〈廃教会にて〉Ⅷ
Au revoir,と煙のように囁かれた挨拶に曖昧に返し、しばらく歩いてから二人が振り返ると、神の子は教会の前庭で、ぽんやりと白い花と砂で城のようなものを造っていた。
「……あいつと話すと疲れるな」
「あ、ゼンも?」
心なしか窶れた風情の二人は、ずるりと濡れた足を水から引き抜く。ユィルマズは煩わしそうにブーツに張りつく泥を睨みながら、肩を竦めた。
「どれだけ美しくっても、あいつは破壊を司ってるからさ。…こっちは緊張しちゃうね」
納得したように、ゼンは首肯した。
「それじゃあこの雨も、やっぱりあいつが降らせたんだろうか。これは『破壊』だろう――」ゼンは水を蹴り、爪先を濡らす冷たさと、それを瞬く間に乾かす太陽熱に呟いた。「『神の子』だからな」
ユィルマズは苦笑めいた表情を浮かべたが、面白いというように頷いて見せて、「神殿を荒らされたから、罰として皆流してしまおうって? ――いかにも神話だね」
ゼンは頷き、「和げば神となり、荒ぶれば怪となる――それが俺たちの故郷における『神』だからな」
水に浮いていた人の手首をそっと鞘でどけて、ゼンは歩を進めた。その誰の物とも知れぬ、体も髪も刺青も失い、敵も味方も無くなってしまった肉塊を目で追って、ユィルマズはふと呟いた。
「まるで、デウス・エクス・マキナ…だね」
ん、とゼンがユィルマズのほうを見る。足元を見ていないと歩きづらい道程であるのに、律儀な男だとユィルマズは思いながら、自分も彼と視線を合わせた。「訳すなら、機械仕掛けの神さま、かな。旧き時代の、文化の遺産みたいなもんよ」
ほう、と大した興味もなさそうにゼンは返した。「あいつ、機械仕掛けだったのか」
「それはオリエンタル・ジョーク?」
ゼンは答えなかった。代わりに、その能面じみていた無表情の口角を、ほんの少し――ほんの少しだけ、吊り上げた。
「ゼン、ジョーク下手だよね」
「……シャフークにも言われた」
「だろうね」
「……もう必要はなさそうだし、やめるかな」
「必要って、なんのために言ってたのさ」
ユィルマズが訊くと、問われた方はうーんと首を傾げ、ぱしゃぱしゃとわざと水を跳ね上げて、しばし考えていた。
「……仲良くなるため、かな」
やがてこぼされた言葉に、わずかに沈黙が続く。ゼンは気まずそうにあさっての方向を見ながら、話題を変えた。「そういえば、シャフークと――ほら、一緒にいた奴も――あの二人、大丈夫だろうか」
「ああ、あの二人なら生きてたよ」
ゼンは片方の眉をあげた。ユィルマズは肩を竦める。「上から見えたのさ」
何を話してるかまではわからなかったけどね、と言う横顔に、ゼンはふと、どこか無感情な色を見る。それは嵐をただ見つめていた、神の子のそれと少し似ていた。ゼンはそこから視線を外して、頤に指を当てた。
「結局、最後までは傍に居なかったからな。謝罪の必要がある」
「別にさあ……」呆れたように目を細めてそれきり口を閉じるユィルマズに、ゼンは切れ上がった眦で鋭くねめつける。「お前だって自己満足で俺にくっついてきたり、俺を助けたりしたくせに。狢だぞ」
ターコイズ・ブルーが辺りをさ迷った。亀裂や水底の石畳の凸凹をなぞり、思案する長い沈黙――自分が自分ではなくなったことを発見したかのように、若く苦い沈黙――その横顔をゼンは黒い瞳で見つめて、やがて視線を前に戻した。
そのとき、不意にユィルマズが立ち止まり、堪えきれないというような、苦笑じみた…けれど、どこか清々しい表情を浮かべた。「――違いない!」
ゼンは瞬いて、彼のそのかんばせを見た。ひゅるりと、二人が身にまとっていたそれぞれの紅絹が翻った。
それきり会話は途切れ、二人はそれなりに付近を警戒しながらも、安定して歩を進めた。
教会から少し離れたところで、不意に瘴気めく気配を感じとり、ゼンは背負い直した大太刀の柄を握った。傍らのユィルマズも、残党かという風に辺りを見回す。その正体はすぐに知れた。
建物の暗がりに、闇が凝ったような巨体がもたれ掛かっていた。反射的に鯉口を切るゼンを、軽くユィルマズが制す。その険しい横顔は、悪運の強い奴だと毒づいているように見えた。
男の手に握られた片刃の先端から、血の混じった水が一滴落ちた。
「気はすんだろ」
ユィルマズの冷ややかな目に、闇――顔のない男は、ゆらぁりと振り返った。開かれた傷から夥しい血の量が流れているはずなのに、意識は明瞭なままのようだ。相も変わらず光を吸い込むような黒黒した巨体をわずかに傾がせて、男は低く笑った。ユィルマズはひらりと右手を振る。早く出ていけ、というように、砂漠の方向を示しながら。
「約束だよ。決着はついたんだろう。このうえで略奪でもしようなんて命知らずじゃ、さすがにないでしょ」
まだお相手の配下は生き残ってるよ、とユィルマズが言う横で、ゼンは大太刀の柄に左手をかけたまま、じっと身構えていた。
男は笑い続けている。壊れた機械のような、いまわの際の痙攣のような、孔から吐き出されたそれが宙でどろりと凝固して足元に落ち、闇夜をつくっていく、昏い笑い声だった。血の臭いのする呼気を吹きかけ、男はユィルマズを見た。
「……望みは叶った」
水を流れてきて足に当たった、生首だったらしい残骸を掴みあげ、男は北を見た。
「……だが、ここにはまだ、"望む"者がいるようだ」
ユィルマズは眉を動かし、かちりと腰に佩いたシャムシールを鳴らした。男は掌中のざんばらになった髪を握りしめ、泡の弾けるような笑いを孔の底で響かせた。
「この街からは出ていく。…案ずるな」
謎めいた言い回しにユィルマズは眉間に皺を寄せて、結局は面倒になったのか、「じゃあ早いとこいなくなってくれよ」と冷めた口調で言った。
血と闇を引きずりながら、ずるりと太陽のもとへ現れ出た男は、二人を見えないもののように通り過ぎて、道の真ん中で立ち止まった。
ひとり、またひとりと……長い髪を翻し、屋根や、瓦礫の影や、廃墟の中から、雨と消えない血の臭いがする男達が現れ出る。皆、雨に洗われたダマスカス・ソードを佩き、ぎらぎらした眼差しを二人に投げかけながら、冷たい夜の断片が吸い寄せられるように集まっていく。使徒めいた彼らは、黙って顔のない男に付き従い、やがて踵を返した男の後を追って、通りを南へ歩き出した。水面が波立つ。一時的に濁った河となった北の通りには、花や砂と一緒に、ばらばらの人の屍骸も浮いていた。
千切れた黒雲の一端のように、その一団は去っていく。
砂混じりの風に吹かれながら、二人はその光景を見つめていた。
ひたひたと、足の裏を水に浸される。砂山を水に均されて、すっかりかつての石畳が露出した、陽炎が揺らぐ通りを見ていたユィルマズはふと口を開いた。
「ここ、ずぅっと昔は狙撃兵通りって名前だったんだ。素敵な名前だろう」
スナイパー・ストリート、と口に上った単語に、ゼンは怪訝な顔をする。「狙撃兵、とは」
右手の人差し指と親指を立て、その手首を左手で支え、ユィルマズはゼンの眉間に狙いをつける。ばあん、と言いながら片目をつむる。「グレート・ウォーが起きるより前……WWⅡよりは後かな。この街がかつて普通の街だった頃、ちいさな――グレート・ウォーに較べれば、だけど――ちいさな戦争が起きて、ここは敵に包囲された。かつては土であった丘陵に陣取った兵士は、狙撃銃を構えて、ここの通りで動くものすべてを撃ち殺した」
本当かどうかは知らないよ、と言い置くユィルマズの意図をはかりかねて、ゼンは黙したまま続きを待った。
ちいさな戦争も、丘陵も、この街も、敵国も、狙撃兵も、なにもかも、グレート・ウォーが滅ぼしてしまった、と、戯曲の語り部のように無機質に、ユィルマズは言う。
「自分たちの民族の国をつくるためだってさ」
ゼンは黙っていた。ユィルマズは構わず、囁くような声音で話しつづける。
「ふたつの嵐が世界をなぶって、それでもずっと火種はくすぶってた。"民族"とか"宗教"とか、そういう理屈と本能に合わない、よくわかんないものに裏打ちされて、人は殺し合っていた。レバノンの杉が燃え尽きたのも、シオンの丘が失われたのも、何もかも"自分たちの所属するもの"――"故郷"のために戦ったからなのさ。
……世界が、ふしぎな機械ひとつでつながる時代に……人が月に降り立った時代に……破滅の種子をつくりだした手で……鉛の弾と…鉄の雨を……そして、なにもかも砂にしてしまった」
服に刺繍された六芒星がひゅるりと翻る。……金の光が、細くその糸を奔った。
「神の啓示って、故郷って、なんなのかな。聖典も、教会も、宗教も、もう、今となっては何の価値もない。こんなに簡単になくなってしまうものを、昔の人間はどうして信じて、命を捧げたりしてたんだろう。……」
ユィルマズの瞳は、既にあまりに遠ざかり、陽炎と区別がつかないほどになった自警団の一群を見つめている。蜃気楼のようにゆらめくマントの背が、時おりはっとするほどはっきりと翻るのが見えた。
「聖なる地なんてもう砂の底じゃないか」
独り言のように溢された声に、ゼンは瞑目した。ユィルマズが何を思っているのか、何を感じているのか、その響きが物語っていたから……
宗教に身を捧げることは神への隷属であり、愛であり、執念であり、魂の故郷である。それは復讐にすべてを賭ける人間の姿とよく似ていた。人は変わらない。世界がどう変わろうとも、人の本質は変わらない。
切れ長の黒い瞳が、砂漠の熱と一緒に、残虐で悲しい生き物たちの背を映して追い続ける。いつでも何かを真っ直ぐに見つめる目が逸らされることはない。それがたとえどれほど醜いものだとしても。
「俺には宗教とか、神さまはよくわからないが、………」
ユィルマズはゼンの方を見た。
「俺たちが今、こうやって髪を伸ばして、決闘をして、故郷へ帰る、とか…そういう儀式的なことを大切にしてるのと、同じ気持ちだったんだろう」
何かに身を捧げたいという人間の意志。
縋るものがない世界で、理由も、何もなくていい――ただひとつ、自分をつなぎとめるもの。
自分の魂のありか。
ゼンは、温んできらきら光る水を見下ろして、訥々と言葉を紡いでいった。
「確かなものなんてなにひとつない」
出逢ったとき、ユィルマズが何の気なしに言ったことばを、ゼンは繰り返す。
「―――だから俺たちは求めるのだ」
強さを。神を。故郷を。愛を。憎しみを。
魂に、火を、花を、何よりも大切なものを、命捧げる相手を。
そうすれば、どんなに残酷な世界でも、きっと生きていけるから。
ユィルマズは、しばらくの間沈黙していたが――やがて、ほんの少しだが、頷いた。
「そうだね」
長い編まれた赤毛が、野火のように風に流れる。…金の環の錘が、雨など嘘のように照りつける日に輝く。ゼンの黒炭の瞳に、その金が反射して、火花のように輝いた。
「行こうか」
どちらからともなく、揃って歩き出す。一団とは違う方向に。
ユィルマズだけが、一瞬振り返った。獣の生存本能にも似た視線に捉えたのは、瓦礫の影から飛び出して、砂漠に消えようとする集団を追いかける長い、昏い金髪――そして長い黒髪。思わず足を止めて爪先を転回しかけたが、ぐっとこらえた。ゼンが何事かとユィルマズの視線を辿ったが、彼が振り返ったときには、すべてが陽炎の向こう側へ去ってしまっていた。
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