狂えるソクラテス

島津 周平

ギリシア人たちが、笑い愛する哲学者

 陽光が燦々さんさんと降り注ぐ広場。

 石の建造物が白く輝き、風が熱を帯びた大地の上を優しく撫でていた。その中心に、一人の男がいた。


 粗末な衣をまとい、ほとんど裸のような姿で横たわる男は、陶器の大甕おおかめの中を寝床とし、あたかも世界のすべてが己の家であるかのように、自由気ままに振る舞っていた。

 その男は世間からは犬と揶揄される哲人であり、己が信念に従い、富や名誉を軽蔑して生きる者であった。


 一方、そんな男とは対照的な男が、この地を訪れていた。

 その男は名を歴史に刻む不世出ふせいしゅつの王。

 軍神の如き威光を放ち、多くの将兵を率いて戦場を駆け巡り。地上の覇者に相応しい富と力があった。

 王は滞在中に奇妙な賢者の噂を耳にし、興味を惹かれた。

 思想はどの哲学者たちよりも、常識でありながらも常識を超越したとこを体現し。

 賢者と呼ばれながらも、犬と呼ばれる人物。

 狂えるソクラテスに、自ら会いに行くことを決めた――王は。


 王の一行は、男の眠るかめの前に立っていた。


 黄金の鎧を纏い、威風堂々たる姿の王は、悠然と男を見下ろした。

 従者たちは神妙な面持ちで沈黙し、周囲の市民もまた、固唾を呑んでこの歴史的な瞬間ときを見守っていた。

 当の男といえば、そんな視線など一顧だにせず、大あくびを一つすると、のんびりと身体を伸ばし、まるで陽を浴びる犬のように休息リラックスしていた。


 王は口を開いた。

おとこ、よ。汝が賢明な哲学者だと聞き及び、こうして訪ねてきた。何か望みがあれば申せ。余は偉大なる王であり、何者にも力を貸すことができる」


 男は、ゆっくりとその目を開けた。そして、しばらく王の姿を眺めると、気怠げな声で言った。

「では、そこをどいてくれ。お前が太陽を遮っている」


 周囲の者たちは息を呑んだ。

 王に対してこれほど無遠慮な物言いをする者が、これまでいただろうか。


 微笑んだ王は。

「ほう、余に何も求めぬか。黄金も、地位も、女も、何もいらぬのか?」

 男は肩をすくめながら、

「わたしが持っているものに、余計な飾りなどいりません。欲とは己を束縛するモノなのです、よ。囚われておられませんか? 大王」

「……囚われている?」

 王は眉をひそめた。

「余はただ、世界を統べるために戦っている。それこそが宿命であり、我が運命!」

「その運命が、大王を自由にしていますか?」と、男は問い返した。

 王が答え返すよりも、すぐに男は尋ねた。

「王は多くを得て、多くを支配されている。だが、支配するものが増えれば増えるほど、自らもまた縛られていきます。王として生まれたがゆえに、戦い続けねばならない? あなたに足りないものは、王から大王になったとしても。永遠に満ち足りることはないでしょう」


 王であり大王は、初めて言葉に詰まった。

 さらに東へと進もうとしていた。確かに、戦いは終わることがない。征服するほどに新たな敵が現れ、勝利の先には次なる戦が待っていた。


 王は大きく息を吐いた。そして、低く静かな声で言った。


「……、……。もし、アレクサンドロスおれでなければ、ディオゲネスおまえになりたかった」


 ディオゲネスは小さく笑った。


「お前は賢いな、大王よ。その境地に至る者は多くはない」

「だが、ディオゲネスよ」

 アレクサンドロスは彼をじっと見つめた。

「汝もまた、もしディオゲネスおまえでなければ、アレクサンドロスおれになりたいとは思わぬか?」


 ディオゲネスは、空を仰いだ。

 澄み渡る青空を見つめる瞳には、光が宿っていた。


「もし私が、ディオゲネスでなければ。……、……。アレクサンドロスに、なりたかったかも、しれんな」


 アレクサンドロスは目を細め、深く頷いた。


「なるほど。ナニかをまだ求めているのだな、汝も」

「そうかもしれん」

 ディオゲネスは肩を竦め、

「だが、今のわたしはすでに満ち足りているからな」


 アレクサンドロスは、しばらく考え込んだ。

 静かに、きびすを返した。

 従者たちは困惑しながらも、彼の後に続く。


 去り際、アレクサンドロスは小さく呟いた。

「今、この世に王が一人しかいないとしたら。その王はディオゲネスであるべきだ」

 ディオゲネスは、

「大王は世界を手に入れろ――私はその世界を拒絶しよう! それが自由というものだ」


 大甕のなかで、再び穏やかな眠りへと落ちていくディオゲネス。

 と、

 さらに東へと進む、アレクサンドロス。

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狂えるソクラテス 島津 周平 @futatsume358

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