第27話

夕刻、桜井のアパートには誠一、美香、斎藤、村上が集まっていた。小さな部屋は人で溢れ、桜井のコンピュータ設備の熱で少し暑かった。


「闇市場へのアクセスコードを確保しました」斎藤がテーブルに小さなデバイスを置いた。「このトークンで一時的に仮想市場に入れます」


「具体的にどうやって記憶を取り戻すの?」美香が不安そうに尋ねた。


桜井が説明した。「まず、誠一さんの売却された記憶データのサンプルを入手します。次に、そのデータが保存されている完全なサーバー位置を特定。最後に、アクセス権を購入するか、交渉するかです」


「交渉材料は?」誠一が尋ねた。


「あなたのコードに含まれる城之内博士の記憶パターンです」桜井はスクリーンに複雑な波形パターンを表示した。「これはあなたが書いたコードから抽出した記憶パターンで、右側が城之内博士の既知のパターンです。93.7%の一致率があります」


美香はスクリーンを見つめて息を呑んだ。「これが...誠一の頭の中で起きていることなの?」


「理論的には」桜井は頷いた。「記憶取引で誠一さんの記憶が消去されたと思われていましたが、実際には脳の別エリアに隔離されただけの可能性があります。それと同時に、城之内博士のパターンが何らかの形で流入した」


「どうして城之内の記憶が混入したのか?」村上が尋ねた。


桜井は考え込んだ。「私の仮説では、城之内博士自身がこのプロセスに深く関与していたからではないでしょうか。彼が誠一さんの記憶パターンを個人的に検証している過程で、双方向の転送が起きた可能性があります」


「それってつまり...」美香の声が震えた。


「城之内博士が誠一さんに特別な興味を持っていた可能性が高いということです」桜井は結論づけた。


斎藤が時計を見た。「時間です。始めましょう」


彼はトークンをマスターコンソールに接続した。桜井が複雑なコマンドを入力すると、部屋の照明が自動的に暗くなり、壁一面に仮想インターフェースが投影された。


「闇市場にようこそ」機械的な声が部屋に響いた。


暗いデジタル空間に、様々なアイコンが浮かんでいる。「記憶」「スキル」「感情パターン」「トラウマ除去」など、様々なカテゴリーが並ぶ。


「記憶セクションに進みます」桜井が声で指示した。


インターフェースが変化し、数百の記憶パッケージが表示された。各パッケージには簡単な説明と価格が付いている。


「氷河期世代 - 就職活動挫折体験」というカテゴリを選択すると、さらに細かい分類が現れた。


「こんなにたくさん...」美香は呆然と言った。「みんな記憶を売ったの?」


「多くの人が」斎藤はうなずいた。「特に氷河期世代は、過去の苦しみを消すことで現在を生きようとした」


桜井は検索を続けた。「高村誠一」と入力すると、マッチする項目が現れた。


「見つかりました!」桜井が興奮して叫んだ。「高村誠一の記憶パッケージ、現在のライセンス所有者...『ライフログ・プロジェクト、城之内研究室』」


「やはり」斎藤は目を細めた。「城之内博士が直接管理している」


パッケージの詳細を開くと、サンプルビューアが表示された。「体験サンプルを再生しますか?」というプロンプトが出る。


「これで誠一さんの記憶を部分的に体験できます」桜井が説明した。


「見たい?」誠一は美香に尋ねた。


美香は悲しげに微笑んだ。「あなたの苦しみを知りたい」


桜井がサンプル再生ボタンを押した。部屋の環境がさらに変化し、全員に軽いめまいが襲った。


*雨の降る駅前。手には就職面接からの不採用通知。「氷河期だから仕方ない」と自分に言い聞かせる若い誠一の姿。百社目の不採用メールを見つめる目。絶望と諦めの感覚。しかし心の奥底にある、「それでも生きていかなければ」という決意。*


体験が終わると、美香の頬には涙が流れていた。「こんなに苦しんでいたのね...」


「これが私の核心記憶です」誠一は静かに言った。「消せなかった記憶」


「完全な記憶パッケージへのアクセス料金は800万円です」桜井が情報を読み上げた。「交渉オプションもあります」


斎藤が前に出た。「交渉します。私たちには価値ある情報があります」


彼はインターフェースで「管理者と接続」を選択した。しばらくして、匿名のアバターが現れた。


「何を提供できる?」機械的に変調された声が尋ねた。


「城之内博士の個人記憶パターンです」斎藤は自信を持って言った。「彼のコードから抽出した未発表の記憶データです」


アバターが一瞬停止した。「証拠を示せ」


桜井が城之内のパターン分析を送信した。長い沈黙の後、アバターが再び動いた。


「興味深い提案だ。しかし不十分。現金300万円と合わせるなら、取引可能」


誠一は眉をひそめた。「そんな大金はない」


「私が出します」斎藤が突然言った。


全員が驚いて彼を見た。


「私の恋人の記憶も取り戻すための投資です」斎藤は説明した。「そして...城之内博士の研究の真実を暴くため」


斎藤はデジタルウォレットから資金を転送した。アバターが確認すると、新しいアクセスコードが表示された。


「これで高村誠一の完全記憶パッケージにアクセスできます。24時間有効」


取引が完了すると、桜井はすぐに大量のデータをダウンロードし始めた。「これがあなたの記憶データです、誠一さん。しかし、単にデータを持っているだけでは記憶は戻りません。脳に再統合する方法が必要です」


「どうすれば?」


「理論的には、脳波同期技術で可能かもしれません」桜井は考え込んだ。「しかし、そのような技術は実験段階で...」


その時、別のデータストリームが彼女の注意を引いた。「待ってください。これは...」


桜井は新しいデータを解析し始めた。「これは『ライフログ』プロジェクトに関する情報です!アクセスコードで予想以上のデータを取得できました」


「何が書いてある?」誠一が尋ねた。


「城之内博士の秘密プロジェクト...」桜井の声が震えた。「これは単なる記憶取引ではありません。彼は『永続的意識』の研究を行っているのです。人間の意識を完全にデジタル化し、永遠に保存する技術」


「なぜ?」美香が尋ねた。


斎藤が答えた。「私の調査によれば、城之内博士は7年前に妻を亡くしています。彼女も記憶研究者でした」


「そして氷河期世代の記憶が重要なのは...」村上が推測した。「忍耐と回復力のパターンが、意識の永続的維持に関係しているからでしょう」


「まさに」桜井は画面を指差した。「城之内博士は妻の意識を再現しようとしているのです。そして彼女の最後の記憶が劣化しないよう、強靭な回復力のパターンが必要だった」


「氷河期世代の記憶売却を政府が推進していたのも、このためなのか...」斎藤は憤然と言った。


突然、インターフェースが赤く点滅し始めた。


「セキュリティ侵入を検知。接続を終了します」


桜井は慌ててキーボードを叩いた。「追跡されています!切断します!」


画面が消え、部屋の照明が戻った。全員が緊張した表情で互いを見つめた。


「データは確保できた?」誠一が尋ねた。


「はい」桜井は安堵のため息をついた。「あなたの記憶データと、ライフログの一部情報。これを分析すれば、あなたの記憶を取り戻す方法が見つかるかもしれません」


「私にはアイデアがあります」村上が静かに言った。「記憶は単なるデータではなく、感情や感覚と結びついています。誠一さんの記憶は完全に消えたわけではない。それは彼のコードに証拠があります」


「何を提案している?」斎藤が尋ねた。


「記憶共鳴理論です」村上は説明した。「失われた記憶でも、関連する感覚や感情のトリガーによって再活性化できる可能性があります。家族写真で記憶が蘇ったように」


桜井の目が輝いた。「理論的には可能です!記憶データを視覚的、聴覚的、触覚的刺激に変換し、脳波パターンと同期させれば...」


「記憶共鳴システム...」誠一は言葉を反芻した。「それが私の記憶を取り戻す方法?」


「理論上は」桜井は熱心に言った。「私のニューラルネットワークの知識と、村上さんの記憶理論を組み合わせれば、試作品を作れるかもしれません」


美香は夫の手を握った。「希望があるのね」


「開発には時間がかかります」桜井は警告した。「そして...リスクもあります」


「どんなリスクも受け入れる」誠一はきっぱりと言った。「家族との記憶を取り戻すためなら」


誠一のデバイスが突然鳴った。見知らぬ番号からのメッセージだ。開くと、そこには短い文章があった。


『高村さん、あなたは危険な情報にアクセスしました。明日、ニューロシティセンターで会いましょう。記憶の問題を解決する方法があります。—城之内』


「城之内からだ」誠一は顔を上げた。「彼は私たちが何をしたか知っている」


「予想通りです」斎藤は表情を引き締めた。「これから本当の戦いが始まります」


部屋の空気が緊張で満ちる中、美香が静かに言った。「私たちは一緒よ。誠一、もう一人じゃない」


窓の外では、ニューロシティの夜景が広がっていた。その中のどこかに、彼らの答えがある。そして記憶を取り戻す鍵も。


誠一は妻の手をしっかりと握り返した。「明日、城之内に会おう。そして真実を突き止めよう」


「記憶共鳴システムの開発を始めます」桜井は決意に満ちた声で言った。「これは単なる一個人の問題ではなくなりました。記憶と人間の本質についての戦いです」


「記憶の森」の風景が誠一の頭に浮かんだ。村上の言葉が響く。「失った記憶は戻らなくても、新たな経験で自分を再構築できる」


しかし誠一は知っていた。彼の旅は単なる記憶の回復ではない。それは真実の探求であり、家族との絆を取り戻す戦いなのだと。


窓から見える満月が、明日への道を静かに照らしていた。

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