第2話

野外ステージでのバンド演奏が終了した後、私と美咲は飲み物を調達するため出店のあるテントの方まで移動をしていた。

「ベースの人の名前わかって良かったね!」

瀬名先輩が演奏の最後にドラムとベース、キーボードの順で彼らの名前を紹介してくれた。「ベース、牧慎一郎まきしんいちろう

瀬名先輩の声と共にお辞儀をした彼が、脳裏に焼き付いている。

「うん…まだ名前しかわからないけどね」

「顔と名前がわかってるんだから、どうにかなるよ!私も応援する!」

「ありがとう、取り合えず連絡先ゲットを目標に行動してみる!」

そう言って目を離した隙に、美咲は飲み物が並んでいるテントの方へ吸い込まれていった。

「あ、ここ麦茶売ってるじゃん。すみません、麦茶一つ下さい」

美咲の後を追いかけ、背後から話しかけた。

「私の一大決心を麦茶で流すんじゃないよ」

「いやいやちゃんと聞いて…あれ、お兄さんさっきの野外ステージ出てませんでした?」

美咲の言葉にハッとして、飲み物の置かれたテーブルの奥へ視線を動かすと、先程野外ステージでベースを弾いていた彼が接客していることに気が付いた。

「まあ、一応ベース弾いてました…」

ベースの彼、牧慎一郎と会話をする美咲の一歩後ろで硬直したまま、私は突っ立っていた。心臓の鼓動が段々と早くなり、音も大きくなっていく。心臓の跳ねる音越しに聞こえる牧慎一郎の声は、遠い。

「めっちゃかっこよかったです!あ、連絡先教えてくれませんか!私にというか…」

「そういうの迷惑なんで」

迷惑という言葉に思わず息をのんだ。息を止めたところで存在が消えるわけでは無い。ここから早く逃げ出してしまいたいと強く願ったけど、身体が言うことを聞いてくれなかった。目頭が熱くなるのを感じ、牧慎一郎からわざとらしく目を逸らした。視線の行き場が無いまま、時間の流れが止まっているような感覚に、冷や汗が止まらない。

「おいおーい、その言い方は酷くないか?」

後方から声が聞こえ、私の身体に影がかかる。私の背後に立ったその人は、俯いている私の肩をそっと叩いて、顔を覗き込んできた。

「連絡先、俺のでもいい?」

「瀬名先輩!」

いち早く美咲が声を張り上げ、顔を上げた彼の方へ駆け寄った。私はその間に洋服の裾で涙を拭った。泣いているのバレたかな。

「はいはい、SNSのフォロー返しとくね。名前は?」

「美咲です!美咲って呼んでください」

積極的な美咲は、物怖じせず瀬名先輩と話をしている。私は俯いていた顔を上げて、牧慎一郎の方へ一歩歩み寄ると、頭を下げた。

「突然連絡先を聞いてすみませんでした。彼女は、私の代わりに聞いてくれただけなんです。すぐ退散しますので、ご迷惑おかけしてすみません…」

もう一度顔を上げた後、牧慎一郎の顔を見ることは出来なかった。一方的に告げたまま出店のテントを後にした。恥ずかしくて、情けなくて、早歩きから今にも走り出しそうな速度で、校内の誰もいない講義室へ逃げ込んだ。

「美咲に後でメッセージ入れとかないと…」

講義室の大きな窓を一枚だけ全開にし、深呼吸を繰り返した。外から入ってきた風が、私の髪と窓辺のカーテンを揺らしている。もっと風を浴びようと窓から身を乗り出すと、背後から大きな声が飛び込んできた。

「いやいや、何も死ななくてもいいだろ!」

突然、後ろへと強く身体が引っ張られた。

「え…」

困惑しながら身体を起こすと、私の下敷きになるようにして、瀬名先輩が倒れ込んでいた。

「何してるんですか」

「君が飛び降りようとするから!」

「飛び降りようとしてないです」

「あー、なんだ俺の勘違いか」

ヘラヘラと笑った瀬名先輩は起き上がり、窓辺に腰を下ろした。

「牧の事で泣いてると思ったら、今度は逃げ出したから心配になって追いかけてきちゃった。俺の早とちりだったわ」

美咲がいつも見せてくれる瀬名先輩の写真は、いつだってこの笑顔が写っている。彼が学内一人気なのも頷ける。

「心配してくれてありがとうございます。でも牧慎一郎さんのことは、大丈夫ですので!」

「牧慎一郎さんって、フルネーム呼びかよ!」

瀬名先輩は腹を抱えて、ゲラゲラ笑い始めた。

「君、面白いね。そういえば名前なんて言うの?」

「藤野由依です」

「由依ちゃんね、美咲ちゃんと一緒で1年か」

「そうです。先輩は3年ですよね。美咲からよく聞いてます」

「ああ、みたいだね。俺は知らないけど、みんなは俺のことに詳しいみたい。俺はそれが少し窮屈に感じる時があるよ…って、今のなーし!話しすぎたね、みんなには内緒な」

ヘラヘラしているかと思いきや、突然真剣な眼差しを見せたり、忙しい人だなという印象を持った。美咲が話してくれる瀬名先輩のイメージとは、随分と違うような気がする。

「えーっと、誰でも息抜きって必要だと思いますよ。私で良ければいつでも聞きます。その時は、カフェオレでも奢ってくださいね」

瀬名先輩は目を丸くした後、不意に笑みを浮かべて窓の外へ視線を移した。

「いつもの子達とは、違うのかもな」

それは、優しく小さな呟きだった。

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