14.影と手を組む
日高光彦(ひだか みつひこ)は、明け方から続く情報整理を終えて薄暗いアパートの部屋を出た。非公式保護施設に落ち着いた鈴村彩香(すずむら あやか)は、ここ数時間ようやくまとまった眠りにつけたらしい。幸い、彼女を狙う動きは今のところ報告されていない。
しかし、だからといって安心できる状況ではなかった。署内ではいつ上層部が日高を“事件捜査から完全に排除”し、鈴村の保護にも横槍を入れてくるか分からない。さらに、フリージャーナリスト・古川(ふるかわ)によれば、“平沢真梨子(ひらさわ まりこ)の取材メモ・完全版”が闇の取引にかけられるのは、そう遠い話ではないという。
警視庁に戻った日高は、すぐに捜査一課のフロアへ向かわず、人気のない仮眠室へ足を運んだ。会議や雑務の合間を縫うように警察官が眠るための小部屋だが、今は誰もいない。
そこで待っていたのは、若手刑事・宮下だった。彼もまた、日高に協力したいと密かに動いている一人だ。
「日高さん、こちらに……」
宮下が古い書類を抱えたまま、周囲を気にして小声で話しかける。
「以前から“再開発”と絡んでトラブルになった案件をひと通り洗ってみました。どれも表沙汰にされないまま片付けられたケースばかりですが、いくつか“G&C Security”らしき外資系警備会社の名前が見え隠れしているんです」
広げられたコピーには地方都市の再開発や、土地売買をめぐる不審な事故が列挙され、そこに当時の捜査メモらしき走り書きが添えられている。
「ただ、結局どれも“事件性なし”で終わってるんです。担当刑事が急に転属になったり、上層部からストップがかかった形跡があったり……全部“闇”に消えてる」
宮下の眉間に刻まれた皺が深い。日高もファイルに目を走らせるが、既視感と嫌悪感がこみ上げてくる。
(やはり、警察内部に“彼らと繋がる誰か”がいる。それが真梨子の死や池内沙織(いけうち さおり)の殺害にも関わっているのだろうか)
すると、仮眠室のドアがわずかに開き、日高の上司である主任が顔を出した。
「おい、こんなところでコソコソして……。まあいい、ちょっと外で話がある」
主任の表情は険しいが、目の奥には覚悟を決めた光が見える。彼は日高と宮下を引き連れ、署の裏手にある喫煙所――今はほとんど使われていない場所――へ足を運んだ。
「昨日、お前が出した報告書について本部長室で検討があった。どうやら、お前を地方の警察署に“左遷”する形で事態を丸め込もうって算段らしい。もちろん、池内沙織事件からは完全に外れる形だ」
主任は小さく息を吐き、煙草に火をつける。
「だが、お前はまだ証拠を掴むチャンスがあると言っていたな。それが本当に“警察の力”で立証できるなら、上層部だって黙っていられなくなる。……俺も腹をくくった。何があろうと、お前の背中を押す」
日高はその言葉に静かに頷く。主任もまた、ギリギリのところで正義を貫こうとしているのだ。
三人が一旦その場を離れ、日高がフロアへ戻ろうとしたとき、スマートフォンが着信を告げた。画面には“非通知”の表示。
「古川さん……じゃないか」
そう思いながら応答すると、意外にも男の落ち着いた声が聞こえてくる。
「日高巡査部長、ですよね。あなたに一度直接お話ししたいと思いまして」
どこかで聞き覚えのある、冷淡な響き。日高はすぐに思い出した。“内務調整室”を名乗り、圧力をかけてきたグレーのスーツの男だ。
「何の用です?」
語気を強める日高に、男はさらりと答える。
「あなたが追っている“取材メモ”のことです。大きく動きがありました。……話だけでも聞いてみませんか」
明らかに挑発めいた口調だが、日高は心臓を鷲掴みにされるような予感を覚える。もしかすると、彼らこそが“メモの取引”を仕切っている勢力の一角かもしれない。
「興味ありません、と言ったら?」
「……あなたが今さら背を向けるはずがない。そうでしょう?」
忌々しいほど正確な読みだ。
男は続ける。
「今夜遅く、都内のある場所で“とある取引”が行われます。そこに“平沢真梨子の取材メモ”が出品される可能性が高い。どうです、現場に来てみませんか。警察官として“本当に真実を守りたい”のなら、挑んでみる価値はあるでしょう」
明らかな誘い。だが、罠の匂いはプンプンする。
「……あなたが教える場所に、まんまと向かえと?」
「もちろん自由です。警察官として、あるいは一人の人間としてどう判断するかはあなた次第。だが、“自分の目で確かめたければ”逃さないことだ」
電話が切れる。日高は受話器を耳から下ろし、深い息をつく。
日高が混乱する間もなく、今度は古川からメッセージが届いた。「取材メモの取引現場に関する手掛かりを掴みかけた。場所は○○区の倉庫街らしい」と、具体的な地名が記されている。
先ほどの男が言っていた“場所”と同じなのか、違うのか。あるいは、先に古川が掴んだ情報を利用して罠を張ろうとしているのか――。いずれにせよ“今夜”なにかが起こることは確定的だ。
「どうします、日高さん」
近くにいた宮下が尋ねる。主任もまた不安そうに眉を寄せている。
「古川さんからの情報と、あの怪しい男からの誘い……。両方ともが真実を含んでいて、かつ罠という可能性もあります」
日高は断言する。
「でも、行くしかありません。取材メモが表に出る最後のチャンスかもしれない」
その日の夜、日高は非公式に動く覚悟を決めた。捜査一課に無断で外出し、鈴村のいる保護施設へ立ち寄り、状況をざっと説明する。彼女には“不審者が来てもドアを開けるな”と厳重に注意し、主任が手配した監視担当者を増やしてもらう形を取った。
施設を出ようとしたところで、廊下の薄暗がりに揺らめく気配がある。半透明の影――平沢真梨子だ。いつにも増して輪郭が儚く、今にも消え入りそうに見える。
「……行くの? 危険だよ」
か細い声に日高は微かに唇を引き結ぶ。
「わかってる。けど、これを逃せばもう二度と“完全版”を押さえられないかもしれない。君の死の真相だって、結局隠蔽されてしまう」
真梨子は苦しげに目を伏せる。
「……わたしも、一緒に行きたい。けど、気づくとすぐに体が薄れて……どうしたらいいか……」
彼女はすでに限界なのだろう。記憶がほとんど戻りかけているが、それと引き換えにこの世への未練が崩れている。
「大丈夫。君が見えなくても、俺は君と一緒だと思ってる。必ず君の無念を晴らす。そして、池内さんの死の真相も……」
そう誓った瞬間、真梨子の唇が少しだけ笑みを形作る。だが、そのまま霞のようにスッと姿を消してしまった。
夜の闇が深まる中、日高は古川から送られてきた位置情報を地図アプリで確認する。港湾地区に近い倉庫街。そこで取引が行われるのか、それとも別の場所に誘導される罠か……。
(仮に罠だとしても、引き返すわけにはいかない。俺がここで諦めたら、真梨子も池内さんも報われない)
警視庁を出る前に、主任と宮下へ短いメッセージを残す。「もし俺が戻らなかったら、鈴村さんの身の安全を最優先で守ってほしい」。
それは決死の覚悟とも言える行動だった。警察組織という後ろ盾を失い、ただ一人で闇に挑むつもりなのだから。
駐車場で車を走らせ始めた瞬間、日高は背後のシートにかすかな“温度”を感じた。前と同じように、真梨子がそこに座っているのだろうか。しかし、振り返っても人影はない。
――それでも、確かに感じる。彼女は消えかけながらも、まだ自分のそばにいるのだと。
「行こう。全部、終わらせるんだ」
エンジン音が低く唸り、車は濡れたアスファルトの道路を滑るように進んでいく。荒廃した再開発区域の先にある倉庫街。そこが“最後の舞台”になるかもしれない。
強い雨が降り出しそうな夜の気配が、フロントガラス越しに重く迫る。日高はハンドルを握る手に力を込め、緊張の中、アクセルを踏み込んだ。
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