旅行



 それは菖蒲からの連絡だった。あまりにもタイミングが重なったので、脳内を監視でもされているのではないかと思い鳥肌が立った。


「やっほー、調子はどうだい」


 突然のことで困惑したけれど、すぐに勉強の事だと気づいて返信をした。


「うーん、だいぶ苦しい状況」


「久しぶりに喫茶店で話しながら勉強してみない?」


 少し迷ったが、父さんの件もあって、かせが外れたのかもしれない。気づけば「YES」の返事をしていた。


「場所は昔よく行ってた、いつもの所ね。八月十七日とか空いてる?」


「空いてるよ」


「おっけー、じゃあそういうことで! お互い頑張ろう」


「うん、頑張ろう!」


 計画されていたのではないかと疑うほどに、あっさりと予定が決まってしまった。念の為、父さんにも、いつ岐阜へ行くのか確認をすることにした。寝巻きに着替えてリビングに出ると、ノートパソコンと睨めっこをしている父さんがいた。


「ねぇ、父さん。そういえば岐阜に行くのっていつ?」


「おぉ十日から一泊二日で考えてたんだが、都合大丈夫そうか?」


「それなら大丈夫だよ」


「分かった」


 数日後、母さんは入院するために、荷造りをしてから病院へ向かっていった。父さんには着いてくるように言われたけど、僕が言ったところで何もできないし、母さんの苦しんでいる姿を見るのは気が進まなかった。母さんはいつも自室にこもっていて、僕や父さんがいる間はほとんどそこを出ることがない。そのたった一枚の扉は非常に分厚く、鉄のように硬く、どこか冷たかった。その扉の先を想像するだけで、いつも足が遠のいてしまう。そんなこんなで病院には行かずに、自宅で三角関数のグラフと睨み合いをすることにした。無責任と言えばその通りだが、きっと母さんの辛さの原因は祖母の死去だけではない。それを解決するには受験勉強こそ正解とも言えるだろう。


 それからというもの、父さんに家事の一部をやらされるようになった。正直に言うと、非常に面倒くさい。ただ、そんなことは口が裂けても言えなかった。掃除機をかけるだけで鼻水が出て、洗濯物を干すために庭へ行くと、バサバサと衣類を広げるだけで汗が止まらなくなった。


 また数日が経って、旅行前日の夜がきた。父さんが言うには、岐阜市内まで新幹線で向かうらしい。まず宇都宮線で東京駅に行き、それから東海道新幹線で名古屋まで行く。そして、東海道本線に乗り換えて岐阜市に辿たどり着く。久しぶりの旅行に、少しソワソワしていた。


 明日の朝は早いから、勉強は早々に切り上げておくようにと、父さんから言われていたので、仕方なく参考書を鞄に詰め込んで、そのまま床に就いた。


 翌朝は本当に早かった。まだ五時だと言うのに、それぞれで支度を終わらせて、六時半頃には家を出た。入場制限付きの遊園地にでも向かうのだろうか。


 最寄り駅から宇都宮線の電車に乗って、東京駅に到着した。昔は新幹線で関西の方へ足を運ぶ際によく使っていたが、今ではめっきり無くなっていた。人々が早朝から忙しそうに構内を歩き回るさまを見ていると、みな遊園地へ向かっているんだと考えて、無粋にも笑いが込み上げた。構内で駅弁を買うことにしたが、父さんも僕も、新幹線に乗り遅れそうになるほど真剣に悩んだ。――種類が多すぎるからだ。


「父さんはどれにしたの」


 悩みに悩んだ結果、僕は富山のます寿司を選んだ。それを持って父さんにくと、俺もそれにすると言わんばかりに、横にあった福井のさば寿司を手に取った。


「俺はこれにするよ」


「真似したでしょ」


「おいしそうだったからな」


 会計を済ませた後、もうあと数分で新幹線が来てしまうので、急ぎ足でホームへ向かった。なんとか出発までには間に合って、座席番号の記された切符と席とを見比べながら指定の座席に着いた。車内の机は小さく、教材を広げるスペースが無かったので、仕方なく寝るなり英単語帳を読むなりして、その時間を過ごした。途中、富士山が車窓に大きく広がって、父さんと一緒になって凝視した。


「もうあと半分くらい? さっさと食べちゃおうよ」


「……壮大で美しい景色ってもんは何度眺めても飽きないものだな。雑念が消えるっていうか、精神が麻痺まひするっていうか」


 質問に対して関係の無いことを言うので少し戸惑ったが、麻痺するというのは共感できた。実際、僕も焦る気持ちなど忘れて、単語帳を机に置いたまま車窓を眺めていた。


「わるいわるい、駅弁食べちゃおうか」


 僕らは駅弁に手を付けた。鱒寿司は舌触りがとても滑らかで、臭みがほとんど無く、ほんのりとした甘みがあり、それがスっと鼻を通り抜けていった。父さんの駅弁も同じような内容だったので、食べ比べをした。鯖寿司は皮の焦げた部分から香ばしい香りが漂い、先程とは対照的にザラザラとした口当たりがお米と調和していて、とても美味しかった。


 そうこうしているうちに、名古屋駅に到着した。愛知を堪能する余裕は無いけれど、それでも過去に降り立った時の記憶が僕を包み込んだ。ホームから見える景色は、ビル群が立ち並んでキラキラと輝いている。そして、各々が忙しそうにしているさまは、東京と似た雰囲気を放っていた。


「どこも忙しそうだね」


父さんは駅地図とスマホにメモされた目的地への情報を交互に見比べながら、にっこりと微笑んでからかうように口を開いた。


「これから行くところに住む人は、もっと忙しいぞ」


 僕にはその意味がわからなかった。岐阜市と言っても、今いる場所と比べれば田舎にあたる。さらに長良川で鵜飼を見るなら尚更だ。それに、自然が増えれば嫌でも穏やかになるのは新幹線で確認済みである。


「ここの人たちの方が忙しそうに見えるけど、なんでそう思うの?」


「それは着いてからのお楽しみだな」


 やはり僕にはさっぱり分からなかったが、予定通り到着することに意識が向いて、あまりその事を考える余裕は無かった。


 その後、東海道本線で大陸を北へと横断した。東京から名古屋までと比べれば、あまり距離は無かったので、三十分程度で岐阜駅に到着した。

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