第10話


『さき』


『………、』



あぁ、

恋、だ。



『…れん、』


『なあに、佐紀』



恋の顔はよく見えなかった。でも、言葉とは裏腹にその声は震えていて、泣いている気がした。


恋。ごめん。ごめん…。こんな薄っぺらな言葉しか出てこない。恋を癒すことも、本心を伝えることも出来ない。私の想いに、色がついて、ぬいぐるみみたいに形に表現出来たらいいのに。傷つけたって分かってる。熱に浮かされていたって、あの時の恋の表情も、指先一つだって忘れてないんだよ。

付き合ったって、本当なの?なのに、どうして彩夏は心配してるの?なんで、ひとりにできないくらいになってるの?


聞きたいことが、出ていかない。君の唇に出口を塞がれて、何も伝えられない。



『…っ、んぅ……、!』


『……ふ、ぁ……。…さき、』


『……、れ、ん……』




むせ返るほどの、甘い香り。実際に香りはしないけれど甘く妖艶な香りが占める。惑わされてしまいそうだった。それが何に対してなのかも分からないくらいに。



『っ、れん、!』


『…ふふ、好き…一番好きだよ』


『ーーーっ!』



必死に出口を取り戻すけれど、恋の甘い声と、触れてくる指先に体が過剰な程に反応する。言わなきゃならないことがあるのに、恋のすべてで阻止される。



『、っんぁ!』


『………かわいい、』



恋。君は、分かってるんでしょう?

私が何を言いたいのか。なのに、こんな深いキスで塞いで私に何一つとして消化するのを許してくれない。


だから、そんなもの――ぶち壊してやる。




◇◇◇◇◇



「――ッ!!!」



世界が急に開ける。甘い香りは微塵も感じられなくて、荒れる呼吸が耳について鬱陶しかった。



「…、はぁ…、は、……、なに、いまの、」



恋に会った。夢の中だから『会った』という表現も正しくないのかもしれない。きっと、恋のことばかり考えていたから、夢にまで現れてしまったのかもしれない。けど、それにしたって今までの夢とは違う。いつもは、甘く妖艶な香りに呑まれて欲が抑えきれずに私が恋をを襲っていたのに。なのに、今回は。恋が、私を襲っていた。はちみつみたいに濃厚で、どろどろだった。

唇は、濃厚なキスで埋められて

思考は、優しい愛撫で染められる。

体は撫であげられるように拘束された。



何も言えない。

交わせない。


それは、私のことなんて受け入れられないとでも言うかのよう。



「……」



ぞくり、と体が疼いて嫌気が差す。夢から覚めても尚、恋に埋め尽くされている…。

汗ばんだ体にシャツが引っ付いて気持ちが悪い。胸元のシャツを掴んでパタパタと動かす。ヒヤリとした感覚に少しだけ気持ち悪さが軽減した気がして息をついた。そして、



「エロい夢でも見たの?」



突如すぐ近くから響いた声に、全身がしびれて跳ね上がった。



「っ!!!」


「いだぁ!!」



反射的に振り上げた腕が、何かにあたる。それは、奏の頭だった。その衝撃に布団へ突っ伏する背中を見て、昨日のことを思い出した。



「…あ、ごめん」


「いったー。ちょっと、それが昨日一緒に寝てあげた人への反応ですか」


「……ごめんって」



頭を押さえながら不貞腐れるように見上げてくる奏に、手を合わせて謝った。

…昨日。奏に問われて、すぐに答えは出なかった。答えられない私を、奏は責めることはなくて、自宅に帰り、配達で食事を食べた。風呂に入りベッドに入った。奏は軽くふざけながら私の布団に入って来て、特に詰める感じではなかったから、元気づけてくれたんだと思った。

そして、あの夢。そして――



「…なんか、頭、すっきりしたかも」


「え?」


「夢に、恋がいたんだ」


「…」



バカみたいな私の発言に、奏は肘をついて寝ころんだまま、真面目な顔で続きを待っていた。

なんで聞いてくれるのか不思議だったけど、私にはありがたかった。言葉にして口に出すことが、頭の整理になるって聞いたことがある。



「あんなことして調子がいいと思う。けど、いろんな事考えて、悩んで、ぐずぐずになって。あんな夢見て。でも、夢なのに空想には思えなくて。こんな、頭の中ぐちゃぐちゃ。なのにすっきりしてるんだ。もう、考えてるくらいなら、ちゃんと謝って、気持ち伝えようと思った」


「…これまた、急な方向転換だね」


「頭おかしいよね」


「まあ、私はいいと思うけど」



私の言葉に、奏は笑った。



「正直、そのくらい馬鹿みたいに動かないと恋には届かないんじゃないかな。佐紀は、そんなこと言ってめんどくさいこと考えちゃうだろうし」


「…うん」



私はスマホから恋を探してコールする。けれど、コール音が恋の声に切り変わることは無かった。予想通りだったけれど、もし電話が繋がったらと心臓は動悸を大きくしていた。自分から連絡したくせに指先がしびれるくらい緊張した。前を向いたからって不安がなくなったわけじゃない。現実は、怖がっていたそれと変わらなかった。



「…………、」



無意識に呼吸を止めていたみたいで、電話を切ると一気に息が出て行った。もっと早く追っていたら、恋に繋げられたのだろうか。もっと強く恋を求めていたら、離れることはなかったかもしれない。



「で、なにからする?」



奏の声に、気を取り直して顔を上げる。たらればなんて、今はいらない。彩夏の反応もあって心配だけれど、別に危ないことをしてるわけじゃない。

私はあの日以来会えていない恋の姿を見て安心がしたい。泣いていたのが最後だったから。そしてちゃんと謝って、気持ちを伝えたいんだ。

これは、ただの自己満足。だけど、もう一度、恋の笑顔が見たい。



「大学に行く。来てるかもしれないし。今日もいなかったら、私から彩夏に連絡する」



奏とともに出かける準備をする。着替えて、鞄を背負いアパートを出た。天気は良く、自分の気分とは似ているようでかけ離れている感じもした。



「奏」


「なに?」


「…恋のこと、奏はどう思う?」


「安心しなよ、恋を恋愛対象として見てないから」


「そ、そうじゃなくて」



顔が赤くなる私を茶化すように笑う。



「私は、あの日のことを謝りたくて、あと、許されるならちゃんと想いを伝えたいって思ってる。だから会いたいし、話がしたい」



でも、奏は?今だって当然のように私についてきてくれている。立ち止まってうずくまる私の背を叩いて立ち上がらせてくれる。奏にも何か思いがなければそんなことしない。



「…まあ、大学生にもなって友人が誰かと付き合ったとか、付き合う相手のことに口出しなんてするもんじゃないし、そもそも私が大事な友人だと思ってるのは佐紀の方なんだけどさ。けど、そうだな…」



何気に照れるようなことを言われた。けど、奏は特に気にも留めていないように、真顔のまま恋に思いを傾けていた。



「私の相方がさ」


「え?」


「彼女」


「あ、うん」



びっくりした。ちょっとがっかりしたこの気持ちはなんだろ。持ち上げて落とされた気がする。そうだよね、奏には彼女いるんだった。こんなに近くにいるから忘れてた。



「それが、恋の知り合いなんだよね。だから気にかけてる部分もあるっていうか…。まあ、恋に佐紀の看病を頼んだのも私だし、次の日に会いに行ったけどまあ、変な顔してたし。少しは責任感じるっていうの?こんなこじれるなんて夢にも思わなかったけどね」


「……え、と。どこから突っ込むべきか…」



情報量が多い。彼女さんが恋の知り合いで。あの日、奏は恋に会っていて。

でも、何を聞いていいのか、そもそもその問いは必要なのか、混乱する。聞きたい思いだけの踏み込みは、ただの野次馬だ。



「まま。私がどう思ってるかなんて、どうでもいいことだよ。佐紀が、恋をどう思うかの方が重要。私はその思いが成就するにせよ打ち砕かれるにせよ、ちゃんと向き合って終わるべきだと思うだけ」


「…うん。ねえ、奏が恋に会ったときってなにか言ってた?」


「いや。分厚い壁で拒絶されただけ。へんなことしない様にとは言ったけど、大した返事じゃなかった。それ以上踏み込めなかったよ」



奏は眉間にしわを寄せる。なにか不快感の様で、でもその時をただただ後悔しているようにも見えた。彩夏も、奏も。なにをそんなに不安がるんだろう。恋は、ただ。好きな人と付き合ったんじゃないのだろうか。



「ま。まずは本人に会って聞く。誰の話だって、その人の主観でしかないんだし」


「うん」



そんな話をしていたら大学に着いた。校門をくぐる前から恋の姿を探したけれど、結局、この日大学に恋の姿はなかった。一日の講義終了後に、思い当たる場所を探し回ったけれど、恋とは会えなかった。

スマホには、何回目かの通話終了の文字が並ぶ。終了どころか、始まってもいないと、心の中で悪態づいた。

彩夏に連絡すると今日は夜勤で、恋もそれを知っているから帰ってこないだろうと返事があった。翌日になり、今日こそ大学で姿がなければ彩夏の家で待つと心に決める。着替えをしているとドアがノックされた。



「なにー?」


「いまちょっといい?」


「あ、ちょっと待って。そっち行くよ」



着替えを済ませて、部屋を出る。リビングには奏が気まずそうに立っていた。



「どうしたの?」


「…美希が会いたがっててさ、悪いんだけど一緒に来てほしいんだ」


「え?美希って、彼女さんだよね。今から?」


「そう。恋の話…つい話しちゃって。どうしても話がしたいって。…ごめん」


「いやそれはいいけど…」



大学に、恋が来るかもしれないのに。そう思ったけれど、あまりに奏が申し訳なさそうで。大学に恋が来るとも限らない以上、恋の知り合いだっていう美希さんに会うのも情報が得られるかもしれない。待ち伏せみたいなことをしなくて済むかもしれない。



「分かった」


「…ほんとごめん」



奏が落ち込んだように頭を抱えたから、意味も分からないまま背を撫でた。

何をそんなに。もしかしたら大学に行くより恋に近づけるかもしれないし。美希さんに会うのは初めてだけど、取って食われるわけじゃない…よね?


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