもつかの間、歳を感じさせない凛とした声が上がる。


「本日もつつがなく過ごせることを感謝いたします」


 神棚に向かって頭をたれる大巫女にならって、深く礼をとる。短い祝詞をあげ終えた白髪頭が姿勢を正し、皆も続いた。

 下座に体を向けた大巫女が舞姫と奏者に礼をとる。いつもなら、すぐに稽古に入る所だが、今日は七夕に開かれる星祭りの説明がされた。

 遮るよう、蝉がけたたましく鳴いている。

 一番後ろに座るヤヨイが聞き取れる言葉は途切れ途切れでさっぱりわからなかった。

 あんなに鳴いて、何か伝えたいことがあるのだろうか。応えるように大きくなった虫の声にいよいよ大巫女の言葉は届かなくなった。

 あとで誰かに聞こうと集中することをやめたヤヨイは視界に入った鏡を眺める。

 神棚に鎮座する鏡は、稽古場の中央に掲げられた掛け軸の上にあった。掛け軸に描かれたのは、里を含めた一帯の守り神。白い狼の姿をとる神獣だ。墨の濃淡で見事に描かれた体は今にも動き出しそうで、研ぎ澄まされた眼差しは見る者を射抜く。

 年越えの祭祀にだけ現れる白狼は大人と変わらない大きさだ。土地と同じだけ生きてきた巨大な神獣に会った記憶は、三つの時から始まる。それ以前にも見ているはずだが、不思議と恐怖の記憶はなく、尊敬の入り交じった畏怖が今もなお根付いていた。

 神獣よりも位が高いらしい依り代は稽古場をうつしているだけだ。特別なことは見受けられず、不思議なことが起こったとも聞かない。

 稽古場の鏡も、本殿の鏡も、舞台の鏡も、すまして鎮座するだけ。ほぼ毎日、見下ろされてはいるが、鏡は鏡だけの仕事しかしていない。

 神は神獣の穢れを癒すと言うけれど、穢れをほどくには、舞が必要となる。舞が捧げられなければ、神は何もできないのだろうか。

 少女は、うんともすんとも言わない神様を崇め奉る大人達がおかしく思えて仕方がなかった。


「また罰当たりなことを考えていますね」


 覚めるような声に少女は目を瞬かせた。

いつの間にか、舞姫達の背中は消え、掛け軸に描かれた白狼がよく見える。

 ふとできた影に顔を上げれば、上座に座っていたはずの大巫女だった。しゃんと背をのばしているとはいえ、少女よりも低いはずの老女に見下ろされている。

 遠巻きな視線を感じた少女はもう一度、目を瞬かせる。

 ぽつんと座っているのはヤヨイだけだった。




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