第10話 王女の過去
パルス王女が連行されていった三日後。執務室代わりに使っている大型テントで、リオは何事もなかったかのように治療施設運営の雑務をこなしていた。そんなリオにライナがチクリと言葉を突き刺す。
「パルス王女の御前裁判、今日っスよ」
そう、今日は、パルス王女の“遺体玩弄”の罪を問う裁判の日であった。被告が王族であることと、前代未聞の件数の“遺体玩弄であることから、国王自ら裁きを下す御前裁判の形式をとられることになっている。
「そうねー」
リオは気のない返事をして、事務作業を続ける。
「行かなくていいんスか?」
「行ってどうするのよ? 私が裁判聞きに言っても何も変わらないわ」
投げやりなリオの応えに、ライナは不服そうに食い下がる。
「お嬢、なんか逃げてません?」
「私は絶対に逃げないわよ。病気や患者からはね」
リオは少しだけムッとしながら反論する。
「私は白魔術師であり、医者よ。パルス王女が犯した罪を私にはどうするこもできない」
リオの言葉にライナは、リオらしくないと釈然としない思いを抱きながらも、ここら辺が潮時かと引き下がる。
「そういうもんスか」
「そういうもんよ。さあ無駄話は終わりにして、私たちがやるべきことをやりましょう。王都の伝染病ももうあと一息で収束よ」
王都行政の協力でリオの治療施設は王都全域をカバーしうる数まで増え、人員もかなり充足していた。特に、リオの治療に対して懐疑的だった白魔術師たちが、火を見るよりも明らかなリオの治療術の成績を目の当たりにし、あっさりと協力に回ったことが大きかった。王都の伝染病の収束は、リオの言うとおりもう目の前まできていた。リオが事務作業を再開した矢先、治療施設スタッフの一人がテント内に顔を差し入れて告げる。
「リオさん、来客です」
「どこのどなた?」
「それが十数名おられまして」
そう聞いてリオは怪訝な顔をする。
「その人数がいっぺんに来たの? 代表者は?」
「シモン・ジラールという騎士です」
その名をどこかで聞いたと思い、リオは記憶を探る。
「シモン・ジラール……」
1分ほど考え、答えが出てくる。
シモン・ジラール。リオが“消える死体”の調査を国王から命じられ、一番最初に聞き取り調査を行った人物であり、“消える死体”第一号のライアン・ジラールの息子であった。そのシモン・ジラールがリオに会いに来た。ただ事ではない予感がしながらも、リオはスタッフに尋ねる。
「どういう用件で来られたの?」
「その……“消える死体”の真相をお話ししたいと」
そういう可能性も考えなくはなかったがそれでも驚きを隠せずにはいられなかった。リオは手をつけていた書類を放り出し、テントの外に出た。そこには十数人の老若男女が立っていた。
記憶の残り具合はまちまちだが、皆一度は見た顔だ。全員リオが“消える死体”の調査で事情聴取を行った面々だった。
「このような人数で突然押しかけ誠に申し訳ございません」
先頭に立つ30代後半の男、シモン・ジラールがそう言って頭を下げた。聞きたいことは山程あったが、リオはまず、なぜ彼らが自由の身でここに来られたのかが疑問だった。
「あなた方はパルス王女にご家族の遺体を提供していたのですよね? 共犯として逮捕されなかったのですか?」
「ええ、逮捕されました。しかし、姫様が私たちを脅迫して遺体を奪い取ったのだと供述され、我々は釈放されました」
「本当に脅迫されていたのですか?」
リオは疑いのこもった目を向けるが、シモンはあっさりと「違います」と否定した。
「我々は我々の意思で姫様に協力させて頂いておりました。その旨、我々も自供していたのですが、我々の供述はもみ消されました。おそらく姫様は御一人で罪を被ろうとなさっておいでです」
なるほど、あの人らしいと思いながらも、リオは最も疑問であった点を問う。
「パルス様とあなたたちは、いったい何の目的で“遺体玩弄”なんて……」
「“遺体玩弄”などではございません!!」
シモンが強い口調でそう言い放った。そして、再び声を落ち着けて、ゆっくりと語りだした。
「全ては1年前、隣国フィニティマとの戦争、その戦場で始まったことなのです」
1年前。アンブロワーズ王国は、国境線付近の領土問題で、隣接するフィニティマ王国と緊張関係にあったが、この年の春、とうとう戦端が開かれた。当初は国境線付近の領主たちを中心に散発的な戦闘が行われる程度だったが、戦況は膠着しており、王都の主力部隊がいよいよ派兵されることとなった。そして、その中にはアンブロワーズ王国第一王子、シャルル・アンブロワーズの指揮する王立騎士団も含まれていた。その報を耳にし、パルスは自室を飛び出し、兄シャルルを探して王宮内を走り回った。
「シャルルお兄様!!」
王宮の大回廊で、シャルル王子を見つけ駆け寄る。妹の尋常ならざる呼び掛けに、シャルル・アンブロワーズは振り返る。
「おー、パルス。どうした血相を変えて」
まるで荒野に一本そびえたつ大木のような、猛々しい体躯の青年であった。パルスと同じ銀髪と瑠璃色の瞳だが、その髪は短く刈り込んでおり、その目つきは野生動物のように奥深く強かった。王族らしい高貴な宮廷服に身を包んでいながら、高貴な印象を打ち消してしまうほどの野生味が肉体からあふれ出していた。雄々しく、だが決して好戦的ではない、神話に出てくる守護闘神を彷彿とさせる。そんな人物であった。
「シャルルお兄様が出陣なさるというのは本当ですか!?」
「耳が早いな。ああ、そのとおりだ。武者震いがするよ」
シャルルは上下の歯が見えるくらい力強い笑顔を浮かべた。対してパルスは、不安と憤りの入り混じった表情を浮かべている。
「そんな……シャルルお兄様は第一王子、王位継承順位一位なのですよ!! 万一戦場で何かあったら」
「ルイスが出陣するほうがよかったか?」
そう言ってシャルルはため息をつく。
「それは……」
答えにくい問かけに、パルスは言葉を詰まらせる。パルスはシャルルを兄というだけでは収まらないほど強く慕っており、シャルルもそんな妹を深く愛していた。だが、第二王子であるルイスとは、幼少の頃から実の兄妹とは思えないくらい険悪な仲であった。しかし、そんな負の情念を堂々と言葉に表すようなパルスではない。シャルルは少し意地悪な質問だったかとすまなそうな顔をして、パルスの頭を優しく撫でた。
「心配は要らぬ。俺はこの国の王となるべき男。そして、世界で一番強い男だ」
そう言って、シャルルは強く頼もしい笑顔を浮かべたのだった。
その翌日には、遠征軍の出陣はもう間もなくといった状況で、シャルルは指揮を執る王立騎士団の士気や装備の整い具合を自ら見て回っていた。
「いよいよですな。シャルル殿下」
副官の中年の騎士が鼓舞するように語りかける。
「ああ、フィニティマの奴らに目にもの見せてやる」
重々しい甲冑を身に纏い、シャルルはいよいよもって闘神の如き空気を身に纏っていた。
「こんな数では足りません!!」
聞き慣れた声でそんな言葉が飛んできて、シャルルは「ん?」とそちらの方に目を向ける。見ると、部隊の後方で、パルスが補給担当の兵士にあれこれと指示を飛ばしていた。
「フィニティマは強い相手ですよ!! 薬も包帯もこれでは全然足りません!!」
「しかし姫様、そう仰いましても……」
「城の備蓄がまだあるでしょう!! 蔵を開けて持ってこさせない!!」
何か面倒なことが起こっていると察し、シャルルがその場に駆けつける。
「パルス。これは何の騒ぎだ? それにお前、その格好……」
シャルルはパルスの装いを見て唖然とした。小柄な一般兵向けの革製の軽い胸当てを身に付け、下も丈夫で動きやすそうな平服を着込んでいる。パルスは、シャルルに向かって静かにこう言った。
「私も戦場に参ります」
「な、何を言う!? 剣も習ったことがない女のお前が、戦場など……」
パルスのとんでもない発言に、闘神の如き空気はあっさりと吹き飛ばされ、シャルルは妹のわがままに手を焼くただの兄になってしまう。
「無論、私などが戦力になるとは思っておりません。私が出陣するのは、衛生部隊としてです」
「衛生部隊だと?」
「私はこの数年、独自に怪我や病気の研究をして参りました。白魔術にも少々心得がございます。必ずやお兄様と兵たちの役に立って見せます!!」
そう言って、パルスはシャルルの目をじっと見つめた。その瞳に宿るのは、揺るがぬ強い意思であった。
「無茶なことを言うな!! 第一王子と第一王女が同時に戦場に出るなど、我ら二人が同時に死んだらどうなる!?」
王族として尤も過ぎる話だったが、パルスは不敵な笑みを浮かべて反論する。
「これはおかしなことを。お兄様は、世界で一番強い男ではなかったのですか?」
自らの発言を引っ張り出され、シャルルは「ぐ……」と言葉を呑み込む。
「世界で一番強いお兄様が私を守ってくださいます。だから私は死にません。そして、お兄様が受けた傷は全て私が治して見せます。だからお兄様も死にません」
そう言ってパルスは笑う。そこにあるのは、シャルルが昨日浮かべたのとよく似た、強く頼もしい笑顔であった。かくして、シャルル第一王子は押し切られ、パルス第一王女は衛生部隊の長として遠征に参加することになったのであった。
1週間後、アンブロワーズ王国とフィニティマ王国の国境線付近。アンブロワーズ側の後方陣地にある野営地はけが人であふれかえっていた。
「はい、終わりましたよ」
パルスはとある兵士の首の後ろで三角巾の端と端を結んだ。右前腕の骨折を整復し、添え木を当て三角巾で固定したところであった。
「ありがとうございます……姫様……」
処置を受けた兵士は礼を言うが、それに応える間もなく、その隣にいる兵士の診察に移る。
「痛ぇぇぇ……痛ぇぇぇ……」
右前腕の切創だが、奥に骨が見えるほどの深い傷であった。
「今から傷を縫合します。気を強く持って!!」
パルスがその兵士の処置に取り掛かろうとした矢先、怒号とともに新たなけが人が運び込まれてくる。
「どいてくれ、重傷者だ!!」
衛生兵の一人が取りついて状態を見るが、すぐに怒鳴り返す。
「おい、腹を刺されてるじゃないか!? こんなの助かるわけがないだろう!?」
この世界では、白魔術が病やけがの治療の中心となっているため、科学的医療技術の発展は遅れている。ゆえに、腹部の深い刺創などは手の施しようがなく、特にけが人が大量に発生する戦場では見捨てるしかないのが常だった。
「頼む!! 俺の親友なんだ!!」
「無茶言うな!! できることとできないことくらい分かるだろ!?」
連れてきた兵士と衛生兵のそんな口論を見かねて、パルスが駆け寄る。
「わたしに
衣服を切り開いて、患部を露出させる。刺された場所は左上腹部。傷の大きさはせいぜい5cm程度だが、傷の底が見えないほど深かった。
この深さだと、おそらく内臓まで斬られている。
「処置を始めます!!」
パルスの宣言に周囲がどよめく。普通であれば見捨てる患者だ。他の衛生兵たちは口々に無理だと反発する。
「私に考えがあります!!」
この戦場に来てから、けが人として野営地まで戻ってくるのは、比較的表面的なけがか骨折がほとんどであったが、胸や腹に深い傷を受けた兵士は前線でそのまま見捨てられるという話を聞いていた。パルスは、日々の処置をこなしながら、そういった者たちをどうすれば救えるか必死に考え続けていた。
内臓の奥まで斬られているなら……中を開いて、内臓を縫うしかない!!
何度頭の中で考えをめぐらせても、実行可能な方法はそれしか思い浮かばなかった。そして、それを実戦で試すときがやってきてしまったのだ。
パルスはナイフを取り出し、傷を上下に切り広げた。中から血液が溢れてくるが、それを必死に布で吸い取り、視野を確保する。だが、それで見えてきたモノに唖然とする。
何、これ? 人間の体の中って、こんなに複雑なの?
この世界では、“遺体玩弄”という宗教的な制約のため、人体の内部を直接的に調べることができない。その結果、この世界の人々にとって、人体の内部は未知の異空間に等しくなっている。
とにかく、縫わなくちゃ……
管状の臓器を押しのけ、大きな袋状の臓器が出てくる。管状の臓器にもいくつか傷がついているが、それ以上に袋状の臓器に大きな穴が開いている。穴からは黄色い液体が漏れ出ており、それをふき取りながら、糸と針で穴を縫い塞いでいく。
「姫様……」
衛生兵の一人が処置を受けている兵士の反対側に屈みこむ。
「黙ってて、今、難しいところなの!!」
衛生兵の呼びかけを無視して、パルスは視線をはずさず傷を縫い続けるが、衛生兵はさらに強い声で呼びかける。
「姫様!!」
衛生兵は、処置を受けている兵士の手首に指をあてている。
「もう脈が止まってます」
その言葉でようやくパルスは手をとめた。患部から視線を外し、恐る恐る、兵士の顔を見る。
さきほどまでは荒い呼吸をしていたのに、今はもう止まっている。顔色もどんどんと生気が抜けていっている。
そんな……そんな……そんな……
パルスは頭が真っ白になり、その場からしばらく動けなかった。
その後も、似たような事例がいくつかあり、パルスはその度に開腹や開胸での処置を試みたが、皆処置が終わる前に息絶えていった。
ある夜、パルスは大きな炎の前に座り込んでいた。炎の中には死んだ兵士たちの体が積み上げられていた。“遺体玩弄”の禁忌があるこの世界では、遺体はできるだけ速やかに火葬するのが習わしであり、戦死した遺体は故郷に戻ることなく、戦地で焼き払われてしまうのだ。パルスはじっと炎を見つめている。いや、炎ではなく、焼かれる兵士たちを見つめている。その中の多くは、パルスが処置を施した者たちだ。開胸や開腹での処置を行った者だけではなく、創の縫合や骨折の整復など、一時は状態が安定した者たちも、その後の出血や感染などで多くが命を落としていった。パルスが戦場に入り、すでに1か月が過ぎようとしていた。
「パルス」
炎の前で体を丸めているパルスに声をかける者がいた。兄のシャルルであった。
「お兄様……」
パルスは立ち上がり、兄の大きな体に身を寄せる。
「救えなかった。こんなにたくさんの人たちが目の前で……」
シャルルの胸の中でパルスは泣いた。横車を押すような形で無理矢理衛生部隊の長になったパルスは、立場上気丈に振る舞わねばならないと考え、必死に泣くのを堪えてきた。だが、パルスの心はもう限界を超えていた。
「十分だ。お前はよくやった」
そんなパルスをシャルルは優しく抱きしめる。
「パルス、お前はもう王都へ帰れ」
戦況は激化の一途をたどっており、終わりが見えていない。むしろ始まったばかりとさえ言えた。そんな中、勢い勇んで自ら飛び込んできたくせに、半ばで放りだす等できるはずがない。だが、頭ではそう思いながらも、パルスはシャルルの言葉に抗することができなかった。
「お前は優しすぎる。このまま戦場にいれば、お前の心は壊れてしまう」
パルスは一言も発さず、気が付くと頷いてしまっていた。
翌朝、パルスはシャルルに言われたとおり、王都に帰ることとなった。帰る前にもう一度兄に会っておきたいと思い、野営地の周辺を探すが見当たらない。兵士の一人にシャルルの行方を尋ねると、奇襲作戦のため夜明けとともに陣をでたとのことだった。残念に思いながらも、戦争が終わればまた会えると思うことにした。
兄は世界で一番強いと自負する男だ。必ず生きて帰ってくる。
そう思っていた矢先、一頭の馬が野営地に走り込んでくる。
「伝令!! 前線でシャルル殿下が負傷された!!」
その報に、パルスは心臓を掴まれたような思いがした。
シャルルお兄様が!?
伝令は大声で報告を続ける。
「奇襲作戦が敵に読まれていた!! シャルル殿下の部隊は待ち伏せに遭い、先頭におられた殿下は敵の槍に刺された!!」
パルスは伝令の兵士に駆け寄った。
「お兄様の容体は!?」
「まだ意識はありましたが、時間の問題かと……もしかすると今頃……」
パルスは叫んだ。
「誰か、馬を!!」
パルス付きの護衛の一人が慌てて馬を引いてくる。
「姫様、どうなさるので!?」
「私が行って、処置を行います!!」
パルスは治療器具一式が入った鞄を引っ掴み、馬の鞍に飛び乗った。
「危険です!! 後方の自陣とはわけが違います!!」
「シャルルお兄様を失うのは、国の危機です!! 他に何を優先するというのですか!?」
そう言い放って、馬を走らせ、野営地を飛び出した。
シャルルお兄様!! 私が着くまでなんとか持ちこたえて!!
奇襲をかけたであろう敵陣の方角に向けて、全速力で馬を走らせていると、15分ほどで激しく斬り合っている騎士や兵士たちが見えてきた。その中で、複数人の兵士が一人の倒れた男を必死に守っていた。目を凝らし、それがシャルルであることを確認し、そこに駆け寄り馬を降りた。
「パルス殿下!? なぜ、このような前線に!?」
「危険です!! 今すぐお引き返しください!!」
兵たちが口々に戻れと叫ぶが、パルスは構わずシャルルの体に飛びついた。
「シャルルお兄様!!」
「パ……パルス……」
シャルルはひゅーっ、ひゅーっと弱々しい呼吸をしている。
「お兄様、大丈夫!! 私が必ずお助けします!!」
鎧の節目の革の部分をナイフで切り裂き、胸腹部を覆うプレートを外す。さらにその下の布も切り裂き、胸腹部を露出させる。どうやら右側面のプレートのない部分に槍を刺し込まれたらしく、右の側腹部の傷口から血がだくだくと流れでていた。周囲で斬撃の音が飛び交う中、パルスは処置を開始した。今までと同じように、傷口を上下に切り広げ、中を観察しようとするが、出血の量がこれまでと桁が違った。
今までと出血量がまるで違う!?
それでも必死に血を拭き取りながら、内部を観察する。
右上の大きな臓器がこんなに損傷してる……
パルスは知る由もないが、槍が貫いた臓器は肝臓であった。肝臓は血流の多い臓器であり、肝臓を貫かれたとなるとその出血量は凄まじいものになる。必死に縫おうするが、溢れる血液で視野が維持できない。
だめだ!! 血が止まらない!?
腹壁の傷口を切り開いたことで、かえって出血を遮るものがなくなり、漏れ出る血液は勢いを増していた。シャルルを中心に荒野の土に大きな血溜まりが形成されていく。すでに、素人目にも助からない出血量であった。
嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘……
パルスは怯えながら、シャルルの顔を見た。呼吸は完全に止まっており、皮膚の色は青白くなっていた。
いや、いや、いや、いや、いや、いやぁぁぁぁぁぁーっ!!
パルスの叫びは、もう声にならなかった。
その後、アンブロワーズ側がなんとか押し切り、フィニティマ側が自陣に引き上げてくれたおかげで、シャルル王子の遺体を自陣に持ち帰ることができた。
パルスは再び炎の前に座り込んでいる。炎が夜にいくらかの光をもたらし、荒野の冷えた空気を温めている。炎の中には横たえられた人影がある。
シャルル・アンブロワーズ。享年29歳であった。
「姫様」
炎の前で縮こまっているパルスに、背後から声がかけられる。振り返ると、一人の老騎士が立っていた。顔には深いしわが刻まれ、体も歳で痩せているが、背筋がぴんと伸びており、堂々たる佇まいであった。パルスもよく見知った人物で、パルスはその老騎士の名を呼んだ。
「ライアン……」
ライアン・ジラール。家柄の身分は低いが、剣術にも兵学にも長け、他の騎士や兵士の信頼も厚く、シャルルが重用していた側近の一人である。
「姫様は、此度の戦で何度か胸や腹を切って、中の傷を治療しようとしておられましたね?」
「ええ、一度もうまくいきませんでしたが……」
ライアンの問いにパルスは曇った顔をさらに曇らせ俯く。
「それは、成功しうる処置なのですか?」
「私の考えが正しければ、成功する可能性はあります。ですが、人間の体の中というのは私が想像していたものよりはるかに複雑でした」
「では、体の中がどうなっているのか詳しくわかれば、成功する確率があがるのですね?」
「ええ、ですが、生きた人間の体を裂いて調べるわけにはいきません。かといって、遺体を切り裂いて調べることは、ノルディック聖教の“遺体玩弄”にあたります」
ライアンは右手に持っていた一枚の大きな紙を広げて、パルスのほうに見せた。
「それは?」
紙の中心には、シャルルが率いていた王立騎士団を象徴する百合の花を模した紋章が描かれており、その紋章の周囲に何百という名前が書きこまれている。名前を書き込まれている文字は赤黒く、どうやら血で書かれているようであった。
「私を含むシャルル殿下指揮下の騎士、兵士たち全員の血判状です。ここに名を連ねた者たちは、戦死した際、姫様に体をお預けします」
「預ける……とはどういう意味ですか?」
ライアンの意図を薄々察しながらも、まさかそんことはと思いながら恐る恐る問う。
「遺体を割り開いて、隅々まで調べてください」
予想はしていたが、やはり驚かずにはいられなかった。
「そ、そんなことをすれば、異端審問にかけられます!?」
「戦死した遺体は戦地で火葬する規則です。焼いてしまえば証拠は残らない」
「ですが……」
「この血判状に名前を連ねている者は、この秘密を絶対に戦場の外には漏らしません」
ライアンは淡々と語りながらも、その声には執念めいた意思がこもっていた。
「死した者はその身を以って、一人でも多くの同胞を救う。それが我らの願いです。恐れながら、姫様には我々の共犯者になって頂きます」
ライアンはじっとパルスの目を見つめる。いつの間にか、ライアンの背後には大勢の騎士、兵士たちが集まっていた。皆、血判状に名を連ねた者たちであろう。そして、そのさらに後ろには、この戦場で散っていった戦士たちの怒りや悲しみや無念の思いが、亡霊のように佇んでいるかのようにパルスは感じたのだった。
翌日には、血判状に名を連ねた者の中から早くも戦死者が出た。遺体は新たに建てられた密閉型のテントの中に運び込まれ、パルスとその助手しか立ち入らないように通達が出されていた。テントの中心に置かれた台の上に兵士の遺体が横たえられ、その前にパルスが立っている。灰色の無地のローブを身に纏い、口元を布で覆い、大きな帽子に髪の毛を全て入れ込み、両手に手袋をはめている。同様の服装をしている助手がおびえながら問う。
「姫様……本当に宜しいのですか? “遺体玩弄”を行ったことが漏れれば、いかに姫様といえど異端審問は免れません」
パルスはすぐに答えず、しばらく目を閉じて沈黙したあと、意を決して両目を見開いた。
「私の覚悟は決まりました。万一ことが明るみになるようなことがあれば、全ての責任は私が被ります」
脇のテーブルに置かれた小ぶりのナイフを手に取る。
「これから先、この戦場で散る命を一つとして無駄にはしません」
パルスは遺体にナイフ入れながら、心の中で強く念じた。
――私は前に進む
――これは“遺体玩弄”などではない
――人の体の全てを解き明かす
――“人体解明”だ!!
そこまでの話を聞き終わり、リオは驚嘆した。
そんな……それじゃあ……パルス王女は“系統解剖”を行っていたってこと?
系統解剖とは、正常な人体の構造を明らかにするために、献体された遺体を解剖し、研究・学習することである。リオも前世で医学生の頃に系統解剖の実習を行い、医者になるために必要な人体の基礎知識を身に着けたのだ。リオが初めてパルスと出会ったとき、この世界の人々が本来知りえないはずの解剖や生理を知っているとしか思えない治療を行っていた謎が、ようやく解けたようにリオは思った。
シモン・ジラールはその後の経過を話した。かねてよりパルス王女の治療技術は独創的で他に類を見ないものであった。だが、戦場で“人体解明”を繰り返していくうちにパルスの治療技術はさらに向上していった。あれはもはや神の技だったと、シモンは回顧する。
戦争が終わり、王都に戻ってからもパルスはその技で民の怪我を治し続けた。その者の身分に関係なく、貴族も、騎士も、商人も、貧民街に住む卑賤の者たちすらも、パルスは分け隔てなく治療した。
そして、話は現在に近づいてくる。
「あの戦争から1年が経ったころ、此度の伝染病が流行り始めました。王都に住む多くの者が伝染病に罹りました。そして、その中に私の父、ライアン・ジラールがおりました」
三か月前。パルスは、ライアン・ジラールが伝染病にかかったと聞き、ジラール邸に見舞いに訪れた。
「姫様……私のような者のために、このような場所においでいただくとは、勿体ない限りでございます……」
ライアンは自室のベッドに横たわり、か細い声で感謝を述べた。その姿はとても弱々しく、もとより高齢であったとはいえ、一年前に戦場を駆け抜けていた頃の勇猛さは見る影もなかった。
「何を言うのですか。貴方の発案のおかげで、私はあの戦場で本当に多くのことを学ばせて頂きました」
そんな弱々しいライアンの手を握り、パルスは必死に元気づけようとしていた。
「身に余るお言葉です……何より、あちらに行く前に……姫様にもう一度お会いできてよかった……」
「何を馬鹿なことを。早く元気になって、また国のために働いてください」
「年寄りがよく言うことですが、自分の体のことはよくわかる……私はもう長くありません……ですが、最後にもう一度姫様にお願いがございます……」
「もう長くないというのには同意しかねますが、私にできることならば何なりと」
ライアンは体に残ったわずかな生気を振り絞るかのように、鬼気迫った声でパルスに懇願した。
「私が死んだら……私の体を調べてください……」
「な、何を!?」
かつて、パルスに“人体解明”を提案したライアンの言うことである。体を調べるというのが、いったいどういう意味なのかは明白であった。
「此度の伝染病は恐ろしい……すでに私の知人、友人も何人も死んでいます……敵の正体を知るためには……伝染病で死んだ人間の体を調べるしかありますまい……あのとき……あの戦場と同じように……」
「でも……」
あのとき、あの戦場と同じようにと言われて、パルスは苦悩した。確かに“人体解明”によって、今まで知られていなかった人体についての知識を得たことで、パルスの治療技術は大きく進歩した。だが、この世界の“遺体玩弄”の禁忌は依然変わらない。“人体解明”が禁忌を犯してでもやらねばならないことであると、未だパルスは完全に割り切ることができずにいた。
「私だけではありません……すでに我が息子シモンを使いに走らせて……協力者を募っています……あの戦場で血判状に名を連ねた同胞たちに……」
「そんな……」
パルスの脳裏に、血判状の血文字とあの場に集まっていた騎士・兵士たちの顔がよぎる。
「姫様……もう一度“人体解明”を行ってください……そして……この憎き伝染病の……正体……を……」
それが、老騎士ライアン・ジラールの最後の言葉となった。血判状のメンバーたちによってすでにあの廃墟が確保されており、ライアンの遺体は秘密裡に運び出され、行政には死体が消えたと報告した。その後もメンバーの中から伝染病による死者が出るたびに、闇夜に紛れて廃墟に運び、地下室で解剖が行われた。
「これが“消える死体”の真相です」
全てを語り終えたシモン・ジラールは、リオに必死に訴えた。
「姫様は罪に問われなければならないようなお方ではございません!! リオ殿、どうか姫様を助けてください!!」
そんなことを頼まれるとは思いもかけておらず、リオは困惑する。
「何で、私に?」
「人を癒やし治すという点において、あなた程姫様に近い人間を我々は知りません。裁判の場で、姫様のなさってきたことの正当性を証明できるのは、リオ殿をおいて他におりません」
シモンの言に、幾分かの得心はいったが、それでも躊躇われた。事はもはや司法の領域であり、もっと言えばこの世界最大の宗教であるノルディック聖教の禁忌に抵触することである。リオが行って訴えたところで、何かが変わると思えなった。逡巡するリオの前に一人の少年が飛び込んできた。
「リオ姉ちゃん!! 姫様を助けて!!」
リオがこの王都に来て最初に関わった平民の少年、オットーであった。
「オットー……あなた、盗み聞してたの?」
呆れるリオにオットーは右前腕をまくって見せた。腕には瘢痕化した大きな傷があった。
「オットー……その傷……」
「俺も姫様に助けてもらったことがあるんだ!!」
オットーは傷の経緯を語った。戦争が終わって、パルスが王都に戻ってきて間もない頃、オットーは馬車にはねられ、右前腕を骨折してしまった。オットーの家には白魔術師にみてもらうようなお金がなかったため、そのまま放置するしかなかった。だが、オットーの骨折は解放性であり、放置すれば出血と感染で命に係わるほどのものであった。何より、十歳の少年には耐えられないほどの痛みであった。そこに、腕が折れた子供がいると聞いてパルスが駆け付けた。「痛くて辛いと思うけど、必ず治すから頑張って」と言って、腕を整復し、傷を洗浄して縫合し、添え木をあててくれた。
「時間はかかったけど骨はくっついて、今はすっかり元通りだよ」
オットーはそう言って、腕をぶんぶんと振り回した。
「俺だけじゃない。怪我して姫様に助けてもらった人はたくさんいるんだ。姫様が困ってるんだったら、俺達はなんでもやるよ。でも、俺達じゃ姫様を助けられない。だから、リオ姉ちゃん、お願いだよ!! 姫様を助けて!!」
シモンとオットーの話を聞いて、リオはようやく理解した。パルス・アンブロワーズという存在がいったい何者なのか。
彼女はこの世界の“外科学の母”になる人だ。
人類の科学は、長い歴史の中で少しずつ進歩するものであるが、ときにたった一人の天才がその進歩を大きく進めてしまうことがある。リオの前世の世界では、16世紀のフランスに一人の天才が現れ、外科学を大きく進歩させた。この世界において、その役割を神から与えられて生まれてきたのがパルス・アンブロワーズなのだと、リオは確信した。
だから、今、ここで失うわけにはいかない!!
リオはようやく意志が固まり、シモンやオットーたちに向かって宣言した。
「任せといて!! あなた達のお姫様は、このリオ・クラテスが必ず救ってみせる!!」
白い魔術師のローブを翻し、リオは王宮の方角を睨んだ。
「行くわよ、ライナ」
「やっぱ、お嬢はそうじゃなきゃ」
二人は、裁判の行われる王宮に向かって走り出した。
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