1/100のレレ子

何雲しらね

プロローグ 鳴川又郎の受難




 泡美市という町をご存知だろうか。

 正確な位置は記載しないが、あえて場所を言うなら近畿圏の兵庫より西にあり、京都の南側にあると想像してもらえればいいだろう。

 自然の風景を色濃く残したこの町はハイキングや観光目的に訪れる人も少なくない。

 そんな泡美市には一つの伝承が存在するのである。

 昔、まだ泡美市が存在しない時代のことである。山を統治する神である泡美ノ尊が池で身を清めていた際に誤って手鏡を落としてしまった。

 慌てて拾おうと池の中に手を伸ばすが、鏡は既に水底まで沈んでしまい届かない。

鏡を諦めきれない泡美ノ尊は仕方なく池に飛び込み、淀んだ水をかき分けて水底まで泳いでいった。

水底にたどり着いた泡美ノ尊は泥に埋もれた手鏡を拾い上げるも、水底の石にぶつかったのか手鏡の鏡面には無数のヒビが入っていたのである。

これでは使い物にならないと大層がっかりした泡美ノ尊だが、鏡に写る自分の姿に妙な違和感を覚えた。再度鏡面をよく見ると、ひび割れた鏡面に映る無数の自分のどれとも目が合わないのである。

不思議に思いながらも泡美ノ尊はその手鏡を水底に捨てたまま水面まで上がろうとした。

しかし、水底にいる何物かに足を掴まれてしまった。驚きながら振り返ると、自分と同じ顔、同じ背格好をした何百人という自分の分身が水底から自分の足を引っ張っていたのだ。

「お前たちはなんだ?」

 問いかけに泡美ノ尊の足を引っ張る何者かは口を揃えて答えた。

『私たちは、お前の隠すものだよ』



 九月の末日。うだるような夏の暑さが消え、泡美市にも気持ちの良い秋風が吹き抜けるようになった。

 その日、俺はレレ子から「劇団のことで話がある」と大学終わりに呼び出されていた。場所は商店街の外れにある喫茶店ピーコック。二人でよく訪れる馴染みの店だった。

 そこで何の話をしようとしていたのかをここで語る必要はないだろう。

なぜなら、頼んだコーヒーが来る間もなく会話は破綻し、気が付くと俺は彼女の飲んでいた紅茶を頭からかぶっていたからである。

「なんでそうやって、全部すぐ諦めるんですか!」

 立ち上がり、声を張り上げて彼女は俺を叱咤した。おそらく普段から怒ることに慣れていないのだろう。握りしめた拳はぶるぶると震え、俺を睨みつける大きな瞳には今にも決壊しそうな涙の膜が張っていた。

「又郎くんらしくないです! そうやってわかったような顔して誰とも張り合おうとしないなんて。あんな風に言われていて悔しいとは思わないんですか!」

 目からぽろぽろと涙をこぼしながら、レレ子は俺に言う。その瞳からの視線に罪悪感を覚え、俺は咄嗟に目を逸らして奥にいるウェイトレスに助けを求めようとする。だが、店はたいして忙しくもないのにウェイトレスは知らぬ存ぜぬを決め込んで目を合わせようとしてくれなかった。

「目を逸らさないでちゃんと答えてください!」

「わかった! わかったから一旦落ち着こう!」

 必死にレレ子をなだめようと試みてみるが、逆にそれが話を逸らそうとしているように感じられたのか、レレ子の怒声のボリュームが一段上がってしまった。

 こうなっては埒が明かない。おそらく彼女を余計に怒らせるだろうと思いながら、俺は一度深くため息をついて彼女に言葉を返した。

「ごめんな、レレ子。けど、もういいんだよ。俺がどう思われていようが、他の奴らがなんと言おうが本当にどうでもいいんだ。俺のために怒ってくれるお前の気持ちには感謝しているよ。でも、もう俺のことなんか気にせずにお前も好きなようにやってくれ」

「好きなって、私が何するって言うんですか!」

「知らないよ。でも、お前は俺みたいなどうしようもない奴を気にかけなくても上手くやっていけるよ」

 だってお前はそういう人間なんだから、

そう言ったあと、俺はレレ子が最も嫌う言葉を言ったことに気づいた。

 レレ子の顔を見る。つぅっと静かに涙を流しているが、その瞳はあり得ないものでも見たのかと言わんばかりに大きく開いて俺を睨んでいる。

 間違えた。完全に間違えた。

 もっとマシな言葉があっただろうと、俺がそう自覚した時には既に手遅れだった。

「じゃあ好きにしてくださいよ! 私も好きにしますから!」

 そう言って、レレ子は自分の財布から紅茶の代金を乱暴に机に叩きつける。

 そして、置き土産とばかりに俺の右の頬に綺麗な左ストレートを喰らわした。

 脳天に響く一撃だったか、さっきかけられたアールグレイの香りを置き去りにして俺はテーブルの下に倒れ込んだ。

「痛ってぇ! なんでグーパン? そこは普通平手とかじゃないの?」

「うるさい! 又郎くんなんて知りません! くたばれ!」

吐き捨てるようにそう言ってレレ子は店を出ていった。

朦朧としながら俺は椅子に座り直す。するとタイミングを見計らったようにウェイトレスが注文したブレンドコーヒーと服を拭くためのタオルを持って現れた。

「よければお使いください」と真っ白なタオルを渡すウェイトレス。

俺はタオルを受け取って顔や服に付いた紅茶の水滴を拭き取った。ある程度は拭き取ることが出来たが、着ていた白いシャツに染みこんでしまった紅茶はなかなか取れず、肩や胸周りにはアールグレイの赤い斑点が無数に浮かび上がっていた。

俺はウェイトレスにお礼を言いながらタオルを返し、厨房に下がるのを見送ってからコーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着かせようとした。

「どう答えれば良かったんだろうか」

 もっと彼女を怒らせないような返事が出来たのではないか。泣いている恋人にたいしてする態度にしてはあまりにも素っ気ないものだったのではないか。もっとちゃんとした会話が出来たのではないか。

後悔ばかりが積もる。飲むたびに酸味が強いと顔をしかめていたブレンドコーヒーも今は色が付いただけの水みたいに味がしなかった。

「……帰ろうか」

 殴られた右頬をさすりながら、俺はほとんど口を付けていないカップを置いて席を立とうとした。

その時だった。

「彼女、追いかけないのかい?」

 突然、隣の席にいた男に話しかけられた。

 急に話しかけられたことにも驚いたが、それよりもその男の姿に俺は目を疑った。

 目測だけでも身長が二メートル近くありそうなその男は、白衣と袴という如何にも神職の人間であるといった風貌をしている。

モダンな雰囲気の店内には明らかに不釣り合いな恰好をしたその男は、何が面白いのか俺を見てにやにやと妙な笑みを浮かべている。

なんだこの男は。怪しすぎるだろ。

「君、名前は?」

「へ?」

「名前だよ。あるだろ? 名無しじゃあるまいし」

 馴れ馴れしい口調で男は俺に名前を聞いてきた。答えるかどうか一瞬戸惑ったが、俺の名前が知られたところで特に問題もなかったので素直に答えることにした。

「鳴川です。鳴川又郎」

「そうか、堀川くんか」

「いえ、鳴川です」

 教えて五秒も経たないうちに名前を間違えられた。聞いておいて覚える気ないな、この人。

「さっき出てった子、君の彼女だろう? 追いかけなくていいの?」

 自分で注文したらしい固焼きプリンをスプーンでちまちまと食べながら、男は店を出ていったレレ子のことを俺に訊ねた。

「ええ、まぁ追いかけるべきなんでしょうね」

「なんだい? その言い方は。まるで追いかけたくないみたいじゃないか」

 言い淀む俺を見て、男は眉をしかめた。

「ちゃんと話をしてきなよ。遺恨が残ったら嫌なんじゃないのかい?」

「ははは。まぁそう思いますよね」

 どの目線で言っているのかわからない男の言葉に俺は愛想笑いを浮かべながら答える。

「言葉で傷つけた相手に掛ける言葉に、説得力ってあると思います?」

「ないだろうね」

 俺の問いかけに男はきっぱりと言い切った。

「だからですよ。今の俺が何を言ったところで彼女はきっと何も聞いてくれないだろうし、掛ける言葉も資格もありませんよ」

「……なるほどね」

 少々引き気味に言いながら男はプリンを完食して手を合わせた。

「ところで、『レレ子』ってのは本名かい?」

 いや、そこに食いつくのか。

「本名が令和坂麗子って言うんですよ。だから苗字と名前から一文字ずつとって『レレ子』って呼んでるんです」

「ああ、なるほど。そういうことね」

 納得がいったのか男はそれ以上何も聞かず、席を立って会計の用意をし始めた。

 座った状態でもわかっていたが、立ち上がった男の背丈は思わず見上げてしまうほど高く、厳かな雰囲気のある服装も相まって巨大な妖怪に出会ったような感覚に陥った。

「まぁ、なんだ。付き合っていたら喧嘩の一つぐらいはするだろうし部外者の私が何か言うのもおかしいが、彼女と別れたくないならもう一度ちゃんと話をしておきなさい」

 何かあってからでは遅いからね、と財布の中の小銭を数える片手間で男は俺に言った。

「何かって?」

「さぁ? それは私の知るところではない」

 とぼけた様子でそう答え、男は会計を済ませて店を出ていった。

 ちゃんと話したほうがいい。確かにその通りだと思う。

でも、話したところでレレ子が納得するようなことを俺は言えるのだろうか。いや、きっと無理だろう。これでも半年付き合ってきたのだ。彼女のことは何となくだがわかっているつもりだ。

「話しあえれば、今日みたいな日も良い思い出に昇華出来るんだろうか?」

 そう呟いて、俺は飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。

 やはり味はしない。

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