〈酒場にて〉Ⅵ

 酒場に入ったとき、いつもと違う空気を感じ取った。人が少ない。栗色の髪を結い上げた女が、ユィルマズに近寄って、眉間に皺を寄せて言った。「ねえ、あんた、なんか街が変なんだけど。何か知ってる?」

「一昨日くらいから、色々妙なことは起きてるみたいだけどね」

「それにしたって、なんか、今日はこう……」女は戸口から通りをちらりと見る。「妙なんだよ」

 いつも通りの、雑多な、酒、スパイス、煙草、血の匂いが入り混じった、アンダーグラウンドの空気……戦の園の匂い……その中に、ひとすじ、奇妙な空気がまぎれているような気がする。

 酒場でつるむ仲間の姿も、今日はあまり見えない。ユィルマズはターコイズ・ブルーの目を細めた。近くの席で座ってコップを傾けている男も、いかにも訝しげな顔をしている。

 多くの人間が肌で感じている『妙な空気』の他にも、妙に生ぬるく、湿った風がしきりに吹いている。ここのところ、嫌な気配をまとうできごとばかりが続いている。あの傭兵集団がやってきたのが理由だろうか。いや、もしかしたら、もっと遡って、『神の子』に出逢ったことや、あるいは、あの東洋人がやってきたあたりが、そもそも前兆だったのかもしれない。

 いい悪いに関わらず、街の空気を入れ替えるものがやってくる時期、というのが存在する。その周期は誰にもわからない。

 通りがにわかに騒がしくなる。もともとひっきりなしに聴こえていた叫び声などが一層大きくなったために、なんだなんだと酒場のなかにいた客も外を見やる。

 その時、走り込んできた若い男が昂奮したように叫んだ。その声は元劇場である酒場中にわんわんと響いた。

「西の連中が来てるぞ!」

 何人かの知り合いが武器を携え、酒場を走り出て行った。「西の連中だって?」「なんのつもりだ、いつもこんなこと来ないくせに」「でもいい機会だ、鼻を明かしてやろうぜ!」腕試しのつもりだろうか。血沸き肉躍る戦いの気配に沸き立つ男たちの数は、しかし平常に比べれば異様に少なかった。幾つもの賭場の元締めが、通りで戸惑ったように賭けの紙切れを捌いている。

 どうやら、普段あまり現れないような手練れの集団がやってきたらしい。これは、いよいよ嵐の気配だ。

「なんとも奇妙な晩になりそうだな」

 唇を歪ませ、店主は低く言った。

「いい決闘の機会だってのに、ばかに人がすくねえ。空気が変だからかな」

 殺しも続いてることだし、賢明っちゃ賢明かもねえと腕を伸ばした店主に、ユィルマズも同調する。

「嗅覚が鋭い生き残る奴はね、こういう"変な空気"の時、外へ出ないんだな」

 ああいうのを飛んで火にいるっていうのかね、とユィルマズは血気盛んな若者に目をやって苦笑した。彼もこの騒ぎにのる気はないらしく、定位置のテーブルまで歩いていって、流麗に裾を捌き、腰かける。破れた緞帳の臙脂を見つめながら、運ばれてきた水煙草に口をつけ、ふと思った。

「西の連中、ね」

 まさか奴らじゃないだろうな、と呟いた矢先、また酒場へ駆け込んでくる人影に投げやりに視線をやると、それは女だった。道端で、石などを加工したアクセサリを売っている、ごく普通の女だった。

「助けておくれよ!」入り口近くにいた栗色の髪の女に、彼女は泣きついた。

「あたしが、あたしが、なんだか空気が変だから、店をしまって早く家に帰ったっていうのに……家の前で、殺し合いが始まっちまったのさあ!」

 どうやら、街の若者が、西部からやってきた旅人に賭け試合を吹っかけていたらしい。本来、髪を奪うことが目的のはずの決闘で、若者が血の海に沈んだのを、窓から目撃した女は仰天した。殺人者の、扉を破って中に入ってきそうな荒ぶり様に、裏口から身ひとつで逃げてきたのだと女は語る。

「なんだって、変なことばっかり起きるんだ……! 雨が降るっていうのはこのことだったのかい、神さまぁ」

 女はついに床に泣き崩れてしまった。栗色の髪の女は困りながらも女の背をさすり、立たせて、椅子に座らせる。

「その人殺しはどんな奴だったんだい?」

「まだ若いのに、ひどい、残忍な顔つきをしてさあ……死んだ男に、変な、十字架の刺青を見せつけるみたいに、袖をまくって……」

 ユィルマズは、そこまで聴いた瞬間、弾かれたように立ち上がった。ひるがえる布地が炎を反射して、金や銀、橙に輝いた。目にもとまらぬ速さでテーブルや椅子を飛び越え、一足飛びで出口へ向かう。戸口から、青鈍色の夜が満ちた石畳へ飛びだす直前、ユィルマズは振り返ってカウンターへ叫んだ。「まだほとんど吸ってないからお代は無しね!」

「てめえそういうところばっかりちゃっかりしやがって!」

 店主の怒号を背に受けながら通りへ飛びだす。

 大通りを、宿屋のある方向へむかって走りだせば、景色は目にもとまらぬ速さで流れていく。辺りを行く人々は、皆驚いた顔をみせるが、これからもっと驚くようなことが起こるんだとユィルマズは毒づきたい気分だった。

 宿屋の近くには、武器を持ち、長い髪を誇示した男たちが集まっている。やはり、このあたりに"西の連中"がいるのだ。予想通りの結果にユィルマズは、より速度を上げて人混みを突っ切る。目指す建物が見えてきたあたりで、三軒手前の空き倉庫からも、ゼンが飛び出してくるのが見えた。ユィルマズは、彼に駆け寄る。素早く周囲を確認したゼンは、「来たか」とだけ尋ねた。ユィルマズは苛立ったように首肯し、ため息をつく。

「朝になるまで待てないかなあ!」

 ユィルマズは帽子をかぶり直し、天を見上げる。金の環をまとった真っ白な月が皓々と街を照らしだす。……その輝かしいかんばせの端に、鈍色によどんだ影のような雲がかかっている。

 ゼンはあたりの顔ぶれを見回し、低い声で囁く。「俺は"西の連中が来た"としか聞いていない。だが、空気が明らかに妙だ。これは、お前が言う"軍隊"――自警団が来たっていう認識で構わないな?」

「勘が良いよね、ゼンは。十中八九そうだと思うよ」宿屋から視線を外さず、ユィルマズは答える。

 数人の男たちが、通りの向こうから、こちらへ歩いてくる。彼らはあたりにたむろする挑戦者たちには目もくれず、宿屋の前で立ち止まった。髪を隠すも隠さないも、皆フードをかぶり、押し黙って宿屋の前で、二十人程度で固まっている。ふたりは一度、付近の路地へ引っ込み、人混み越しに奇妙な来客を観察した。

 異様な男たちが腰に提げている長い剣――ユィルマズには一目でぴんときた。ダマスカス・ソードと呼ばれる。片刃の剣だ。西の自警団が好んで用いることで知られている。

 集団の先頭には、巨躯が目を引く、闇から抜け出たような大男がいた。とりわけフードを深くかぶった男は横顔すら窺えない。

 通りの方で、断末魔のような悲鳴があがった。実際に断末魔だったのかもしれない。あっという間に怒号と喧騒に飲み込まれ、血と殺気が渦を巻く。舞い飛ぶ砂の量が急に増え、立ち回りが演じられていることがわかった。

 ゼンは草履を脱ぎ、外套に包んでそれを畳み、路地に置かれている廃材の下に置く。「この場所を覚えておいてくれ。入り組んでて忘れそうだ」

「生きてたらね」ユィルマズが肩を竦めるとゼンは「…お前がか」と訊く。「お前がだよ」とユィルマズは笑う。

「安心しろ。今まで一度も死んだことはない」

「お前のわかりづらい冗談が理解できるようになってきた頃に恐縮なんだけど、奴さん来るよ」

 わかってる、と頷き、ゼンは左肩から右の腰にかけて括りつけていた大太刀を、左手で柄を掴み、腰近くで水平にする。そのままぐっと柄を前に回し、普通のカタナの差し方のように位置を整える。柄を右手に持ち替え、ゆうに人ひとりぶんくらいの長さがある刀身を、体のひねりを利用してすべて抜き放つ。ほとばしる水に似た銀が空を切り裂いた。

 大太刀を構えたゼンに、ユィルマズも腰のベルトからナイフをひとつ抜き放つ。

「音だけで判断するなら、ごく普通の近接戦ってところかな」相手が銃でも隠し持ってたら困るけど、とユィルマズは言う。

「俺も、じいさまが持っていた猟銃以外の銃には詳しくないな」

「うーん…ま、神に祈りなさいってことかな」

 幸運を。

 お互いに短く告げた途端、路地の入口で怒号が響く。直後、刃がかち合う金属音が響く。

 その音を合図に、ふたりは別れた。

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