第二章:言葉は舌先でほどける

咲良がメッセージを送って数分後、スマートフォンが再び震えた。

陸からの返信は、短いものだった。


「では、味見させていただきます。」


まるでワインを口に含むような、控えめでありながら奥深い響きを持つ言葉。

その一文を見た瞬間、胸の奥で何かがゆっくりと熱を帯びていく。


咲良はスマートフォンを指先で転がしながら、ワインのグラスを口元へ運んだ。

琥珀色の液体が喉を滑り落ちるとともに、彼の言葉が脳内にじんわりと染み込んでいく。


「……いいわ。味わってもらいましょう?」


独り言のように呟きながら、咲良はパソコンに向き直った。

すでに翻訳済みの一節を読み返しながら、ゆっくりと指を動かす。

この言葉が、彼の唇を通してどう変わるのか――想像するだけで、指先が熱を帯びる。


『Rouge et Lune』――紅と月。


この作品のテーマは誘惑。

決して交わってはいけない二人が、月の下で秘めやかに囁き合う。

言葉が紡ぐのは、甘美な罠。


――私の言葉も、彼を誘惑できる?


そんなことを考えていると、不意にまたスマートフォンが震えた。

今度は電話だった。


画面には、逢坂 陸の名前。


心臓がゆっくりと脈打つのを感じながら、咲良は指先で画面を滑らせた。


「もしもし?」


『……やはり、あなたの言葉は危険だ』


開口一番、低く甘やかな声が耳を打った。


「どういう意味?」


『あなたの訳を読んで、息をのんだ』


「それは、いい意味かしら?」


『さあ、どうでしょう』


曖昧に笑うような声。

その余韻が、まるで年代物のワインのように絡みつく。


『ところで、先ほどの文章。原文にはなかった一節が加わっていましたね』


「気づいたの?」


『当然です。……「月の光を受けた唇は、果てなき誘惑の予感を滲ませる」』


陸がゆっくりとその一文を口にするのを聞きながら、咲良はワイングラスを握る指に無意識に力を込めた。


『意図的に、温度を上げましたね』


「それが、私の翻訳の持ち味よ」


『……しかし、これは“翻訳”と言えるのでしょうか』


「ねえ、逢坂さん」


咲良はわざと甘い声を作る。


「あなたは“意訳”というものを知らない?」


『知っています』


「じゃあ、フランスのことわざは?」


『どれのことを言っていますか?』


「『恋は忍耐、そして誘惑』」


沈黙が落ちる。


まるで、彼がその意味をゆっくりと噛みしめているかのような沈黙。


『……忍耐、ですか』


「そう。そして、誘惑」


咲良はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「逢坂さん。あなたは今、どちらを選ぼうとしているの?」


息を呑む気配が伝わってくる。


次に彼が何を言うのか、それを考えるだけで胸が疼いた。


この翻訳は、もう単なる仕事ではない。

言葉を交わすたびに、二人の距離は変わっていく。


翻訳家として、彼を翻弄するのか。

それとも、編集者として、彼が私を制するのか――。


どちらが先に動くのか、どちらが相手の意図を見抜くのか。


忍耐か、誘惑か――。


『あなたは、よく人を試す』


やっと返ってきた声は、低く甘やかだった。


「試す? そんなつもりはないけど」


はぐらかしながら、咲良はグラスを傾ける。

ワインの香りが舌の上で広がるたび、彼の声の余韻と混ざり合っていくようだった。


『では、今の質問は何ですか?』


「単なる興味よ」


『どちらを選ぶか、と尋ねましたね』


「ええ」


『ならば、こう答えましょう』


一瞬の間。そして、低く落ちる声。


『あなたが私を誘惑しようとしているのか、私があなたを忍耐の限界まで追い詰めようとしているのか――どちらか決めるのは、まだ早い』


咲良はふっと笑った。


「つまり、決めるのは私じゃないってこと?」


『決めるのは、互いの言葉です』


その瞬間、彼がどれほどの精密さで言葉を操るのか、改めて思い知らされる。

相手をただ翻弄するのではなく、確実に主導権を握るやり方。


「なるほど。さすが編集者ね」


『ありがとうございます』


「でもね、逢坂さん」


咲良はゆっくりと足を組み、グラスをデスクに置いた。


「私は翻訳家よ。言葉を支配するのは、私の仕事」


『……』


「あなたがどんなに巧みに言葉を操ろうと、最終的に書くのは私。

私の手を通った文章が、あなたの舌の上でどう溶けるのか……それを決めるのは私じゃなくて?」


今度は、陸が息を呑む番だった。


翻弄しているのは、私か。それとも彼か。


『……あなたは本当に、危険な翻訳家ですね』


ふっと、低く笑う声が耳をくすぐる。

まるでワインを口に含んだときのように、じわりと甘さが滲む声音。


「危険? それって、編集者としては褒め言葉?」


『ええ。でも、男としてはどうでしょうね』


その一言に、咲良の指先がぴくりと動いた。


男として?


不意打ちだった。

彼はずっと、編集者としての立場を崩さない。

冷静で、理性的で、どこまでも”仕事”として関わってくると思っていたのに。


「……それは、どういう意味?」


『さて。言葉を支配するのはあなたでしょう?

ならば、この“意味”も、あなたが決めてください』


挑発めいた言葉。

どちらが翻弄しているのか、もう分からなくなるほどに。


ワインの余韻が、舌の上にじわりと残る。

この夜は、どちらの言葉が勝つのだろう。


それとも――勝負は始まってすらいないのかもしれない。

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