ご令嬢のお世話

中本則夫

第1話 決意

 結局よく眠れないまま、あきらめて早朝四時半にベッドを出たリネアは、目をこすりながら窓のそばまでフラフラと歩いた。空は白みかけている。


 寝ぐせのついた長い髪をなでつつ、窓の外をぼんやりと眺めて、またあの少年のことを想う。


 リネアと同じ十七歳の、エミルという少年。彼が庭師の一人としてこの屋敷に来たのは六ヶ月前のことだった。


 執事のヨアキムがエミルを新入りの庭師としてリネアに紹介した時、笑顔のやわらかい優しい顔立ちの少年だと好ましく思ったことは覚えている。同い年であることも単純に嬉しかった。ただその時は、それだけだった。


 エミルは、庭師と言いながらも、リネアが頼めば


「はい、お嬢さま」


 と快活な返事をして何でもやってくれた。


 鞄を馬車まで運んで欲しいと言えば運んでくれた。きれいな蝶を近くで観察したいと言えばそっと捕まえて見せてくれた。部屋の机を移動させたいと言えば部屋の中に恐縮しながら入って来て机を持ち上げて動かしてくれた。


 時々エミルが木陰で休憩している姿を見ることがある。いつもひざの上で本を開いていた。詩集や歴史書が好きで読んでいるという。聖書を開いて、じっと何かを思案していることもあった。


 月日が過ぎるうち、いつから庭師のエミルに特別な感情を持つようになったのか、その境目はリネア自身にもよくわからない。


 なぜエミルなのかは、なおさらわからない。何でもハイハイと言うことをきいてくれるからだろう、などと言えばリネアは激怒するだろう。ではエミルのどこにそんなに惹かれているのか、もし人に尋ねられたら、一応よく考えてはみるものの、


「全部」


としか答えられない。


 エミルは毎日来るわけではないが、エミルが庭に来ている日は、どんなことをしてでも口実を作って会いに行ってしまう。エミルが先輩庭師に指示されながらてきぱきと木々の手入れをしている様子を見ているだけで、幸福に胸が満たされる。会えない時間は、エミルのことばかり考えてしまい、家庭教師の講義を聞いても内容が頭に入って来ない。


 そんな日々の中で昨日、父、マクシミリアン・フォーゲル男爵がリネアに告げた。


「リネア。お前にもそろそろ結婚相手を探してあげようと、前から言って来たが、やっといい人が見つかったよ。今度の日曜日、私と母さんとお前と三人で、その人の屋敷に行くことになったからね。なに、正式なお見合いというより、まずはただの顔合わせだ。お前もこういうことは初めてだからな。そこは向こうもよくわかってくれている。ちょっとお茶をして、話すだけだ。いいね」


 父は、トルサ子爵の長男、クスティ・トルサを、リネアの花婿候補の一人として選んだ。


 もちろんリネアは、


「わかりました、お父様。今度の日曜日ですね」


 と、つつましやかに返答した。


 しかし内心では、突然全身に冷水を浴びせられ、何かが音を立てて崩れていくようなショックと喪失感を感じていた。


 結婚というものは、親が決めてくれた相手とするものであることは、常識としてリネアも心得ている。ただ、エミルが、自分の想う相手が、何の爵位も持たないただの庭師に過ぎないことの意味の大きさを、十七歳のリネアは、この時になって初めて理解した。


 それからリネアは、夜も一晩中、エミルのことを想い、自分がどうすべきか考えた。今までは、想っているだけで幸福だった。このささやかな幸福がずっと続くように錯覚していた。この幸福にはいつか終わりが来るのだということをわかっていなかった。


 窓の外、次第に明るくなっていく早朝の空を見つめながら、リネアは強く決意した。


 今日はエミルが南の庭園の木々の手入れをしに来る日だ。


 とにかく彼に想いを打ち明けよう。


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