第36話

エレベーターが42階で停止すると、彼らは広大な研究フロアに足を踏み入れた。室内は青白い光で照らされ、壁一面が巨大なデータビジュアライゼーションで覆われていた。中央には透明なサーバーコラムが天井まで伸び、無数の光が流れるように動いていた。


「これが...ライフログシステムの核ですか」村上は畏怖の念を込めて呟いた。


「見事なアーキテクチャです」桜井は思わず感嘆した。「これほど大規模な神経データ処理システムを見たことがありません」


「賞賛している場合じゃない」斎藤は二人を急かした。「桜井さん、メインターミナルにアクセスしてください」


彼らがコンソールに向かう途中、誠一は突然立ち止まった。中央のサーバーコラムの向こう側に、誰かがいる。白衣を着た人影が、ホログラフィックディスプレイを操作していた。


「城之内博士...」誠一は小声で言った。


「計画が変わります」斎藤が素早く言った。「彼に気づかれる前に...」


「いいえ」誠一は遮った。「私が話します」


桜井と村上が躊躇する中、誠一はゆっくりとサーバーコラムの向こう側へ歩み寄った。


「城之内博士」


城之内は驚いたように振り向いた。しかし、その表情はすぐに落ち着きを取り戻した。


「高村さん。来ると思っていました」彼は穏やかに言った。「私たちはとても似ています」


「どういう意味ですか?」


「二人とも、大切なものを取り戻したいと願っている」城之内は女性の顔が映るホログラフィックディスプレイに目をやった。「あなたは家族との記憶を。私は...妻を」


誠一は女性の顔を見た。穏やかな微笑みを浮かべる美しい女性。城之内真理子だ。彼女の周囲には複雑なデータストリームが流れ、神経パターンのような構造が輝いていた。


「成功したんですか?」誠一は静かに尋ねた。「彼女の意識を再現することに」


城之内は苦い微笑みを浮かべた。「いいえ。まだです。データはあります。神経パターンも再現できています。しかし...」彼は言葉を詰まらせた。「それは真理子ではありません。何かが欠けている」


その時、斎藤、桜井、村上も姿を現した。城之内は彼らを見て小さくため息をついた。


「調査チーム全員ですか。予想通りです」


「私たちは真実を公開するためにここに来ました」斎藤がきっぱりと言った。


「それは既知の事実です」城之内は穏やかに答えた。「だからこそ、高村さんにメッセージを送ったのです。明日、正式な話し合いを」


「しかし、あなたはデータを移動させようとしていた」桜井が指摘した。


「保存のためです」城之内は説明した。「そして...私の研究の一部を救うためには」


「あなたの研究は倫理的に許されない」斎藤が強く言った。「何千もの人々から記憶を奪い、商品として扱い...」


「私は当初、記憶を売るという考えを支持していませんでした」城之内は突然反論した。「それは純粋な科学的好奇心から始まったのです。脳とAIのインターフェースを研究する過程で...」


「そして真理子さんが亡くなった」誠一が静かに言った。


城之内の目に悲しみが浮かんだ。「ええ。彼女も神経科学者でした。私たちは一緒にこの研究を始めたのです。そして彼女が脳腫瘍で...私は彼女の神経パターンを保存する方法を必死で探した」


「そこから倫理的な境界を越えた」斎藤は冷静に言った。


「次第に」城之内は認めた。「最初は研究目的だった記憶転送技術が、商業化され、政治利用されるようになった。特に氷河期世代の強靭な精神パターンが...」


「私の記憶が」誠一は言った。「なぜ私の記憶に特別な関心を持ったのですか?」


城之内はホログラフィックディスプレイを操作し、別のデータセットを表示した。


「あなたの記憶パターンは、私がこれまで見た中で最も安定していました。特に忍耐と回復のニューラルネットワークが」彼は画面上の複雑なパターンを指さした。「これがあなたの核心記憶です。百社目の不採用通知を受けた瞬間」


誠一はその映像を見て息を呑んだ。雨に濡れた駅前で、彼が画面を見つめているシーン。絶望と、それでも前に進もうとする意志が混在した表情。


「この瞬間、あなたは崩壊しかけました。しかし、完全には壊れなかった」城之内はほとんど畏敬の念を込めて言った。「このパターンは...私の真理子には必要だったのです」


「人としての強靭さを...AIに移植しようとした?」桜井が理解して言った。


「コピーではない、本物の意識の転移です」城之内は熱を込めて言った。「私の理論では、強靭な精神構造を持つ個人の神経パターンを基盤として、真理子の意識を安定させることができると...」


「しかし失敗した」誠一は静かに言った。


城之内は頷いた。「何かが足りない。データはあるのに...真理子はそこにいない」


「それは当然です」村上が初めて口を開いた。「記憶や神経パターンは人間の一部に過ぎません。魂や本質まで転送することはできないのです」


「科学者として、そういう曖昧な概念は受け入れられない」城之内は反論した。「ただデータが不完全なだけだ」


その時、ホログラフィックディスプレイの女性の顔が動いた。


「秀樹...」かすかな声が空間に響いた。


全員が驚いて振り向いた。


「真理子?」城之内は震える声で言った。


「これは...私ではない」女性の声は奇妙に冷静だった。「私の記憶のコピーにすぎない」


「いや、違う!」城之内は必死に言った。「あなたは真理子だ。もう少しデータを統合すれば...」


「秀樹」女性の声は優しさを含んでいた。「私は死んだのよ。このAIは私ではない。私のようなものを作るために、他の人々の記憶を奪うのはやめて」


城之内の顔から血の気が引いた。「プログラムのエラーだ」彼は必死に言った。「自己認識の限界についての誤ったアルゴリズムが...」


桜井がコンソールを見て言った。「これはプログラムされた応答ではありません。AIが自発的に判断しています」


「私は死を受け入れた」真理子のAIは続けた。「あなたも受け入れるべきよ」


城之内は崩れるように椅子に座り込んだ。「七年間...私はあなたのために...」


「それが私を苦しめていることに気づいて」AIの声は痛ましいほど人間らしかった。


誠一は静かに城之内に近づいた。「彼女は正しいのではないですか?これは真理子さんではない」


「では何なんだ?」城之内は苦しげに言った。「こんなにリアルに彼女のように話し、彼女のように思考する存在が?」


「記憶のエコーかもしれません」村上が静かに言った。「残響。しかし本人ではない」


静寂が研究室を包んだ。


誠一は深く考え、言った。「私も記憶を失った。しかし、家族との絆は記憶がなくても残っていた。記憶以上のものが私たちを作っているんです」


城之内は長い間黙っていた。ついに彼は顔を上げ、疲れた目でホログラフィックディスプレイを見つめた。


「私は...間違っていたのか」


その時、警報が鳴り響いた。


「セキュリティシステム再起動!」桜井が叫んだ。「私たちの存在が検知されました!」


「データを確保!」斎藤が桜井に急かした。


城之内は突然立ち上がった。「高村さん、こちらへ」彼は別のコンソールへ急いだ。「あなたの記憶データの完全版です。早く」


誠一は一瞬躊躇したが、城之内のもとへ駆け寄った。城之内は素早くコマンドを入力し、小さなデータクリスタルを取り出した。


「これがあなたの記憶の全て。そして...」彼は別のコマンドを入力した。「これがシステム全体の証拠です」


中央サーバーのディスプレイに「データ解放プロトコル実行中」という文字が表示された。


「何をしたんですか?」誠一は驚いて尋ねた。


「記憶データの所有権を、すべての本人に返却しました」城之内は静かに言った。「そして、プロジェクトの詳細をメディアに公開するプロトコルを起動しました」


「なぜ?」


「真理子の言う通りだ」城之内はため息をついた。「彼女を取り戻すことはできない。そして...私のしたことは間違っていた」


エレベーターの方向から足音が聞こえてきた。


「警備チームが来ます!」桜井が警告した。「撤退します!」


「非常口へ!」斎藤が指示した。


四人が急いで出口へ向かう中、誠一は振り返った。


「城之内博士、一緒に」


城之内は静かに首を振った。「私は残ります。自分の研究の責任を取るべきです」


「後悔していませんか?」誠一は急いで尋ねた。


城之内はほんの少し微笑んだ。「科学者として?少し。人間として?いいえ」彼はホログラフィックの真理子を見つめた。「さよなら、愛しい人」


誠一たちが非常階段へ駆け込むのと同時に、セキュリティチームが研究室に突入した。城之内博士の姿が見えなくなる中、誠一はデータクリスタルを強く握りしめていた。

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