第1話 王都への道
倉田莉緒31歳。呼吸器内科専門医を取得し、専門医としてこれからというところだったある日、病に倒れた。
スキルス胃癌。他の胃癌と比べて、若年女性に発症しやすく、進行が速い。発見時には他臓器転移や腹膜播種をきたしていることが多く、極めて難治性であり、予後不良の癌である。倉田莉緒も発見時にはすでに腹膜播種をきたしており、手の施しようがない状態だった。数か月後、倉田莉緒は他界した。しかし、倉田莉緒の魂は、幸運にもというべきか、不幸にもというべきか異世界に転生した。
異世界ヌーラ・メディシナ。ここは医学が存在せず、代わりに白魔術が怪我と病を治す世界だった。莉緒はとある国の地方貴族の末娘に生まれ、幼いころから白魔術師になることを志し、彼女のこの世界の両親はそれを素晴らしいことだと歓迎した。10歳になったとき、莉緒は白魔術師養成の名門アルブス・マギ学院に入学した。莉緒はこの世界の白魔術を学びつつ、元の世界の医学知識を白魔術に取り入れ、独自の理論と技術を構築し、6年間の課程を終える頃には希代の天才と呼ばれるようになっていた。学院を卒業し、国際認定試験に合格し晴れて白魔術師となった莉緒は、自身の名前を前世の名前にちなんでリオ・クラテスと改名した。希代の天才としてすでに名声を手にしていたリオは、宮廷魔術師でも、学院の助教でも、就職先はよりどりみどりだったが、リオはフリーの白魔術師として世界を旅することにした。世界を見て回りながら、自身の医学知識を世界に広めようと考えたのだ。そして、今、リオはとある国の首都に向かっていた。その首都では1か月前から伝染病が流行しており、死者が何人もでているのだという。リオの目的はその伝染病を調査し、治療法を確立することだった。
その首都にに続く街道沿いの小さな街。リオは昨晩、この街に着き、宿屋に泊まったのだった。リオは窓から入ってくる朝の空気を思いっきり吸い、その細く華奢な体を上下に伸ばした。リオの泊まった部屋は3階にあり、街を貫く大通りが端から端までよく見渡せた。と、そこで、道行く人々がなにやら騒いでいるのにリオは気づいた。
「大変だ!! 靴屋の爺さん、昨日の夜から熱を出してるらしい!!」
「まさか、王都の伝染病じゃないだろうな!?」
「おい、あの爺さん、1週間前に靴を売りに王都まで行ってなかったか!?」
「ああ、今はやめとけって言ったに、もう今年の蓄えがないって言って!!」
「間違いない!! 王都の伝染病だ!!」
「なんてことだ!! とうとうこの街にも来ちまったのか!?」
騒ぎの内容を聞いて、リオは冷や汗をかきながらも不敵な笑みを浮かべた。
「向こうから来てくれたってわけ?」
リオはすぐに身支度をした。白を基調とした白魔術師のローブに身を包み、長い金髪を三編みに纏める。白魔術(リオの場合は医術だが)の道具が一式詰まった革製の鞄をひっつかみ、部屋を出て、となりの客室の扉を叩く。
「ライナ!! 起きて!!」
しばらく扉を叩き続けて、ようやく中から人が出てくる。
「なんスか、お嬢? こんな朝早く……」
中から出てきたのは、長身で茶髪の20代前半くらいの青年だった。頭はボサボサで、眠そうな目をこすり、めんどくさそうな顔をしている。
青年の名はライナ・ストランド。リオが諸国を旅すると決めたとき、実家の両親が護衛兼お目付け役として、彼を送り込んできたのである。以来、リオはずっとライナを伴って旅をしている。
「早くないわよ!! 街の人達はもうとっくに動きだしてるわよ」
リオは両手を腰にあて、だらしないライナを嗜める。ライナはお目付け役というにはあまりにも怠惰で、現在ではむしろ立場が逆転している。
「発熱の高齢男性がいるらしいの。街の人の話によると王都の伝染病かもしれない」
「うわ、マジすか……」
ライナはあからさまに嫌そうな顔をして尻込みする。
「で、行くんスか?」
「当たり前でしょ!!」
「ですよねー」
リオはやる気まんまんで燃えたぎり、ライナはげっそりして肩を落とした。リオに急かされ、ライナはいそいそと身支度を整え、二人は宿を出た。宿を出てすぐ、熱を出している老人の話をしている一団を見つけ、声をかける。
「失礼!! 私は白魔術師のリオ・クラテスというものです!!」
声をかけられた住民たちはリオの姿を見て、皆ぷつりと言葉を止めた。深い青色の大きな瞳、雪のように白い肌、輝く金髪、理知的な顔立ち。まるで智の女神かと思う美しさで、住民たちはひれ伏したくなるような衝動にかられていた。一方その後ろでライナが、「あーあ、騙されてる」という顔をしていた。
「私は、王都の伝染病の調査に向かう途中です。発熱しているご老人がおられるとのことですが、詳しくお聞かせいただけませんか!?」
リオの申し出に住民たちは諸手を上げて喜んだ。
「おお、白魔術師様とは渡りに船だ!! その老人のところまでご案内します!!」
住民に案内され、リオとライナは熱を出しているという老人のところに向かった。
「ここです」
連れていかれたのは靴屋だった。案内してくれた住人が店の扉を開けようとしたが、リオが制止する。
「ありがとうございます。ここからは私たちだけで」
リオはカバンを開き、中からマスクと手袋を取り出した。この世界のこの時代にはまだ病原体という概念が確立していないため、マスクという存在も定着していない。せいぜい粉塵や砂埃を防ぐために口元に布を巻くといった程度である。しかし、リオの取り出したマスクは楕円形で口元にピッタリとフィットする形で上下に2本のゴム紐がついている。元の世界のN95マスクをイメージしてリオが作ったものである。手袋も布製ではなく、ゴムでできており、液体も微粒子も通さない。
「これ、息苦しいからヤなんですよねー」
リオからマスクと手袋を渡され、ライナは嫌そうな顔をする。
「相手は未知の伝染病よ。これでも軽装過ぎるぐらいなんだから」
リオに窘められ、ライナは渋々マスクをつける。リオはマスクと手袋を装着し、店の扉に手をかけた。
「失礼しまーす」
リオはそう言って店の中に入った。後ろからライナも付いて入る。店内には商品の靴がたくさん並んでいるが、誰もいない。
「こんにはー、白魔術師のリオ・クラテスと言いますー。熱が出ていると聞いてお伺いしましたー。よろしければお力にならせてくださーい」
リオは店の奥まで聞こえるように大きい声でそう言ったが反応はない。
「留守ですね。帰りましょう」
これ幸いと踵を返し出ていこうとするライナの襟首をがしっとリオが掴む。
「熱で意識なくなってるかもしれないでしょ。奥まで確認するわよ」
リオはそう言ってずかずかと奥に踏み込んでいき、ライナははぁとため息をついてついていく。店のカウンターを越えて、バックヤードに入っていくと、そこは靴を作る工房になっていた。そして、部屋の端に長ソファがあり、そこに60代の男が横たわっていた。
「大丈夫ですか!?」
リオは老人の元に駆け寄った。
「ああ……あんたは?」
老人は目を開き、声を絞り出した。
「白魔術師のリオ・クラテスと言います。熱がでていると聞いてお伺いしましたが、かなり衰弱しているとお見受けします。よろしければ治療させてください」
「ああ、白魔術師様とはありがたい……お願いします……」
「では、まず、症状について聞かせてください。咳や痰、喉の痛みはありますか?」
「いえ……ありません……」
「では、腹痛や下痢は?」
「ありません……」
そこで、リオは怪訝な顔をする。
伝染病らしい症状がない。
伝染病とは、感染症のなかでもヒト-ヒト感染するもののことを指し、空気感染や飛沫感染する呼吸器感染症と、接触感染する消化器感染症が大部分を占める。だが、この老人にはどちらも当てはまらない。
「では、熱以外に何か症状はありますか?」
「右膝が……とても痛いんです……」
膝!?
リオは思っていたの全く異なる症状に驚く。
「ちょっと見せてください」
リオは老人のズボンを捲くり上げ、右膝を確認する。老人の右膝は赤く腫れ上がっており、触ると熱感があった。リオは確信した。
熱源はこれだ!!
リオは老人の熱が伝染病ではないと確信し、マスクを外した。そして、老人に状況と対策を説明した。
「おそらく、この膝が熱の原因です。関節の中に液体も溜まっているので、針を刺して溜まっている液体を除去します」
「は、針を、体に刺すんですか!?」
老人は狼狽した。この世界の医療は存在せず、白魔術が傷や病気を治している。ゆえに、注射も存在せず、体に針を刺すなどこの世界の人々には考えられないことなのだ。
「安心してください。これは最新の白魔術です」
この世界に存在しない医学という概念を説明して理解してもらうのは一朝一夕ではないので、リオはいつもこの方便を使って同意を得ていた。後ろでライナが「あー、また、平気でそんな嘘を」という顔をしているが、老人は気づいていない。
「関節内に溜まっている液体の種類にもよりますが、液体を除去するだけですっかり良くなる場合もあります」
リオは、ややこしいことを省いて、今から行う処置の有益性を説いた。
「わかりました……お願いします……」
老人は最終的にリオの言うことを信じて同意した。膝はとてつてもなく痛く、熱で体は重だるい。この辛さを一刻も早くなんとかしてほしかったのだ。
「ご理解いただき、感謝します」
リオは鞄を開き、必要な器材を取り出した。消毒薬、綿球、注射針、注射器である。いずれもこの世界には本来存在しないものである。リオはこの世界で優秀な協力者を何人も手に入れいていた。主にはクラフターと呼ばれる生産職で、錬金術師、裁縫師、鍛冶師、ガラス工芸師といった人々だ。消毒薬は錬金術師、綿球は裁縫師、注射針は鍛冶師、注射器はガラス工芸師とそれぞれ協力して、長年かけて制作した。もちろん、元の世界の器具とはかなり劣るが、それでも実用に耐えうるレベルに達していた。リオは、老人の右膝の外側を消毒薬を浸した綿球で消毒し、注射器に注射針をセットし、膝蓋骨上方3分の1の位置の外側に針先を構えた。
「ちょっとちっくとします。動くと危ないので、頑張ってじっとしててくださいね」
老人はうなずいて、ギュッと目を閉じた。
「それじゃ、刺しますよー」
そう言って、リオは針先を皮膚の中へ押し進めた。老人は、言われた通り、ぐっとこらえて我慢した。1-2cm押し込んだあたりで、注射器の押し子を引き注射器内に陰圧をかけると、針を通って黄白色の液体が出てきた。リオは針の向きや深さを微調整し、膝関節の中の液体をできるだけ引ききってから針を抜いた。
「終わりました。お疲れ様でした」
「ありがとうございます……」
老人はふうと息をついて安堵した。リオは鞄の中から小さな薄いガラス板といくつかの薬品を取り出した。関節液をガラス板上に少量乗せ、薬品の一つを一滴たらし、その上にさらに極薄のガラスを載せる。
「ライナ、顕微鏡出して」
「へーい」
ライナはそう言って背負っていた木箱を下ろす。中から出てきた物は、金属性の筒と台座だった。リオがそれらを組み立ててると確かに顕微鏡のような形になった。この顕微鏡も協力者のクラフターたちとともに制作したものである。この顕微鏡にはレンズが二枚仕込まれており、元の世界の光学顕微鏡とほぼ同じ構造である。だが、この顕微鏡にはこれだけでは足りないものがある。“光”だ。リオは関節液の載ったガラス板を筒の下にセットした。そして、別に持っていた魔法陣のような紋様が描かれた紙を顕微鏡の横に広げる。リオはその紋様に手を翳し声を発した。
「ルクス」
その声をで紋様の上に5cmほどの光球が現れる。
「コンデンサティオーネ」
リオがそう言って台座に乗ったガラス板を指し示すと、光球からガラス板に向けて、光の筋が走り、観察対象の液体を照らしている。リオが今行ったのは、光を生み出す魔術の応用であった。これこそ、この世界でリオが開発した魔術と科学を組み合わせた魔法顕微鏡とも呼ぶべき代物である。この光魔術を組み合わせたのはただ単に光源という役割を果たしているだけでなく、当てる光の性質を変えることができ、対象物を様々な形でとらえることができるのだ。準備が整い、リオは顕微鏡を覗き込んだ。先程検体にたらした薬品は元の世界のメチレンブルーとほぼ同じもので、細菌を見やすく染色できる。もし、この染色で菌が見えれば、男の診断は化膿性膝関節炎ということになる。そうなると、かなり治療は厄介だ。だが、顕微鏡を覗き終わったリオは「ふぅ」と安堵のため息をついた。関節液の中に細菌はいなかったのだ。リオはもう一度関節液をガラス板に載せ、今度は薬品をかけずにカバーガラスを載せ、台座にセットする。そして、また光の呪文を唱える。
「ポラリゼーション」
光は心なしか色調が変わった。リオは再び顕微鏡を覗き込んだ。そして……
「ビンゴ!!」
リオは感嘆の声を発した。そして、老人に向き直る。
「あなたの病名がわかりましたよ!!」
「なんですって……私は何の病気なんです……」
「あなたの病名は……」
リオは安堵の笑みを浮かべながら、その名を口にした。
「偽痛風です」
「偽痛風?」
老人はその名を聞いたこともなかった。偽痛風とは、関節腔内に結晶化したピロリン酸カルシウムが出現し、関節に炎症を起こす疾患である。尿酸が結晶化しておこる痛風とよく似ているため、偽痛風という名前がついているが、原因物質が異なる。症状は罹患関節の疼痛、腫脹、熱感であり、病勢によっては全身の発熱がみられることもある。疾患の傾向としては、大きな関節、特に膝に好発し、高齢者に多く認められる。診断は、関節液を偏光顕微鏡という特殊な光源を用いた顕微鏡で観察し、ピロリン酸カルシウム結晶が見られれば確定となる。先程リオがかけた光の魔術は光の性質を変えることで、ただの光学顕微鏡を偏光顕微鏡と同じ能力を持たせたのだ。そうして観察した結果、結晶が見えたので偽痛風という診断に至ったわけだ。この世界には関節を穿刺する技術もなければ、顕微鏡もない。ゆえに、偽痛風はまだこの世界では確立していない疾患概念なのだ。
「平たく言えば、体内の余分な成分が関節の中に溜まって、熱と痛みを出しているといったところです。安心してください。治りやすい病気ですよ。さっきの液体を抜く処置だけでも、少しましになっていると思います。ゆっくり膝を動かしてみてください」
老人は遅る遅る右膝を曲げた。
「痛みはまだありますが、かなり楽になりました」
ずっと固かった老人の表情が緩んだ。
「それにしても、偽痛風にしてはだいぶ衰弱が強かったようです。ここ最近、水分や食事が十分に摂取できていなかったんじゃないですか?」
「おっしゃる通りです。王都まで行商に行って帰ってきてかなり疲れていたところに、右膝が痛くなって動けなくなって……なにぶん独り身なもので……水汲みも食事の用意もままならなくて」
「なるほど、やはりそうでしたか。ライナ! 水と食事の用意をしてあげて! 食事はできるだけ消化に良いものを!」
「へーい」
ライナは室内にあった水汲み用のバケツを持って、部屋を出ていった。
「水と食事が摂れたら、この薬を飲んでください」
リオは鞄の中から、折りたたんだ包み紙に入った粉薬を取り出した。薬は、柳の樹皮から抽出したサリチル酸だった。サリチル酸は、元の世界のロキソプロフェン等と同じ消炎鎮痛薬であり、その中でも最も原始的な薬である。古くは、古代ギリシャの文献にも登場し、一説にはネアンデルタール人が使用していたとも言われている。
「痛みと熱をとってくれる薬です。胃腸に負担のかかる薬なので、必ず食後に飲んでください。これを1日朝と夕の2回内服して、水分と食事をしっかりとれば、1週間もしないうちに良くなりますよ」
「本当ですか? ああ、何から何までありがとうございます」
「いえ、白魔術師として当然の役割を果たしただけです」
そう言いながら、リオは使った器材を片付け始めた。
「それにしても、王都の伝染病じゃなくて本当に良かった……一時は、このまま私の体は消えてしまうのかと、心底恐怖していました」
老人の不可思議な言葉にリオは手を止めた。
死ぬということを体が消えると比喩しているのか? いや、あまりにも不自然な表現だ。
「体が消えるというのは、どういう意味ですか?」
「ええ、王都で耳にした伝染病の話です。私もそれなりに長く生きてますので、疫病が流行った年は何度か経験がありますが、こんな話は初めて聞きました」
老人は身震いしながら、こう言った。
「あの病気で死んだ死体は……消えてなくなるんです……」
老人に水と食事を用意し薬を渡したあと、リオとライナは店を出た。店の前には伝染病を危惧している住民たちが待ち構えており、リオは伝染病ではないことを説明して住民たちを安心させた。それから宿に戻って支払いを済ませ、リオとライナは街を出て一路王都に向かった。道すがら、リオはライナに老人から聞いた話を伝えた。
「死体が……消える……」
ライナはその話を聞いて身震いした。
「そんなことありうるんスか?」
「ありえないわよ」
元の世界で、全身が壊死する病気、全身から出血する病気というものは極めて希少ではあるが存在した。だが、それがどんなに激しくても死体が消えるなどということはあり得ない。リオがこの十数年間調べてきた限り、この世界に存在する病気は、元の世界ですでに発見されているものばかりであった。だが、ここはやはり異世界であり、魔法など元の世界の理論で説明のつかない現象も起こり得ている世界である。元の世界の医学が通用しない病気が、とうとう現れたのかもしれない。リオはそんなことを考えつつも、武者震いしていた。
望むところよ!! 未知の病気も、迷信も、古臭い体制も、このわたしが全部まとめて治してやる!!
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