15.暗闇に集う者たち
夜の雨がポツリポツリと降り始め、アスファルトを濡らしていく。港湾地区近くの倉庫街は、再開発の波から取り残されたように、朽ちかけた建物やサビだらけのフェンスが目立つ場所だ。ストリートライトもところどころ壊れており、昼間ですら人気がない。深夜となれば、まるで別世界のように静寂が支配する。
日高光彦(ひだか みつひこ)が車を降り、暗がりの一角からそっと様子をうかがうと、人気のないはずの倉庫の前に数台の車が止まっているのが見えた。フロントガラスに映るナンバーを確認することは難しいが、明らかに“それなりに高級そうな”車種が数台揃っている。
(やはり取引が行われているのか。それとも――)
傘をささずに建物の影を縫って近づいていくと、背後から「日高巡査部長ですね?」という淡々とした声がかかった。反射的に身構える日高。振り向けば、そこには先日“内務調整室”を名乗り圧力をかけてきたグレーのスーツの男が立っている。
「こんなところまで、ご苦労さまです。あなたを待っていましたよ」
男の言葉に嫌な予感が募るが、日高は動揺を抑え込む。
「やはりあなたが仕掛け人でしたか。……ここで何をしている?」
「見てのとおり。“取引”の場をセッティングしているだけですよ。あなたが追う“平沢真梨子の取材メモ”とやらも、運が良ければここでお目にかかれるかもしれない」
男は薄く笑う。その言葉通りなら、ここが“完全版”が流れる闇オークションの現場ということか。しかし、わざわざ日高を呼びつけている理由が読めない。
「日高さん!」
別方向から聞こえる声に振り返ると、フリージャーナリストの古川(ふるかわ)が姿を現す。こちらも雨に濡れているのか、髪がしっとりと湿っていた。
「やっぱり来てたか……。先ほど、俺も“謎の招待”を受けたんだ。取材メモを出品している仲介業者が俺に接触してきて、取引を“見学”させてやるってさ」
「見学、ね。どう考えても罠臭いですが……」
「だが、ここを逃したらもう手段はない。あんたもそう思って来たんだろ?」
古川は目を細めて倉庫の入口を睨む。そこには既に人の気配があり、スーツ姿の男たちが入口脇に立っている。警備――いや、用心棒の類だろうか。
グレーのスーツの男は、二人の前に回り込み、軽く嘆息をつく。
「どうぞ。無駄に騒がず、“見学”だけなら歓迎しますよ。もし取材メモが本物だと証明できるなら、その場で取引が成立するかもしれない。お二人とも、その“真実”とやらを見届けたいんでしょう?」
倉庫の中へ進むと、意外にも広いスペースに簡易なテーブルや椅子が並べられ、まるで即席のオークションハウスのようになっていた。蛍光灯がところどころ切れかけているせいか、薄暗く、無機質な鉄骨の梁が天井に走っているのが見える。
十数名ほどの人影がテーブルを囲むように座っており、皆一様に無表情を装っている。見るからにビジネスライクな雰囲気だが、その正体は分からない――政治家の代理人か、裏社会のバイヤーか、企業の使いか。
(こんな露骨な場が、本当に警察の目を逃れられるのか……それとも、警察内部の一部が協力しているからこそ可能なのか)
日高は苦い思いを噛み締める。
そこここに見張り役らしき男たちが立っていて、皆揃いの黒い服に小さな円形バッジを付けている――“G&C Security”のバッジだろうか。外国人らしき屈強な人物も混じっている。
(真梨子が言っていたのは、これか……)
舞台袖のように仕切られた奥のスペースから、ホストを名乗る男が登場する。白髪交じりの紳士風だが、その背後に漂う雰囲気はひどく冷淡だ。
「皆さま、お集まりいただき感謝します。今夜は“特別な資料”の出品があると噂され、急遽この場を設けました。詳しい来歴はあとでお話するとして……」
男が軽く手を叩くと、部下と思しき人間がパソコン画面をプロジェクターに映し出し、何枚かのスライドを切り替えていく。そこには、土地や開発計画の概要が映し出されていた。
「まずは再開発事業の素晴らしさを確認しましょう。我々は正当な利益を追求し、地域経済に貢献する。そのためには一時的な“出費”や“調整”が必要なのです。皆さまもご承知の通り……」
調子のいい弁舌に、聞き手たちはあまり反応を示さない。ただ、この“お披露目”が終われば、本題の“取材メモ”が出てくるのだろう。
日高と古川は部屋の片隅に立たされる形で見学を許されていた。グレーのスーツの男は彼らの近くに控え、口元に薄く笑みを浮かべている。
「今さら大声で“警察だ”と叫んでも無駄ですよ? 騒ぎを起こせば、あなた方の立場が余計に悪くなる。今日はあくまでも“静かに見学”をしていってください」
やがて、ホスト役の白髪紳士が口上を締めくくったあと、目配せとともに手下が一つの黒いアタッシュケースを前に運んでくる。そこには鍵がかけられており、暗証番号を入力すると――パカリと蓋が開く。
見せびらかすように取り出されたのは、何冊ものノートとバインダー、そしていくつかのUSBメモリの束。それらをテーブル上に並べると、紳士が慇懃無礼に頭を下げた。
「こちらが本日の目玉、“平沢真梨子”という地方紙の記者(見習い)だった女性が残した取材メモ――いわゆる“完全版”です。ここには大変興味深い情報が含まれているようです」
日高の胸がざわつく。まさに捜し求めていた“彼女の遺産”。その存在こそが、池内沙織の死や真梨子の死を取り巻く巨大な闇を暴く鍵になる。
(あれさえ手に入れば……!)
会場の空気が僅かに揺れ、一同が興味を示して画面を注視する。ノート類の一部をスキャンした画像らしく、パソコンに映し出される走り書きには、地方議会の議員名や企業との賄賂の記録、そして「警察上層部との接触を示唆する記述」までもが読み取れる。
「……これは。政治家名はイニシャルに置き換えられているが、調べればすぐにわかりそうだ」
古川が苦い声を漏らす。勢力図や金の流れ、取材対象者のやり取りが生々しく書かれていて、とても偽物とは思えない内容だ。
ホスト役の紳士はにこやかに会場を見回す。
「では、買い取り希望の方には、こちらで“入札”の手続きをお願いしようと思います。もちろん、表沙汰にはできませんから、どなたも匿名で構いません。開発にご協力いただける企業関係者、または政治家ルートの代理の方もいらっしゃるでしょう。必要なのは“隠滅のための高額”か、あるいは“暴露のための確保”か……。ご自由にどうぞ」
会場の誰もが一瞬声をひそめ、しかし視線と指先は熱を帯びている。それは巨額の取引になる予感を秘めた、まさに闇オークションだった。
「こうやって堂々と“商品の宣伝”をしてるわけか……。いかにも悪趣味だが、手が込んでる」
古川が吐き捨てるように言う。その横でグレーのスーツの男が肩をすくめた。
「どのみち、誰かが高値を付けて落札する。そこで確実に“処分”されるか、“世に出る”かが決まるわけですね。さて、警察官のあなたはどう出ますか?」
挑発的な笑みを浮かべる男に、日高は怒りを噛み殺しつつ言葉を返す。
「あなたの狙いは何だ? そもそもどうして俺をここに呼んだ?」
「フフ……さあ、どうでしょう。もしかして、あなたが必死に追いかける姿を見たいだけかもしれない」
オークション進行が始まろうとしたそのとき、倉庫の入り口付近が妙に騒がしくなった。警備員が数名、何か揉めているようだ。
「なに? 招待客じゃないだと?」
「止まれ、入るな!」
ざわめきのほうに視線をやれば、黒ずくめの男たちと格闘するようにして押し入ってくる人物がいた。――若い刑事、宮下である。
「離してください! 捜査一課・宮下です! 日高さんを呼んでください!」
場違いにも公務員然とした大声が倉庫内に響き渡る。会場全体が一気に張り詰め、警備員たちが一斉に動き出す。
(まずい……!)
日高はとっさに走り寄り、宮下を制止するように声を上げる。
「宮下! 何でここに来た!」
「すみません、主任が“お前も行け”って……! 絶対に危ないからって。日高さんを一人で行かせるわけにはいかないって……!」
気持ちはありがたいが、これはあまりにも無謀だ。警官を名乗ってオークション会場に飛び込んできたら、相手も容赦しないだろう。
案の定、状況は一気に殺伐とする。ホスト役の紳士が苛立ちを露わにし、「どういうことだ。警官が来るなんて聞いていない!」と怒鳴る。スーツ姿の男たちが腰に手をやり、暗く光る金属の物体を取り出しかけている。――拳銃だ。
古川は顔をこわばらせ、「くそっ、これじゃ本当に戦場だ」と小声で呟いた。日高も一瞬、手帳を掲げて「警察だ!」と叫ぶか迷うが、そんなことをすれば確実に撃たれる。
静寂が押し寄せる中、不意に“パンッ”という乾いた発砲音が響いた。誰かが天井に向けて威嚇射撃をしたらしい。倉庫内の空気が凍りつき、雨音さえかき消えるほどの緊張に包まれる。
「皆さん、落ち着いて!」
叫んだのは日高だ。何とか収拾を図ろうとするが、ホスト役の紳士は怒り心頭だ。
「我々の“商談”を妨害するつもりか? 警官が入り込むなんて聞いていないぞ!」
スーツ姿のガードマンたちが宮下を取り押さえようとする。日高は宮下をかばいながら、その手を必死に引いて下がる。
(下手すれば、俺たち二人とも消される……!)
次の瞬間、倉庫の照明がチカチカと瞬き始めた。激しいノイズのような音がスピーカーから漏れ、プロジェクターが狂ったように画面を乱す。何か電気系統にトラブルが起きたのか、それとも妨害電波のようなものが仕掛けられたのか――。
場内は混乱に陥る。銃を構えていた男たちも一瞬動きを止め、周囲を見回す。古川は目を覆い、「なんだ、これ……」と驚きの声を漏らす。
その混乱の隙を突き、日高はテーブルに並ぶ“平沢真梨子の取材メモ”へ視線を走らせる。
(今しかない……あれを確保しなければ!)
ホスト役の紳士が「誰がこんなことを?!」と叫ぶのを尻目に、日高は低い姿勢でテーブル脇へ滑り込む。すると、奇妙なことにアタッシュケースが僅かに倒れていた。
「……? 倒れた?」
かすかな風のような揺れが日高の頬を撫でる。まるで目に見えない力がケースを押したかのように――そう、これまで幾度も感じた“彼女”の存在。
(真梨子……!)
心で叫んだ直後、また一発の銃声が鳴り響いた。今度は倉庫の天井ではなく壁のほうに穴が空く。威嚇から本気へ移行するまで、もう時間がない。
日高は迷うことなくアタッシュケースに手を伸ばし、中のファイル束――それが“完全版の取材メモ”だ――を掴んだ。重い。何冊ものノートとUSBデバイスがぎっしり詰まっている。
「宮下、古川さん、下がって!」
とっさに叫んだ日高は、身を翻して後方へ走る。照明が乱れているせいで、誰がどこにいるのか分かりづらいが、スーツ姿の男がこちらを捕まえようと動いてくるのが見えた。
「止まれ!」
銃口がこちらを向く。もう一発撃たれたらただでは済まない。
――そのときだ。上方の鉄骨部分から何かが落下するように見え、ゴトンという大きな衝撃音が響いた。降ってきたものは作業用ライトのアームか、あるいは金属製のケーブルラックか。とにかく重量物がガードマンの真横に落ち、彼らがよろめく。
一瞬だけ視界に、白く揺れる影がちらりと映った気がした。
(真梨子……なのか?)
その隙を突いて、日高はケースを抱えたまま宮下と古川のところへ戻る。
「走れ! 出口まで一気に逃げるぞ!」
「わ、わかりました!」
「ちょ、まじかよ、警官が逃げるのか……」
混乱状態の会場では、バイヤーたちも一斉にパニックに陥っており、互いに牽制し合うように出口へ殺到し始めている。銃声はもう一度轟いたが、誰かを正確に狙えるような状況ではない。
日高たちはうまく人波をかいくぐり、倉庫の扉を押し開けた。夜の雨が強くなってきている。
「このまま車へ……!」
全力で駆け出す三人。途中、グレーのスーツの男が追いすがるのが見えたが、倉庫周辺でも複数の車が急発進や衝突しかけており、足止めされている。
どうにか車のドアを開け、日高は助手席にアタッシュケースを放り込んだ。宮下が運転席に滑り込み、古川も後部座席に飛び乗る。エンジンが唸りを上げて夜の道路へ躍り出た。
「くそ、撃ってくるかもしれないぞ……! 急げ!」
古川の声に宮下はアクセルを踏み込み、車は滑るように加速する。雨粒が激しくフロントガラスを叩き、ワイパーが忙しなく往復する中、日高はふと後部座席を振り返った。
ぼんやりとした白い影が、そこに座っている――誰にも見えないはずの幽霊、平沢真梨子。だが、彼女の姿は今にも消え入りそうに儚く、輪郭はほとんど溶けかけている。
「真梨子……ありがとう。君が助けてくれたんだな」
小さく呟いた日高に、彼女は微かにうなずくように見えた。唇が震え、何かを言おうとしている。
(そうだ、君は……!)
だが、言葉が途切れるよりも速く、真梨子の姿は霞のようにフェードアウトしていく。まるで役目を終えたかのように、静かに。
「待ってくれ……君がいなくなったら、まだ……!」
日高の声にも反応しない。そっと立ち上る霧のように、彼女は完全に消えてしまった。後部座席には誰の姿もない。雨音だけが車内を包み、ハンドルを握る宮下は何も知らずに前方を凝視している。
しかし、日高にははっきり分かる。平沢真梨子の魂が今、すべての未練を振り切るように消えかけていることを――。
「日高さん、大丈夫ですか! しっかり!」
宮下の声にハッと我に返る。今は感傷に浸っている場合ではない。このアタッシュケースには、真梨子が命をかけて遺した“取材メモの完全版”が詰まっている。
古川が後部座席で蓋を開け、ノートをめくりながら興奮混じりに叫ぶ。
「こりゃスゲェ……議員名、警察幹部らしきイニシャル、再開発企業との金の流れ、全部書いてある……! USBメモリにはたぶん録音や写真データも入ってるんだろう。これがあれば決定的だ……!」
日高は拳を握りしめ、視線を前方へ向けた。
「これを、世に出すんだ。もう誰にも邪魔はさせない……」
同時に胸が苦しくなる。これで真梨子の無念も、池内沙織の死も、きっと報われるはず。しかし彼女の姿はもう見えない。事件が解決するその瞬間を、彼女は見ることができないかもしれない。
――だが、それでも日高は心の中で呟く。
(ありがとう。最後まで、俺たちを助けてくれて。必ず真実を暴いてみせる……)
車は雨の夜道を疾走し、後続の怪しい車影はまだ見えない。このまま警視庁へ向かうか、あるいはマスコミに直行するか――いずれにせよ大騒動になるのは時間の問題だ。日高たちの決断と行動が、この巨大な闇を暴くか、あるいは再び揉み消されるかを左右するだろう。
そして、平沢真梨子の魂は、果たしてこのまま静かに消えていくのか。それとも最後の“証言”を残す奇跡を起こすのか――物語は加速度的に結末へ近づいていく。
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