【15】

 次の日が定期検診だったのは、正直言って救いだったかもしれない。 あんな気持ちのまま稽古に行ったら、またみんなに迷惑をかけてしまいそうだったから。休まなきゃいけないのは申し訳ないけれど、今はそうする方がずっと気が楽だった。


 いつもどおり数十分の検査を受けて、そのあと滝川先生の説明が始まる。先生が並べる難しい単語はいつだって右から左だけど、今日は特に心が上の空だった。


「それでね、柚葉ちゃん。前に話した件だけど」


 急に話題が変わったので、私ははっとして先生の顔を見る。


「昨日、正式にBCIの認可が下りたよ。近いうちにニュースにも出るだろうし、間違いなく歴史的な一歩だ。柚葉ちゃんが頑張ってくれたおかげだよ」


 そんなことより先生、私の頭のこのチップ、取ってくださいよ。心の中でそんなことを思っていると、滝川先生は嬉しそうな顔で続けた。


「柚葉ちゃんの事例も公表していいよね?」


 まっすぐな目が、無邪気にこちらを見ている。この人には何の悪意もない。ただ純粋に、人類の未来とか、そんな大きなもののことを考えているだけだ。


「……わかりました」


 投げやりな返事をすると、隣のお母さんも静かに頷いた。正直、今の私には人類の未来なんて大それた話より、自分の中に渦巻く不安のほうがずっと重大だった。


 そのあとは、お母さんと滝川先生が世間話をしていた気がする。お母さんが私の演劇部の話をすると、先生は「ああ、それはすごくいいですね。感情を表現することは、脳にも良い刺激になるんですよ」と、さらりと微笑んだ。なんだ。そんなことなら、もっと早く言っても良かったのにな。


 診察室を出て、廊下でふっと息を吐く。いつも憂鬱になる帰り道だけど、今日はいつにも増して重苦しかった。


 そのとき予想もしない声がした。


「鈴宮さん?」


 驚いて顔を上げると、眼鏡の少年が私の前に立っている。それが同級生の佐伯くんだと認識するのに、私は数秒かかってしまった。


「なんでこんなとこにいるの?」


「あ……えっと、その、佐伯くんこそ……」


「僕は父さんのお見舞いだけど。えっと、脳外科?」


 佐伯くんが私の背後にある診療科の看板を読み上げる。途端に心臓が大きく跳ねた。全身の血が凍りつくみたいに、動けない。


「何か、頭の病気でもあるの?」


 そう尋ねる佐伯くんの視線には、微かな疑問と、それ以上に深い探るような色が滲んでいた。私は息が詰まりそうになり、唇を動かそうとしても言葉にならない。ただ黙っていると、その瞳の奥に広がる暗い色に、少しずつ心ごと飲み込まれてしまうような感覚に襲われた。逃げなくちゃ――頭ではそう思っているのに、足はその場から動かなかった。 


「あら、柚葉の学校のお友達? いつも仲良くしてくれてありがとうね」


 すかさずお母さんがにっこり笑って、そつのない挨拶をする。私はお母さんの腕をつかむようにして、その場を急いで離れた。鼓動がうるさいくらいに響いて、息が詰まりそうだった。


「大丈夫よ、柚葉」


 お母さんが優しく言うけれど、何がどう大丈夫なのかなんて、私にはわからなかった。ただ、得体の知れない不安を抱えたまま、黙って家に帰るしかなかった。

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