〈廃教会にて〉Ⅶ

 轟々という水音が完全に聞こえなくなった頃、ゼンはそっと身を起こした。

 足元を浸す水に揺れる花びらを見つめ、茫然と呟く。

「人智を超えている……」

 全身がぐっしょりと雨水と砂に濡れ、自分の体とは思えないほど重い。小規模な砂嵐に遭ったときよりも、あるいは凄まじい経験かもしれなかった。

 腕を振りほどいた時、ゼンには死ぬつもりなど欠片もなかった。鉄砲水が、大河のごとくずっと流れ続けるわけではないと、引いては襲いくる波を見てゼンは察していた。溜まっていた水が、重力に従って低いところへ一気に流れるだけ。ある時間耐えきれば、絶対に弱まる時がくると解っていた。沈みながらも左手で掴んだ樋からけして体を離さないようにして、ゼンは死ぬ気でそれをよじ登り、なんとか水面に顔をだした。

 辺りを見回せば、崩れた瓦礫の、広い面を上にした部分が水面から上に出ていた。そこに行ければ、と考えたが、腕も足も届かない距離だ。河でいうなら上流にあるそこへ泳いでいくことも出来ず、ここで耐え抜くしかないのかと覚悟を決めた矢先、飛沫と酸欠で霞む視界に異質なものが真上から侵入した。

 目の前に、刀の柄がある。見慣れた、神の持ち物であったはずのそれが。

 考えるまもなく、咄嗟にそれを掴んでいた。一瞬、大波が打ち寄せる直前の引きがくる、体が大部分水から出た。不意打ちで軽くなった肉体を、宙に浮いた大太刀がぐい、と引っ張る。…いや、大太刀ではない。

「ユィルマズ!」

 叫んだ名前の主は、崩れた壁に体を預け、不安定な姿勢で、幾重にも身にまとった布を鞘がわりに巻きつけた、長い長い刀身を、その手で握りしめたまま叫んだ。「折れたらごめんね!」

「折るな!」

 叫び返すと同時に、刀の動きに合わせて樋を思いきり突き放した。ばきりという音を背に、一瞬全身が水から出る。力任せの跳躍は一秒にも満たず、すぐに全身を強打する不器用な形で、目的の場所まで到達した。勢いを殺せずに体を擦りながら転がる、頬や腕が痛みに焼かれる。それでも吸い込む空気は冴えていた。

 支えとしてユィルマズに差し出してもらった大太刀は、無意識のまま握りしめていたようで、抜き身であったが無事であった。血振りの要領で水を払っていると、じゃり、じゃりと、濡れた地面と砂を擦る足音が近づいてきた。

 顔をあげれば、まず目に映るのは雫を全身から滴らせる姿であり、それは特徴的な布地の堆積層で、密な紅や黄色のアラベスク刺繍が、きらきらとモザイクタイルのように光っていた。

「………お前か」

「俺じゃ悪い?」

 軽口に返そうとした途端、ずるりと、思わぬ足元の滑面で裸足がすべる。倒れかけた体を反対側に引っ張られ、体勢を立て直された。今度はしっかりと、ユィルマズの腕がゼンの腕をつかんでいた。

「……重ね重ね、ありがとう。恩に着る」

 ゼンが軽く頭を下げると、ユィルマズはウインクをして「どういたしまして」と芝居風の礼をした。さっきは掴めなかったからね、と言う彼に、ゼンはちょっと首を竦める。

「……別に、二人とも助かったからいいことだ」

 それに、刀は掴めたと続ける。はは、と、肯定するようにユィルマズは軽い笑い声を漏らした。

「お前もよくあんなことをしたな」ゼンが眉をあげて言うと、ユィルマズは一瞬間を開けて、不意に眦にヒヤリとした光を燈した。

「……俺ね。助からなさそうだったら容赦なく見捨てるよ」

 可能性と相談しただけ、だから感謝はしないで。次は助けるかわからないから、と言うと、ゼンはきょとんとしたような――もっとも、東洋人らしい面立ちは相変わらず感情が読みにくいのだが――表情で、数秒黙り込んでからこともなげにユィルマズの肩を叩いた。「なんだ、照れ隠しかお前は」

 大太刀を振り回す腕力で肩を叩かれたユィルマズはちょっと顔をしかめたあと、これまたきょとんとした表情を浮かべた。それから一瞬、ゼンにはよく読み取れない、くしゃっとした顔をして――すぐに笑顔に変わった。出逢った最初の日に見たような、人懐こくも底知れないかんばせをそこに見て、ゼンは微かに動揺したが、表には出さなかった。

 ユィルマズは笑顔のまま視線を外し、ちらりと付近を見渡した。

「いや、驚いたよ……色々とね」

「俺もだ」

 あたりの生存者は素早く行動を開始していた。即ち、撤退である。詳しく観察するよりも先に、まずゼンは自分の身仕度を優先した。ユィルマズも、鉄の鎧のごとく重たくなってしまった自分の装束を、心底嫌そうに持ち上げた。たっぷりと水を吸って体にまとわりつく着物を絞る。滴る水に眉をひそめて、普段これだけの水を買おうと思ったらどれだけの額を出さなければならないのだろう、と無益な勘定をした。自然は気まぐれという言葉では言い表せない。人が無事に生きていられるのなんて、奇蹟と偶然の積み重ねでしかない。それでも、天頂で、痛みを伴うほど照りつけ始めた太陽を見上げると、言い様のない気持ちがわき上がり、自然とぶつぶつ呟いてしまう。

「なんだ、この……この感覚は……なんというか、ある村で凄惨な連続殺人事件が起こったにも関わらず、直後にコレラが流行して容疑者も探偵も死にまくったせいで、どうでもよくなってしまったようなそんな感じ……」

「ゼン、喩え話下手だよね。でも言わんとすることはわかる」

 ユィルマズも肺を空っぽにするほどの大きなため息をついて、嘘のように晴れ上がった青空を見上げた。

 濡れた草履を、顔をしかめながら脱いだゼンに、ユィルマズは笑いを含んだ声で「その履き物ほんと不便そうだね。ずっとそれで来たの?」と茶化す。ゼンは苦虫を噛み潰した顔で「替えの長靴は宿に置いてきたんだ」と手に持った草履を振った。

「……あいつが、呼んだわけじゃないだろうな」

 ゼンの呟きに首をかしげたユィルマズは、合点がいったという風に手を叩いて笑う。「いくら神の子だって、雨までは降らせないよ。偶然さ、…」そこで、彼もふと目を細めて、教会を振り仰いだ。

「偶然……なんだろうけどね」

 波打ち際から砂浜へあがるように、二人はずるずると重たい衣服を引きずって、流れる水のなかを教会の入り口に向かって歩き出した。…別に中に入るつもりはなく、通りに面している方へ向かっただけであるが、行けば行くほど、何もなくなってしまった地面に、新たに花びらが降り積もっていく光景を目の当たりにする。どこに咲いていたのだろう――考えるのも面倒になって、ゼンは足裏に意識を集中させた。

 教会の前庭の、少し高くなった地面は水が浅く、他よりたくさんの花が落ちている。その真ん中で、金色が目を射るような輝きでなびき、二人は思わず息を飲んだ。ジュール・キャンデロロ――彼は客人に気づく様子もなく、雨が止んだから無邪気に庭へ出た子どものように、きらきら宝石が砕けたように水を蹴って、時々顔を出す地面や瓦礫を見て回っている。

 濡れた砂の上にひたりとはりついた繊細な花びらに、『神の子』の指が触れたとき、それは不意にばらばらになって風に消えた。

 ジュールは一瞬、悲しそうな顔をしたが、すぐに忘れたように別の花びらに手を伸ばした。子どものように花殻をもてあそぶその様は、獣の王が死んだ獲物を無邪気に転がすような、そんな気配を感じさせた。

 金と白のかんばせが、美しく微笑んでいる。自分の足元に、砂の海に飲み込まれた骸が埋まっていることも知らぬ顔で――。

 ユィルマズは、古代の遺跡のような大きな石片にゆっくり手を這わせた。彼の腰まである高さのそれは、鉄砲水で破壊された廃墟の壁だ。遠い昔に描かれたのであろう消えかけた模様が、つる草が芽吹くようにうっすら濡れた表面に浮かび上がっていた。

 ユィルマズとゼンは、廃教会の尖塔を揃って仰ぎ見る。きらきらと白く輝くその姿は、あれだけの濁流が過ぎ去ったあとでも、何事もなかったかのように美しかった。その無垢さは、そこを棲みかとするいきものと一緒で、見るものの背筋を冷たくさせる何かを持っていた。

「名もなき二人」

 二人は電光石火で振り返る。背後にはいつかのように、莞爾と笑うジュール・キャンデロロが、雨に濡れた金髪を弄びながら立っていた。

「名を聞いたよ。ユィルマズと、ゼンというんだね」

 二人は身をこわばらせたまま、一応肯定の意を示す。ジュールはやけに嬉しそうに両腕を広げた。

「きみたちが生きていてくれてよかったよ。わたしが関わる人は、どうしてだかよく死んでしまうんだ」

 理由は明白だろうとゼンの顔には書かれているが、ジュールは全く気づかぬ素振りで、足元に転がっている砂礫と花を両手ですくいあげた。そのまま、ばらばらになってしまうそれらを、風にまかせて散らしていく。水の引き始めた周囲には、人の屍骸が浮き、あるいは転がっている。その上を、真っ白なそれらがふわりと天使のように通り過ぎていく。

「怖がらないでほしいな。一緒に食事をした人は、家族だから」

 白く輝く大太刀を指でなぞり、ジュールは笑う。ゼンは動揺のあまり鞘を落としかけたが、持ち直して「…善処しよう」と少しおかしな返事をした。眉間を揉むユィルマズと彼を見比べて、ジュールはもう一度微笑みかけた。

「また来てくれたら、嬉しいよ」

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