鵜飼の記憶
飴。
懐古
「気分転換で旅行にでも行かないか」
いきなりのことで、握りしめていたペンが指の隙間から、自室の勉強机の下へ零れ落ちた。
「受験生にとって夏休みがどれだけ大事か、あれほど言ったでしょ」
荒々しくも弱々しくもある声で、扉の方にいる父さんをほんの少し睨みつけた。しかし、父さんはまるで全てを見透かしているかのように言う。
「手が止まっているように見えるけど、行き詰っているんじゃないのか」
「……だけど、だからこそ」
「だからこそだ」
僕の発言に被せて、父さんは確信を持ったように言った。
僕は今度こそ失敗するわけにはいかない。なぜなら高校受験で、第一志望の高校に入学することができなかったからだ。けれども皮肉なことに、僕は記憶力が悪い。ふとしたときに、記憶の敷き詰めた瓶が空っぽになって、
「岐阜の
僕は何も言えなかった。事実を突きつけられて、それでいて父さんの自信を持った目つきには、いつも抗うことができない。それから、僕は自然を感じるような旅行が、以前から好きだった。
「母さんがしばらく入院することになったから、二人で行くぞ」
「えっ、そんな話聞いてない」
半年前に母方の祖母が亡くなって以来、母さんは情緒が安定しない状態が続いていた。だから、突然入院と言われてもおかしくはない。
「うつ病、悪化しちゃったの?」
我ながら野暮なことを訊いたと思う。父さんの表情が曇っていくのを感じた。
「……つまりはあれだな、俺も気分転換が必要ってわけだ。ちと、付き合ってくれないか」
僕は無言で頷いた。それから、乱れた心境を整えるために、腰に張り付いた椅子から引き剥がすように立ち上がった。
「一旦お風呂入ってくる」
「分かった。けどその前にペン拾ってから行けよ」
――しまった。落としていたことを忘れていた。
シャワーを浴びている間も、身体を洗うことに集中できず、かなり時間がかかってしまった。浴槽では普段より長くお湯に浸かってみたけれど、壁に貼っていた数学の公式表には見向きもせず、心境を整理するどころか、中学の時に親友と交わした約束が不意に蘇った。
***
昼休みの時間になって、生徒が校庭に出払って静寂の訪れた教室で、小学校からの親友の
「
「もちろん決まってるよ。菖蒲と同じところ」
「それは決まってないって言うんだよ」
僕にとってこんな何気ない会話が、外に出て遊ぶよりも何十倍も楽しかった。こんな日々が一日でも永く続けば良いとずっと思っていた。しかし、僕を夢から覚ますように彼女は言った。
「私、
その何気ない発言によって、一瞬にして場の気温が下がったのを感じた。蘭華高校は県内有数の進学校だ。僕はもちろん、菖蒲ですら行けない可能性がある。それだからか、菖蒲は目を合わせようとしなかった。――このままではお別れになってしまうかもしれないというのは承知の上だったのだろう。沈黙が凍てつくように僕の心を締めつけた。
「……分かった。じゃあ約束してよ」
「何を?」
菖蒲は不思議そうに校庭の方から、こちらへ目線を移した。
「僕もそこに行く。もし行けたら、また窓際でこうやって、たくさんお喋りしようよ」
反応に困ったのか、
「約束なんかしなくても、いいに決まってるじゃん」
菖蒲は校庭の方へ目を逸らした。そこでやっと、僕がクサい言葉を吐いてしまったことに気づいた。
受験が近づくにつれて、昼休みの時間は会話から勉強に変わり、教室には常に緊張感が漂った。それでも、菖蒲と頑張っている実感があったから何も辛くはなかった。
月日は流れて、受験はあっという間に終わってしまった。教室に走っていたピリつきは閃光のように過ぎ去り、みな以前の生活に戻っていった。もちろん僕らも、窓際で、いつものようにお喋りをした。
「自信の
「基準点は超えたと思う。あとは倍率次第かな」
正直、ここまで自分が成長するとは思っていなかった。これも全部菖蒲のおかげだ。
「菖蒲は?」
「余裕だよ」
「やっぱりそうだよね。蘭華高校に行くって言い出しただけのことはある」
「流星はここまで成長すると思わなかったな。泣きながら『志望校の難易度下げようよー』って言うと思ってたよ」
「何気にひどいこと言うのやめれる?」
それから、またしばらくの時間が流れて、受験結果の公開日になった。普段よりも少しだけ早く起きて、避けられない運命に
――結果は「不合格」だった。とても辛かった。今までの努力が一瞬にして崩れ落ちたのだ。ただ、一番辛かったのはそこではない。不合格の文字を見たとき、菖蒲も何かの間違いで落ちていないかと、そんな趣味の悪い考えを脳裏に浮かべてしまった事が何よりも辛かった。この日から僕は自己嫌悪に陥るようになっていった。それに、菖蒲に対してもどこか壁を作るようになった。虚空の門に足を踏み入れたのだ。
***
「約束、守れなかったな」
交流が途切れたわけではないが、それでもあの頃の時間が流れることはもう無い。最後に連絡を取ったのは、同じ大学を目指そうと語り合った今年の春休みだ。彼女は東京の大学を目指しているらしく、父さんも昔から東京の大学を推していたので、そう難しい話ではなかった。
そんなことを考えながら、気づけばお風呂を出てドライヤーをしていた。そのとき、洗濯機に置いていたスマホから通知音が鳴って、その振動で地面へ滑り落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます