第2章 逃亡者

倉井恭司は、遊園地の敷地を抜けると、闇に沈んだ裏路地に足を滑らせた。背後でサイレンが遠吠えのように響き、赤と青の光が夜空を切り裂いている。冷たい風がコートの裾をはためかせ、血の匂いが鼻をつき、喉の奥にまで絡みつく。手を見下ろすと、吉杉の血がまだ乾かず、指の間にべっとりと張り付いている。袖で拭ったはずなのに、赤黒い染みが布に染み込み、掌の皺に沿って細い筋を作っていた。血の感触が、冷たく、ぬるりとしていて、指先が震えた。

「自分の身に移り入った殺人鬼が、俺を追ってくる。」

その確信が、頭の中で膨張する毒のように広がり、思考を締め付けた。遊園地の光が視界の端でチラつき続け、プロジェクションマッピングの赤い輪が地面を這う幻影が消えない。観覧車の軋む音が耳にこびりつき、金属が軋む音、風を切る音、そして――叫び声。どこかで聞いたことがあるような、遠い叫び声が頭の中で反響する。あの男、X。連続殺人犯の影。倉井が追っていたはずの男が、今、俺の体を乗っ取って動き出したのか?

息が上がる。肺が焼けるように熱い。路地の壁に手を突き、吐き気を堪えた。血まみれの手がコンクリートに赤い跡を残し、冷たい感触が指先に刺さる。頭が混乱する。記憶が20代で止まっている。刑事学校を出たばかりの頃、汗と埃にまみれて街を駆け回った日々。正義を信じ、拳を握り潰して事件を追いかけた若造の俺。それ以降が、まるで霧に閉ざされたように曖昧だ。50歳の自分がどんな人生を歩んできたのか、どんな顔をしてきたのか、まるで他人事のように遠い。家族の顔さえ、輪郭がぼやけて浮かばない。

「俺は…倉井恭司だ。」

呟いてみるが、声が掠れて空に溶けた。遊園地の光が頭を支配し続けていた。あのプロジェクションマッピングの赤い輪が、まるで血の脈のように地面を這い、俺を追いかけてくる気がした。観覧車のシルエットが闇に浮かび、光のゴンドラがゆっくりと揺れる。赤、青、黄。子供の頃に見たような原色の輝きが、頭の奥で疼く。だが、その光が不気味に歪み、血の色に染まって見えた。観覧車の軋む音が、まるで嘲笑のように耳に響く。どこかで聞いたことがある。だが、思い出せない。思い出そうとすると、頭の奥が軋むように痛み、視界が揺れた。

路地の角で足を止め、物陰に身を隠した。古びたゴミ箱の陰にしゃがみ込み、息を殺した。遊園地の敷地から漏れる光が、路地の入り口を薄く照らし、影を長く伸ばしている。遠くで無線の声が聞こえた。「容疑者、遊園地付近に潜伏の可能性あり。周辺を封鎖しろ。」警察だ。俺を追ってる。いや、Xが俺を追わせてるのか?

ポケットから携帯を取り出した。画面がひび割れ、ガラスの破片が指に刺さる。いつ割れたのか分からない。電源ボタンを押すが、反応がない。暗い画面に映るのは、血まみれの手と、歪んだ俺の顔だ。50代の顔。皺が刻まれ、目が落ちくぼんだ、知らない男の顔。俺じゃない。こんな顔じゃない。20代の俺は、もっと鋭い目をしてた。もっと若々しい顔だった。

「くそっ…」

携帯をゴミ箱の陰に投げ捨て、息を整えた。遊園地の敷地からここまで、どれくらい走ったのか。足が重く、アスファルトに靴底が擦れる音が響く。路地の奥では、風に倒れたゴミ箱から空き缶が転がり、カランカランと乾いた音を立てていた。頭上では電線が風に揺れ、かすかな唸りを上げ、まるで何かを囁いているようだ。

「落ち着け…考えるんだ。」

倉井は目を閉じ、頭を整理しようとした。吉杉の死体。あの血まみれの手。遊園地の光の中で目覚めた瞬間。Xが俺の体を乗っ取ったなら、今、俺はこの体で何をすればいい?逃げるしかない。だが、どこへ?署に戻れば、Xが待ち構えているかもしれない。いや、Xが俺の体で署にいるなら、俺を容疑者に仕立ててるはずだ。署のホワイトボードに貼られたXの写真が頭に浮かぶ。冷たい目、薄い笑み。あの男が、今、俺の顔で笑ってるのか?

その考えが頭をよぎった瞬間、無線の声がまた聞こえた。「容疑者、倉井恭司。50代男性、遊園地イベントで目撃。殺人容疑で緊急手配。」

心臓が跳ねた。俺の名前だ。だが、なぜ?俺が吉杉を殺したのか?いや、そんなはずはない。刑事学校を出たばかりの俺が、そんなことをするはずがない。記憶が途切れてるとしても、俺はそんな男じゃない。正義を信じていた。あの頃の俺は、血に染まるような男じゃなかった。

「Xだ…Xがやったんだ。」

倉井は呟き、確信を深めた。Xが俺の体に移り入り、吉杉を刺した。そして、今、俺を追ってくる。警察を動かし、俺を追い詰めるために。あの冷たい目が、俺の顔で署にいる。あの薄い笑みが、俺の口で笑ってる。

路地の奥から懐中電灯の光が近づいてきた。制服警官の声が響く。「そっちを確認しろ!足跡がある!」

倉井は息を殺し、ゴミ箱の陰に身を縮めた。心臓の鼓動が耳に響き、血まみれの手がコートの中で震える。冷たい汗が背中を伝い、アスファルトの冷気が膝に刺さる。警官の足音が近づき、懐中電灯の光が路地の壁をなぞった。一瞬、光が俺の足元をかすめた。靴の先が、血で汚れている。

「見つかる…」

倉井は歯を食いしばり、反対側の路地へ走り出した。足音が背後で大きくなり、無線の声が重なる。「容疑者発見!東側へ逃走!」

路地の壁に肩をぶつけ、よろめきながら走った。息が喉に詰まり、肺が破れそうになる。遊園地の光が遠ざかっても、観覧車の軋む音が頭の中で鳴り続けていた。まるで、俺を嘲笑うように。いや、嘲笑じゃない。あの音は、叫び声だ。どこかで聞いたことがある。家族の声。血に染まった笑顔。

走りながら、倉井は気づいた。ポケットの中で何か硬いものが当たっている。手を突っ込むと、小さな金属の塊が出てきた。バッジだ。刑事のバッジ。だが、なぜかそれが異様に古びて見えた。表面が擦り減り、刻まれた番号が薄れている。20代の俺が持っていた、あのバッジに似ている。指で触ると、冷たく、錆の匂いがした。

「俺は…本当に倉井恭司なのか?」

その疑問が頭をよぎった瞬間、背後で無線の声が鋭く響いた。「倉井恭司、観覧車付近で最後に目撃。殺人鬼Xと関連の可能性あり。全員、慎重に進め!」

殺人鬼X。俺を追うX。だが、その声が、どこか俺自身の声に似ている気がした。低く、掠れた、俺の声。

路地の突き当たりに、古びた倉庫の影が浮かんでいた。扉が半開きで、風に揺れて軋む音がする。倉井はそこへ飛び込み、闇に身を隠した。背後の足音が近づき、懐中電灯の光が倉庫の入り口を照らす。

「見つかったら終わりだ…」

倉井は息を殺し、倉庫の奥へ這うように進んだ。血まみれの手が床に赤い跡を残し、暗闇の中でかすかに光る。観覧車の軋む音が、頭の中で鳴り続けていた。

そして、遠くで笑う声が聞こえた。冷たく、嘲るような声。

その声が、俺の喉から漏れているような感覚が、再びよぎった。


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