1-4
朝のニュースで、芸能人の不倫騒動の話題が報道されていた。昨日の夜にも見た内容だ。大して関心のある話でもなかったが、僕の母はゴシップ好きだったので、興味深そうにそれを見ていた。
良い趣味と思わない。なんならゴシップは、明確に悪趣味だと思う。だが、僕にも動画サイトでゴシップ動画の品性下劣なサムネイルを面白半分でクリックした経験があったので、どこか複雑な心持ちだった。
隠されているものを白日のもとに晒す。そういうことで人は本能的にカタルシスを覚えるし、真実を知るということの全能感に浸ることができる。もちろん、真実を知ることは重要だ。けど、そこには責任と知性が伴っていなくてはいけない。
隠されているもの。僕は火魚ちゃんのいたあの室内プールを思い出す。あの開放的な雰囲気のある豪邸の中で、あのプールだけは、意識的に秘匿された空間のように見えた。火魚ちゃんの存在ごと、世界から隔離するための壁のようにも見えた。
あんなことがあった後でも、月曜日が来れば、当たり前に学校がある。親友の華火くんはヒトとヒトガタのハーフで、彼の妹の火魚ちゃんは人魚だった。僕はまたあの家に行き、そして火魚ちゃんに会うだろう。日曜日は一日中のそのことを考えていたし、週明け学校に来てみても、先生の話は耳を通り過ぎて雑音になっていく。自分の首を撫でてみて、火魚ちゃんはこのあたりに鰓があったな、などと、僕は考えていた。
僕はむしろワクワクして、高揚感に浮かされていたと思う。これも、真実を知ることの全能感と言えてしまうのだろうか。
華火くんは僕とは別のクラスだった。そして、僕たちの友人関係の距離感として、休み時間のたびに教室を移動してまで、お互い会いに行くようなことはない。だから彼と話すのは、決まって昼休みか放課後だ。もちろん、華火くんは結構平気で学校をサボるので、一度も会えない日もよくあった。
その日も昼休みになってようやく、僕は彼のクラスを訪ねた。だが、彼の姿はそこにはなかった。これはどうやら、午前の授業をサボったか、とっくに早引きしたか、保健室で寝ているかだろうと思い、僕は自分の教室に戻った。
僕のクラスの様子はというと、みんなどこか浮き足だった雰囲気だった。期末テストの返却も終わり、明日はついに終業式だ。待ちに待った夏休みがいよいよ始まるのだから、そうなれば、開放的な気分にもなる。
放課後、華火くんは校門前で僕を待ち構えていた。
「おはよう」
彼は、その日会った最初の挨拶では、昼であろうと夜であろうと、何時であろうと必ず「おはよう」と言う人だ。
「おはよう。午前はサボったの?」
僕が問うと、彼はばつが悪そうに頭をかいて、「まぁね」と言った。
「単位大丈夫なの?」
「その辺は計算してるさ」
僕たちは自然と、並んで歩き出した。彼は授業をサボりこそすれ、どうやら進級に支障をきたさないよう計画的に行動しているらしかった。成績についても、定期試験なんかは危なげない様子だし、彼はしたたかで賢い。その点は疑う余地はない。僕の方も、期末試験は無難な点数を取ることができた。二人揃って補習だとかの心配はなさそうだ。
都市の喧騒にも似た、けたたましい蝉時雨の中を僕らは歩く。
「もう夏休みだなぁ」と彼は言った。
「そうだね」
「クラスの女子が、みんなで海に行こうとか言ってた。オレ、どうしようかな」
「海浜公園なら、キミんちのすぐそこだね」
「ああ」彼は少し考える。「……やっぱりパスだな」
「そうか。じゃ、僕もそうしよう」
「千鳥のクラスでも、そういう話あったの?」
「今のところないけど。まぁもし今後あればね。それにキミんちで遊ぶ方が楽しそうだ」
「そう変わらない距離だしなぁ」
彼は柔らかく笑った。彼の出自についてのあれこれを知った上で、やはり彼は彼だと思った。僕も、彼に対して接し方を変えるわけじゃない。何気ない日常の会話は心の滋養になる。僕たちは変わらずに、こうして歩き続ける。
僕はそういう期待をしていた。だが彼は声色を変えた。
「ところで、」そう切り出し、少し表情を強張らせる。「オレんちにまた来るって話だけど」
「え? やっぱりダメそう?」
「いや、むしろ逆で、頼みたいんだよ」
彼は突然、街路樹のそばで立ち止まった。僕も立ち止まって振り向く。安穏に満ちた会話の流れを断ち切って、彼は何やら改まった態度だった。木漏れ日が落とす濃い影が、彼を覆っている。
「どうしたの?」
僕が問うと、心配させたと思ったのか、彼はまた穏やかに笑った。
「大したことじゃないんだ」
「だから、何さ」
「旅行することになったんだ」
「旅行?」
「あぁ。親戚に誘われて。夏休みが始まってすぐ、五日間ほど向こうに行ってくる。断れそうにないんだ。本当は、昨日伝えておこうと思ったんだけど、タイミング逃しちゃって」
「へぇ。どこに行くんだ」
「海の向こう」
海の向こう。彼はそう言って目を伏せる。
要するに、彼は夏休みに五日間だけ海外に出かけて、その間家を留守にするということらしい。
「キミ一人でいくのか?」
「オレ一人でいくよ」
「そう。良いじゃない。楽しんできなよ」
「火魚が寂しい思いをしちゃうんだ。それが心配なんだ」
そう言う彼の声色は、切実だった。
いつも僕の前で飄々としている彼が、その時突然、どこか窮屈で、神経質で、抑圧的な男の子に変わったように見えた。僕は、十五歳の兄と、十三歳の妹の関係が普通どういう風なのかは分からない。兄妹とは、あるいは、そういうものなのだろうか?
とにかく、彼が火魚ちゃんに対して抱く感情は、僕が想像している以上なのかもしれない。と、僕はその時思った。
「僕がその間、キミんちに顔出せばいいの?」
「そうだ」
僕は少し考えて頷いた。
「それでいいなら、いいよ。でも僕、彼女に警戒されているみたいだけど」
「気楽に構えてくれ。ただ、顔出してくれるだけで助かるんだから」
彼はすぐに、いつもの穏やかで軽やかな笑顔を見せて歩き出した。
「ありがとう」
「いいよ、華火くんの頼みなら」
僕が、彼の頼みを断れるはずがない。僕は彼の親友でいたい。それだけは真実だ。
しかし僕は、彼のことを深く知ることができたようでいて、実際は全く、表層の部分しか理解していないのだろう。もう長い付き合いだと思っても、ある日、知らなかった一面が突然に現れてくる。
そもそも、あの白い手袋のことだってそうだ。僕は一度も、その下にある彼の手を見たことがないのだ。
僕らはしばし無言になった。先程よりも、セミの騒ぐ声がうるさく感じる。
「……素数ゼミの話はしたっけ?」
彼が言った。
「聞いたよ。十三年だか、十七年の周期で現れるセミ」
以前、彼が喋っていたのを覚えている。確か、同じような夏の日だった。
彼は顎に手をあてた。ますます、僕は彼の手袋が気になってしまう。
「もし、その周期が何千年、何万年という規模だったら、周期があるということにも、オレたちは気づけないんじゃないか。と、ふと思ったんだ」
「セミの周期が? なんだか、現実的じゃない気がするけど」
「まぁね。でもとにかく、それは、なんていうか、メッセージを受け取りそこねてるってことだ。あまりにも大きすぎて、人の限界を超えてるから……」
「……なるほど」
突拍子もない話だった。海外旅行の話題はどこへやら、というように。しかし僕の脳裏には、先程までの彼の表情が焼き付いていて、反応がずいぶん鈍くなっていた。
返答を考えている僕をよそに、彼は言った。
「ヒトガタのことにしてもね」
ヒトガタ。ここでその言葉が出てくるのは予想外だった。その巨大な周期の話と、ヒトガタとの間になんの関連があるというのだろうか。彼らが突然この世界に現れたことに、解読すべきメッセージの存在を、彼は見出しているのか? 何か大いなる、神がかり的な機能の働きが、そこにあると?
人の認知を超えた大いなるメッセージ……それを彼は言いたいのか?
僕は、あの日僕を見下ろした──そう錯覚させた──鳥のヒトガタのことを改めて思い出した。あの時、現実感のないこととして虚構の中に押し込んでしまったそれは、今は確かな現実として僕に関与している。
ヒトガタがこの世界に現れ出した最初の記録は、今から二十五年前まで遡る。
北極海にて発見された、実に奇怪なその白い生物が、人類が初めて接触したヒトガタとされている。遭遇したのは、調査捕鯨船の乗組員だった。目撃した当初は奇形のクジラではないかと思われたそうだが、実際に捕獲されたそれの姿は、乗組員の生理的な恐怖心を呼び起こした。それはのっぺりとした、白い被膜を身にまとった巨人、としか形容のできない生物だった。何よりもその「手」を見た時、その場にいた全員が思わず震え上がったのだそうだ。
手は、多くの人間が自分の顔よりもよく見る箇所であり、人間が世界と関わるためのツールと言える。それゆえ、猿の手とヒトの手の区別は、誰にも容易なのだ。その生物の手は、誰が見ても明らかに、ヒトの形をしていた。
ヒトガタ一号は、すぐに絶命した。だが、そのファースト・コンタクトを境に、世界中で「限りなくヒトに近く、ヒトでないもの」が、次々に現れ出した。最初の数年は、ひっきりなしに目撃証言が相次いでいたし、彼らの持つ、ヒトと対等な社会性や知性についても露呈して、社会全体が騒然としていたそうだ。この大発生の時期を経て、今のヒトガタを形式上受容する社会が出来上がった。
とにかく人間社会は、彼らを受容するほかなかったのだ。頭ごなしに排斥するには、彼らはヒトに近過ぎた。大きな力に導かれるように、ヒトガタという存在は、すぐにこの世界の一部になった。
大発生の時期を過ぎて、彼らの発生は、ごく稀に起きる現象という程度に頻度を減らした。結局、彼らは今でも物珍しい、神出鬼没の存在の域を出ない。
だが、実際に彼らはいるし、ヒトに近い姿で、ヒトに近い振る舞いをして、どこかで生きている。
僕は、これから始まる夏休みのことにも思いを馳せる。
僕は確かに、何らかの物語の登場人物になりつつある気がした。期待した通り、彼が僕を舞台に上げるのだ。連れ出してくれる、という高揚感が、昼まで僕を満たしていた。だが、この時になって同時に感じ始めたのは、引きずり込まれる、という不安感だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます