5. 嫉妬

 その日から僕は、放課後になると、こうして屋上へ来るようになった。


 ミネコはいつも、フェンスを越えた先にある何かを見つめている。それが何なのか気になって、僕もその視線の先を目で追ってみるけれど、あるのはいつもと変わらないグランドと町並み、そして、相変わらず僕の目に不快な刺激を与えてくれる青い空だけだ。


 僕は、なんとかミネコをこちらへ振り向かせたくて、必死に話題を振った。


 天気の話や、学校で陽太から聞いた面白い話、高校の授業が急に難しくなったという話、僕の家族の話、≪リアライズ≫が毎朝仕入れてくるニュースの話……。


 でもミネコは、自分に興味のない話題にまるで無関心で、話を聞いているのかいないのか分からない。その目は、いつも遠くを見つめていた。相槌すらうってくれず、鼻歌をうたうこともあるので、もしかしたら本当に聞いていないのかもしれない。


 ≪リアライズ≫が黙ったままなので、ミネコが何を考えているのかわからない。


 こんなに相手の気持ちがわからないという経験は初めてだった。


 それに、ミネコは本当に色んなことを知っている。僕の知らないことをすらすらと口にする彼女を振り向かせたくて、僕は、そのゲームにのめり込んでいった。


 目に入った新しい情報をノートに片っ端から書き留めて、彼女が知らなそうなこと、興味を持ちそうなものを図書館で調べることもした。ノートの表紙に【ミネコノート】と書いて、真っ白なページを黒い文字で埋めていった。


 そんな僕をからかうように、ミネコは何の前触れもなく話題を振ってくる。だから僕は戸惑う。


 夢の話もそうだったけれど、他にも「人間は何故、二本の足で歩くことを選んだのか知っているか」とか、「フィンセント・ファン・ゴッホが没後に評価された理由を知っているか」などと言って僕を大いに困らせてくれた。


 かと思えば、「卵かけごはんとは、どんな味がするのだろう」と聞いてくることもあって、別の意味で僕は驚いた。ミネコは、卵かけごはんすら食べたことがないお嬢様なのだろうか。


 ミネコは自分自身のことを何も話してくれない。だから、彼女が何年何組なのか、どのへんに住んでいるのか、彼女の夢は何なのか……そもそも彼女の本名すら僕は知らない。


 それでも彼女の話す脈絡のないうんちく話を、いつの間にか僕は心待ちにするようになっていた。


 授業で教師の話を聞くのは眠くなるのに、青空の下でミネコから聞く話は、どれも新鮮で、僕の心を惹きつけてやまないのだ。


 それは、ミネコの容姿に要因があったのかもしれないけれど、とにかく僕は、ミネコと過ごす僅かな時間を毎日すごく楽しみにするようになっていた。


 ミネコと過ごす時間は、一度は生を諦めかけた僕が、明日を生きるための灯でもあった。



 ×〇×〇×



 その日僕は、屋上でミネコとの時間を過ごした後で、教室へ戻った。帰ろうとしたところで、明日の課題を忘れて来てしまったことに気付いたからだ。


 校舎内は、部活動の時間も終わったようで、しんと静まり返っている。


 もう教室には誰もいないだろうと思って扉に手をかけた僕の視界に、陽太と小野田さんの姿が映った。僕の手がぴたりと止まる。


 扉の小窓から見える二人は、楽しそうに笑い合っていた。


 何を話しているのだろう。


 心なしか、小野田さんの目が赤い。


 扉越しなので、声がくぐもっていて、はっきりと何を喋っているのかは分からない。


 ただ、目元をぬぐいながら笑みを見せる小野田さんを、陽太が何か言って笑わせているのだとわかった。


「なにを話しているの?」


 ……と言って、僕も教室へ入っていけばいい。そう思うのに、僕の身体は、金縛りにあったように動かない。じわり、と背中を妙な悪寒が走った。


 他には誰もいない教室に二人きり。いつの間に二人は仲良くなったのか。そこには、陽太と小野田さんだけの、僕の知らない空気が流れているような気がした。


 結局、僕は教室に入ることができなくて、そのまま家へ帰った。


 明日の課題のことなんて、すっかり頭から消えてしまっていた。




「それは嫉妬か」


「しっ、嫉妬?!」


 次の日の放課後、僕が屋上でミネコに昨日あったことを話すと、ミネコは腕組みをしながら言った。


「歩夢の友人二人が自分の知らぬところで仲を深めていた。まるで自分が仲間外れにされたかのように感じたのだろう」


 僕の気持ちを代弁するかのように、ミネコが胸を張って言う。


「疎外感……」


 自分で口にしてみれば、しっくりくる。確かにその言葉は、今も僕の中にある形容しがたい感情をうまく言い表していた。そうか、僕は二人を見て、疎外感を覚えたのだ。


「歩夢は、陽太に恋愛感情をいだいているのか?」


 ミネコが小首を傾げる。さらりと長い黒髪が、彼女の鎖骨を撫でた。


「え……ぇえーっ?! 普通、逆じゃないの? 違うよ、僕は小野田さんのことが……」


 言いかけて、僕は言葉に詰まった。少し前まで小野田さんから好意を向けられて、嬉しく思っていたし、どきどきもしていた。


 でも、僕は小野田さんを「好き」と言えるほど彼女のことを知っているのだろうか。


 それよりも今は、小野田さんのことよりもミネコの方へ気持ちが傾いている。


 ミネコのことは何一つ知らないけれど、そのミステリアスな部分が僕を惹きつけているのかもしれない。


 でも…………ミネコは、僕のことをどう思っているのだろう。


「恋せよ、少年。人生は、短い。瞬きをするだけで時は失われていくぞ。今という青春は二度とこない。大いに楽しむがいい」


 何でも知っている、と言うミネコは、僕のミネコへの気持ちすら知っているのだろうか。



 ×〇×〇×



 次の日、僕のもやもやした気持ちを吹き飛ばす出来事が起きた。


 放課後いつものように屋上へ向かおうとした僕は、陽太に話があると言って引き留められたのだ。


 教室では話せない陽太が言うので、僕らは、校舎裏へ向かった。そこは、誰が見るのか分からない花壇にパンジーが咲いている。


 周りに誰もいないことを確認して、陽太が僕を振り返った。


「お前……小野田のこと、どういうつもりなんだ」


「どういうって……えっと、なんのこと?」


「とぼけるなよ。好きなんだろう。それなのに、いつも放課後になるとさっさとどこかへ行っちまうし、帰ったのかと思えば下駄箱に靴がある。小野田がずっとどんな気持ちでお前を教室で待っていたと思う?」


 僕の脳裏に、教室で見た二人の様子が浮かぶ。そうか、あれは小野田さんが僕を待っている間、陽太が彼女を励ましているところだったのだ。


「休憩中だって、いつも何かのノートに書き込んでて、俺が話しかけても上の空だし……」


 【ミネコノート】のことだ。僕は、自分が見られていたことを知って、顔が熱くなった。


「お前らが好き合ってるって思っていたから俺は…………」


――彼は、怒っています。謝罪しましょう。


 ≪リアライズ≫が正しいと判断した解を教えてくれる。


 でも、本当に?


 謝るということは、僕が悪かったと認めることだ。


 小野田さんには申し訳ない気がするけれど、僕は彼女と何か約束をしていたわけでも、彼女と付き合っていたわけでもない。小野田さんが勝手に僕を待っていただけだ。


 それに、小野田さんことで陽太に牽制をかけた覚えもない。そもそも陽太が小野田さんに対して特別な感情を抱いていたことを僕は今初めて知ったのだから。


「そ、そんなの……僕は頼んでないっ」


 思わず僕の口から突いて出た言葉に、陽太の目を大きく開く。でもすぐに目を細めて、僕を睨み付けた。


「……そうかよ。お前にその気がないなら、俺があいつをもらうからな」


「好きにすればいい」


 僕らは、その日から口をきかなくなった。

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