〈市場にて〉Ⅱ
朝が早い市場は、今日も人でごった返している。塩の板を売る呼び声、新鮮な果物や野菜はたとえ高価でも飛ぶように売れる。生活必需品の店が殺人的な賑わいを見せている傍で、美しい布や、金属の食器などのテントも、それなりに人が集まっていた。流動的な区画。生きている街。
美しい布をカスケードのように無数に垂らした、まるでどこかの宮殿のようなテントが立っている。絨毯のようにみっしりと刺繍が施された布をかぶった二人の人間がその下に座り、店番をしている。まるで間に鏡を置いたかのように、その姿は似通っている……。
「いらっしゃいませ」
二人の声がする。澄んだ声と、ハスキーな声。どちらも中性的で、どこかしら機械的にも思える。
テントの前で立ち止まった小柄な人影は、黙って品物を見つめている。砂色のフードを深くかぶっているせいで判りづらいが、籠の中に折り畳まれて入れられた、白い亜麻布に、赤い糸で幾何学的な刺繍模様が施されているものに視線を注いでいるようだった。
「それは東欧の、家族を守る刺繍です」
二人のうち、長い金髪を垂らした方が言う。澄んだ声をしている。亜麻布に手を伸ばし、広げて刺繍の全体を見せる。
「クロスステッチは、蝶々を図案化しているのです」
今度は、首筋で金髪を切り揃えた方が言う。ハスキーな声をしている。こちらは立ち上がり、いくつか他の商品も籠から出そうとする。
フードの人物は、一心にその亜麻布を――正確に言うならば、その赤い糸の刺繍に紛れて、細かい飾り部分を彩る、林檎の花びらの縁のような淡いピンクの糸をじっと凝視している。
「……林檎の染料、……」
呼気に紛れてしまいそうなほど小さく呟やかれた言葉に、二人は一拍おいて顔を見合わせた。
「お分かりになりますか」
長い金髪を垂らしたほうが、少し驚いたように言う。「確かにこれは、林檎の樹皮で染めた糸です」短いほうも同じように続ける。
その人物は、フードを取った。こぼれるプラチナ・ブロンドが、日を浴びてきらきらと真珠のように輝く。ふわふわと雲のような巻き毛を、編んだ髪の一部でカチューシャのように留めている、独特のヘアスタイルをしていた。あらわれた顔立ちは思いのほか幼い。
「………いくらかな」
今度は先ほどのつぶやきよりもう少し大きく、きちんと問いかけの形で発せられた声に、またもや二人は顔を見合わせた。まるで老人のようにかすれ、しわがれた声は、少年のような外見には似つかわしくないものである。
「貨幣はなにをお持ちですか?」
「……ユーロ、リーブル、トルコリラ……」
「では、四トルコリラほどで……」
差し出された売り子の手には、蔓草の刺青が這っていた。少年がその手に対価を渡すと、頷いて、彼女は、その亜麻布を差し出した。もう一人の手によって、奇麗なアップルグリーンの紗で包装されたそれを受け取ると、彼は、それをぎゅっと大切そうに胸に抱えた。
ごったがえす人混みにも関わらず、飛ぶように駆けてくる少年の姿があった。黒髪のおかっぱと真っ赤な衣を翻し、不思議な紋様を描いた足を、今朝ばかりは黒い羊毛のブーツに包み、真鍮のような大きな瞳を輝かせて「ちょっと、通して、ください、ですよっ……わーっ、そのナツメグはぼくのですよーっ! 踏まないでくださいっ!」左手に掴んだ革製の袋から転がり落ちた戦利品を追いかけてわたわたと、金色の房が縁どるフランス風の絨毯の上で、やっとそれを捕まえる。「うちのナツメグがすみませんです」と律儀に頭を下げた彼と入れ替わるように、プラチナ・ブロンドの少年は、胸に亜麻布を抱いたまま、刺繍布の店の前を去る。
彼とすれ違った途端、黒髪おかっぱの少年はぱっと振り返って「あれっ?」と首を傾げる。
「なんだか、最近よく、どこかで、見かけるよ、う、な……?」
「いらっしゃいませ」
二人分の美しいハーモニーに出迎えられ、少年――アン・ギャルツェンはびっくりしたように向き直る。「いらっしゃいましたなのですよ」
「奇麗な刺繍」
ぽつりと、長い髪のほうが囁いた。石炭のような黒目勝ちの瞳は、アン・ギャルツェンのまとう紅の衣服に注がれている。
「むっ、これですか?」
アン・ギャルツェンはは誇らしげに肩掛けを広げる。花のような不思議な刺繍が、高くなり始めた日の光を反射してきらきら光った。
「これはですね、ぼくの故郷に伝わる刺繍で、『火の瞳』というのですよ。これを四つ並べて、こうして花のようにしたりするのです」
指先でその糸をなぞる。ダイナミックな大振りの図案は、時おり日を受けて野火が奔るようにきらめきを放つ。自慢げな笑みを浮かべたアン・ギャルツェンは、しかしすぐにテントの内部に興味が移ったようだった。「ここの布もみんな奇麗ですね。魔法つかいが織ったみたいです」
売り子の二人は揃って笑う。「姉さんは頭の中に魔法の蜘蛛を飼っているのです」囁いたほうの、首筋で切り揃えた金髪がしゃらんと揺れる。
「姉さんは世界中の模様を刺繍することができるのですよ」
「わたしはただの縫師です」
長い金髪の売り子は首を振って笑う。髪の先をゆるく束ねる白珊瑚の飾りが光った。「旅をした先の、伝統的な図案を教えてもらうのです」
お客さまの故郷のものもあるかもしれませんよという声に、アン・ギャルツェンはしゃがみ込んで、宝石や花の洪水のように華やかで艶やかな布に見入る。なるほど、幾何学的なステッチから奥ゆきのある編みもようで描かれた叙事詩まで、様々な地域の文化が垣間見える。絡みあった花の蔦、豊穣を願う果実、極彩色の鳥の羽根、愛の言葉……布一枚のなかに世界を閉じ込めたようだった。
「さっきの子は、きっと寒そうな模様の布を買ったんですね」と合点したふうに呟くと、アン・ギャルツェンはんーと首を傾げた。立ち止まって、二言三言会話まで交わしてしまったので、なにか買わなくてはならないとまじめに考えこんでいるようだった。羊毛素材に鳥の群れが刺繍されたポンチョを手に取り、その鳥の一羽一羽を数えるように矯めつ眇めつしながら、彼はぽつんと呟いた。
「……故郷って大事ですもんね」
二人の売り子はそれをきいて、黙って微笑んだ。四つの黒い瞳は、何を思ったのかを悟らせない。
アン・ギャルツェンは、手に持っていたポンチョを掴み、猛然と立ち上がった。「ようし、ぼくはこれは買いますよ! トルコリラだといくらですか?」
「十八トルコリラです」
「うっ……」
どうやらあまり懐事情はよくないらしく、ちょっとくしゃっとした顔をしたが、アン・ギャルツェンは懐からちゃんと対価を取り出した。お包みいたしましょうかと言う髪の短いほうに、着ていくので問題ないです! と元気良く返事をしたが、それなりに厚みのある服を着てその上に肩掛けをまとった恰好で、さらにどうやってポンチョを羽織るのだろう、暑くはないのだろうか…と、二人の売り子が不安そうな視線を注いでいると、試行錯誤した結果、まさかの腰にむりやり巻きつけるという形で処理をしてさわやかに遠ざかっていくアン・ギャルツェンの姿を目撃してしまい、またもや顔を見合わせる次第となった。
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