1-5
あの帰り道、僕はそのまま、華火くんの家までついていくことにした。南波邸の門をくぐるのは、これで三度目だ。
そしてそこで、僕は初めて
真理枝さんは、この家の家事を任されている、南波家の家政婦だ。以前からなんとなく話には聞いていたが、会うのはこれが初めてだった。
僕が家に上がったとき、彼女は、あの広いリビングに掃除機をかけている途中だった。風貌は、想像していたより若々しく、三十歳くらいに見えた。黒のポロシャツを着て、サイズピッタリで鋭い皺の入ったデニムを履いていた。そして何より目立っていたのは、その真っ赤に染めたショートヘアだった。
事前に勝手に抱いていたイメージとは異なっていた。僕は、家政婦をやる人間は、あまり派手髪にはしないものと思っていたからだ。どちらかというと、掃除機より楽器が似合いそうな印象を僕は抱いた。
「あら」
真理枝さんは僕と華火くんに気づいて顔を上げた。低い声だった。
「ただいま、真理枝さん」
華火くんが言った。真理枝さんは、目にかかった前髪をどけるように頭をふって、華火くんの後ろにいる僕を見た。
僕は、おずおずと一歩出て頭を下げた。
「どうも」
真理枝さんがにやっと口角を上げた。
「どうも。キミが千鳥くんですね? お話、伺ってますよ」
「あ、そうですか」
「飲み物、出しましょうか」
「お気になさらず」
「いいですから、待っていてください」
彼女は掃除機を壁にたてかけて、キッチンの方へ歩いていった。
真四角のパックに入っているオレンジジュースがグラスに注がれ、ダイニングテーブルに置かれた。椅子に座った僕は「いただきます」と言って、それを一口飲んだ。
真理枝さんは、僕の向かいに座って、何やらじっと、僕の顔を見据えている。
「……なんですか?」
「いえ。思っていたよりも、真面目そうな方だなと思いまして」
「はぁ」
「あ。今、お前も家政婦の割に不真面目そうだけどな、って思いました?」
「なんですか、一体」
僕の後ろに立っていた華火くんが、「ちょっと」とテーブルに手をついて、真理枝さんに向かって身を乗り出した。
「あんまりからかわないでよ、千鳥のこと」
「ふふ」真理枝さんはいたずらに微笑んだ。「すみません」
「はぁ……」
華火くんは、ため息をつくとテーブルを離れて、ぐっと伸びをした。
「オレ、シャワー浴びてくるよ。汗かいた」
「はい、どうぞ」
そうして、華火くんはリビングを後にした。
僕と真理枝さんだけがそこに残される。華火くんに、僕と真理枝さんを一対一で話し合わせる意図があったのかどうかは定かではない。しかし真理枝さんは、やはり興味深そうに僕を見ているようだった。
「真理枝さんは」僕から切り出した。「いつから、ここで働いているんですか?」
「つい、二年くらい前からですね」
「二年?」
「ええ。思ったよりも最近でしょう。前任者の紹介です。もっとも、そういうコネでなくてはここの家政婦にはなれません。秘密が多すぎますから」
「一人でここの家事をしているんですか?」
「基本的には。旦那様は車の運転もご自身でしますから。人を信用してないんですね」
「大変そうです」
「休日はありますし、それほどでも。子ども二人ももう大きいですしね。ただまぁ、火魚さんのお守りには、厄介さはあります」
真理枝さんは皮肉っぽく微笑んだ。
よく見ると、真理枝さんが耳にリング型のピアスをつけているのがわかった。
真理枝さんがこの家にやってきたのが二年前。僕が華火くんと出会ったのも、それくらいの時期だっただろうか。あの頃、彼はまだ髪を染めていなかった。もしかしたら、この人に影響されたのかもしれない、とその時思った。
「火魚ちゃんは難しいですか」
抽象的な質問をしてしまった。だが、角が立たない言い回しをとっさに思いつかなかった。
「難しい。旦那様はある意味でいい加減だから、家事なんかは手を抜いても怒られやしないですが、娘のこととなると厳しいですから。適当にはできない」
真理枝さんは、かしこまった口調に慣れている風ではなかった。僕としては、お店の店員以外の年上の人に敬語を使われるのがどうもむず痒い性質なので、気を使わずに普通に喋ってもらって構わないのだけど、僕からそう要求するのも馴れ馴れしい気がした。
「火魚ちゃんは、今どうしていますか?」
「部屋に。約束を忘れていなければ、じき降りてくると思いますけど、どうですかね」
「約束?」
「勉強を教えるんです。彼女、学校に行ってないですから」
火魚ちゃんは学校に行っていないらしい。
驚くことでもなかった。彼女があの外見でいる限り、悲しいが、この暴力の満ちた社会では簡単に差別されうるだろうと僕には思えた。もしかしたら、すでにそんな体験は通過済みかもしれない。奇異の目は避けられないだろう。実際学校に行かない理由は、他にあるかもしれないが。
どう返せばよいか分からず考えこむ僕に、真理枝さんは言った。
「キミが教えてみるのはどうですか?」
突拍子もない発言だった。僕は呆気にとられて、少し黙った。
「なんですって?」
「キミ、その様子だと華火さんのお願いを聞いたわけでしょ。五日間ここに来るなら、彼女に勉強を教えるのはどうです? 中学一年の数学なんて、期末テスト明けの高校生には楽勝でしょう」
「勘弁してください」
「そう。いやならいいですけど。華火さんもよく手伝ってくれるんですが、しょうがないですね」
「いや……待ってください」
僕はオレンジジュースをまた一口飲んでまた考えた。
僕は家庭教師を頼まれたわけではない。僕は、ただ彼がいない間、この家に通えと頼まれた。しかし、彼がそう言っていたのはそうなのが、本当に通うだけで良いとも僕は思っていない。とはいえ僕には、華火くんがいない状態で、火魚ちゃんと何を話せば良いのか、全くもって検討がつかない。どう接すればいいのか、まるで分からなかった。
取っ掛かりが必要なのは確かだった。僕は、合理的かもしれないという結論を下した。
「やってみます」
僕がそう言った、そのすぐ後、背後から「ぺたぺた」と音がした。裸足で階段を降りる音だった。
振り向くと、やはり火魚ちゃんが階段から降りてきていた。前と同じブラウスを着て、腕に数学の問題集と筆記用具を抱えて、一歩ずつ、あの階段を降りてきていた。
「あ。……こんにちは」彼女は僕に気づいて一礼をする。「来てたのね」
僕はその時、初めて彼女の声を聞いた。清くて澄んだ優しい声色だが、不思議とこの広いリビングで、はっきりと響いて聞こえた。
しばらくして、リビングには僕と彼女の二人だけになった。
彼女は僕の隣で黙々と、中一数学の問題集と、式と解答を書くためのノートに向き合っている。一次方程式の単元だった。別冊の答案集は僕が預かっている。僕はそれを開いて漠然と眺めながら、時折彼女が問題を解く様子をちらちらと伺っていた。
「違っていたら、止めて」僕に一瞥もせず彼女は言う。「違っていたら、恥ずかしいもの」
「間違いは、あとで答え合わせのときに言うよ」
「後で気づくよりも、今気づきたいから」
「そう。じゃあ」
僕は彼女のノートを指差した。
「二問目と四問目が間違ってるよ。解法はちゃんと合っているから、もう一度よく見て」
彼女は、返事もせず、書いた式に消しゴムをかけて、また黙々と計算を始めた。
僕は段々と、怒りに似た感情を抱き始めていた。もちろん、彼女にではない。彼女が降りて来るなり、「今日は彼が教えます」とだけ言って、掃除に戻ってリビングを後にした真理枝さんに対してだ。
去り際に真理枝さんはほくそ笑んでいたように思える。おかげで、僕はこうして、ろくな日常会話もなく気まずい雰囲気のまま、マンツーマンで火魚ちゃんに勉強を教える羽目になった。やってみると言ったのは確かに僕だが、何の引き継ぎもないままポンと渡されても困惑してしまう。
華火くんも、シャワーを浴びるといって戻らないけど、一体何をしているのだろう?
僕の隣で問題を解く彼女の姿を見る。近くで見ると、太い首に刻まれた鋭い切り傷のような鰓や、ざらざらの肌の迫力に、少し気圧される。こうして座っていても、僕と彼女の体格差は歴然としていて、あまり年下の女の子といる気はしなかった。
彼女は尻尾を、椅子の背もたれの隙間から出して座っている。背もたれに隙間がない椅子やソファなら、尻尾は横に逃がすんだろうか? 陸上生活では邪魔くさいだろうな。
手も僕の手よりガッシリとしていて大きいし、鋭く長い爪と水かきのせいで、多少ペンを握りにくそうに見えた。
ところで……僕は華火くんの手袋について、この時点で、とある推論を立てていた。それは、彼の手も今眼の前にある火魚ちゃんの手と同じように、爪とか、水かきだとかがあるのだという考えだった。それなら、彼が秘密を守るために、手袋をするのにも頷けた。もっとも、仮にそうだとして、問題なく手袋を嵌められるのだから、さほど人間離れしてはいないのだろうけど。
──僕がそのことについて考えていると、突然、火魚ちゃんがこちらを見て言った。
「ねぇ、私って臭うかしら?」
勉強会と関係のない、突拍子もない質問に、僕はしばらく黙った。「~~かしら?」という、漫画チックな口調に驚いたという部分もある、
「……臭うっていうのは?」
「魚くさい?」
彼女が気にしているのは、その彼女の独特の体臭のことだった。それが彼女の言う、臭う──つまり、不快な匂いである、と言うのかどうかはさておくとしても、この距離なら否応なしに、それは鼻腔で知覚された。
「そんなことはないと思うけど」
「嘘」
まるっきり嘘ということではない。僕はそれを不快だとは思ってはいなかったからだ。それは紛れもなく魚類に特有の、「生臭さ」と形容される類の匂いだったが、だとして、今こうして隣にいて、それで嫌悪感を抱くわけではない。居心地の悪さを感じたとしても、それは真理枝さんの作ったこのシチュエーションに対してだ。
それに、魚の匂いと言うと、僕には思い出される記憶がある。匂いと記憶は密接に結びついているという話は、真実味があると思う。
「どう言って欲しいの?」
僕がそう尋ねると、彼女はまぶたを伏せた。問題集を見ているわけではなさそうだ。両の手をテーブルの下におろして、自分の膝の上に置いていた。
「正直に言ってほしいの」
椅子からはみ出した尻尾を、後ろで忙しなく、ゆらゆらと揺らしている。時折、尾びれで床を叩く。緊張した人が、無意識に足を組み直したり、何か特定の手遊びをしたりするのと、同じ類の仕草に見えた。
「そうだね」僕は答案集を置いた。「匂いはすると思うよ」
「魚の匂い?」
「そうだね。それに近い」
「くさい?」
「そうは言わない」
また嘘を言うのか、とでも言わんばかりに、彼女は僕を睨んだ。苛立ちを表現して尾びれで床を叩き、平手打ちのような音がリビングに響いて、僕はゾッとした。嘘を言われることがよっぽど嫌いらしい。
「……キミから魚の匂いがしてるのは、そう。だとしても、今こうして僕が隣で、普通な顔して、勉強を教えてることが全てだよ。僕は気にしないし、キミも気にしないで」
「我慢しているのね」
「違うよ」
「そんなこと言って、本当は口だけなの」
彼女はどうしても、僕の態度に懐疑的だった。彼女はずっと引きこもっているわけだし、突然現れた外部の人間である僕に、そういう疑念を抱いて接するのは、確かに無理もないことなのか?
しかし、匂いの話を始めたのは、紛れもなく彼女自身だ。どうやら彼女は、そのことに関して拗れたコンプレックスを抱えている。計算のケアレスミスも、そのことをずっと気にしていたからかもしれない。
僕は、最初に彼女に会った時のことを思い出す。彼女は僕の言葉に一言も返事をせず、冷たい水を浴びせた。そして、そのことを、華火くんを介して、僕に謝った。ガラスごしに、丁寧に一礼をした。
彼女はこの広い世界で、稀有な存在だ。半人半魚の身に生まれた彼女の苦しみに、本当に共感できる人がどれだけいるだろうか。
「子どものころ──」
僕は喋り始めていた。せめて、信じてもらいたかったからだ。
「──おじいちゃんに、朝市に連れて行ってもらったことがあるんだ」
それは、僕の思い出だ。三年前に亡くなった祖父の話。僕は両親よりも、むしろ祖父母に懐いていた。父方の祖父母とはとっくに縁が切れていたので、母方の祖父母だ。夏休みだとかに、二人の家に泊まるのは僕の楽しみだった。祖父は朝起きるのが早かったが、僕はその時間に合わせて早起きをして、祖父の日課の散歩に付き合った。幼い僕にはそれが嬉しかった。
「朝市?」
火魚ちゃんには、聞き慣れない響きなのだろう。彼女はきょとんとしていた。
「そう。市場は早朝なのに、たくさん人が集まってた。お祭りみたいでワクワクした。そこら中から、魚の匂いがしていた。おじいちゃんはそこで、確かヒラメを買って、その日の昼にそれを食べた」
「それが、なんなの」
「僕は魚の匂いでそのことを思い出す。だから、悪い気はしないんだ」
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