観覧者
笑う門
第1章 光の中の目覚め
倉井恭司は、夜の遊園地に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような感覚を覚えた。
目の前に広がるのは、かつての廃墟だったはずの場所だ。錆びついた鉄骨、剥がれ落ちたペンキ、雑草に埋もれたコンクリート。それが今、まるで時が巻き戻ったかのように、色とりどりの光と喧騒に包まれている。地元の文化祭の一環で、30年前に閉園した遊園地を再現するイベントが開催されていると、署で耳にしていた。プロジェクションマッピングと呼ばれる技術で、当時の風景を壁や地面に映し出すらしい。子供たちが笑い、親たちが手を引く、あの頃の幻が蘇るのだと。
刑事として50年生きてきた倉井には、そんなものに興味はなかった。いや、興味を持つべきではないと思っていた。だが、最近の連続殺人事件を追ううち、足が自然とここへ向かっていた。署のデスクに山積みの資料、被害者の顔写真、血に染まった現場のスケッチ。それらを眺めているうちに、頭の片隅で何かが疼いていた。遊園地。観覧車。なぜか、その言葉が引っかかっていた。
夕暮れを過ぎた空は深い藍色に染まり、冷たい風が遊園地の敷地を抜ける。入口のゲートは、かつての華やかさを模した電飾で飾られていたが、よく見ればその下に錆が浮いている。仮設のブースが並び、地元の学生やボランティアがチラシを配っている。倉井はコートの襟を立て、足を進めた。
観覧車のシルエットが闇に浮かんでいた。
30年前に止まったはずのその巨体が、今は光の輪に包まれ、ゆっくりと回転しているように見える。プロジェクションマッピングの仕業だ。地面に映し出された光のゴンドラが、まるで本物のように揺れ、風に合わせてかすかに軋む音まで聞こえてくる。懐かしいような、不気味なような感覚が胸を締め付けた。記憶の底に沈んでいた何かが、泡のように浮かび上がろうとしている気がした。
「倉井さん、ここで何してるんですか?」
背後で声がした。振り返ると、同僚の若い刑事、吉田が立っていた。二十代後半、署では「倉井の後輩」と呼ばれて憚らない男だ。吉田はライトグレーのジャケットを羽織り、手にはイベントのチラシを持っている。
「見物だよ」と倉井は短く答えた。声が少し掠れていた。喉が乾いていることに気づく。
「見物って…事件と関係あるんですか?Xの足取りでも?」吉田が首を傾げる。
「さあな。ただ、気になってな」
倉井は視線を観覧車に戻した。光の輪が地面を這い、足元にまで伸びてくる。赤、青、黄。子供の頃に見たような、原色の輝きだ。だが、その光が急に眩しくなり、頭の奥が軋むような痛みが走った。耳に響くのは、金属の軋む音。どこかで聞いたことがあるような――。
「吉田、ちょっと待て――」
言葉が途切れた瞬間、視界が白く染まった。プロジェクションマッピングの光が爆発したように広がり、頭の中を焼き尽くす。耳鳴りが金属音に変わり、ゴンドラが軋む音、風を切る音、そして――叫び声。誰かの叫び声が遠くで響いた。
意識が落ちた。
次に目を開けた時、倉井は冷たいコンクリートの床に膝をついていた。目の前に広がるのは、血の海だった。
男が倒れている。50代くらい、作業着姿。胸にナイフが突き刺さり、赤黒い染みが広がっている。顔は青白く、目が虚ろに開いている。見覚えのない顔だ。遊園地のスタッフだろうか。作業着の胸ポケットには「吉杉」と刺繍されたネームタグが付いている。
「何…?」
倉井の手が震えた。指先が濡れている。見下ろすと、血がべっとりとついていた。自分の手だ。だが、その手が奇妙に他人事のように感じる。掌に刻まれた深い皺、関節の太さ、爪の周りの硬くなった皮膚。こんな手じゃなかったはずだ。俺の手は、もっと若かった。刑事学校を出たばかりの頃、拳を握り潰して事件を追いかけた、あの頃の手だ。
頭が混乱する。記憶が20代で止まっている。刑事学校を出て、街を歩き回り、汗と埃にまみれて事件を解決した日々。それ以降が、まるで霧に包まれたように曖昧だ。家族の顔も、30年後の自分も、思い出せない。50歳の自分がどんな人生を歩んできたのか、まるで他人事のように遠い。
「俺は…誰だ?」
遠くでサイレンが鳴り始めた。警察だ。遊園地の敷地に響き渡る音が、頭の痛みをさらに増幅させる。倉井は立ち上がり、よろめきながら周囲を見回した。
遊園地の廃墟が、光と闇に揺れている。プロジェクションマッピングの光が、吉杉の死体に影を落としていた。観覧車の投影が脈打つように揺れ、まるでその血を飲み込むように赤い光が広がる。廃墟の鉄骨が風に揺れ、軋む音が耳に突き刺さる。ブースの電飾がチカチカと点滅し、遠くで子供の笑い声が聞こえた気がした。いや、笑い声じゃない。叫び声だ。どこかで聞いたことがあるような――。
記憶の断片が、頭の奥で疼いた。
観覧車。ゴンドラが軋む音。風を切る音。そして、地面に叩きつけられる衝撃。血の匂い。誰かの叫び声。家族の笑顔が、血に染まって崩れていく。
「やめろ…やめてくれ…」
倉井は頭を振った。フラッシュバックが現実を侵食する。目の前の吉杉の死体が、血まみれの家族に重なって見えた。だが、それは一瞬だった。次の瞬間、吉杉の顔に戻る。知らない男だ。家族じゃない。
「殺人鬼…Xと入れ替わったのか?」
言葉が口をついて出た。X。連続殺人犯の名前だ。最近の事件で浮上した影のような存在。倉井が追っていたはずの男。署のホワイトボードに貼られた写真、血に染まった現場の報告書。あの冷たい目をした男が、なぜここに?そして、なぜ俺がその体に?
頭が割れるように痛む。答えが見つからない。だが、サイレンが近づいてくる。警察が敷地に踏み込めば、俺が捕まる。血まみれの手、吉杉の死体。この状況で、誰が信じてくれる?
倉井は血まみれの手をコートの袖で拭った。指先が震え、血が完全に落ちない。だが、考える時間はない。足音が近づく。遠くで無線の声が聞こえた。「容疑者、遊園地に潜伏の可能性あり」と。
「逃げなきゃ…」
倉井はよろめきながら走り出した。遊園地の廃墟を抜け、闇の中へ。背後で観覧車の光が刺さるように感じた。プロジェクションマッピングの赤い輪が、地面を這うように追いかけてくる。
その光が、何かを映し出している気がした。
家族の笑顔。
ゴンドラが落下する音。
血に染まった手。
そして、遠くで笑う声。冷たく、嘲るような声。
倉井は振り返らなかった。だが、その笑い声が、自分の喉から漏れているような感覚が、一瞬だけよぎった。
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