第9話
夢って不思議だと思う。現実には絶対なりえないのに、いつもどこかでちらちらと現実に映り込んでくる。何度も見る夢には、現実との境目が分からなくなる。
頭では分かってるのに、きっと夢に侵食されてしまうんだ。
『れん』
「…、だれ」
『れん、すきだよ。だってこんなにも、あなたに触れたいの』
「……うん、私も」
少し低い声。女の人としては大きい手。
言葉にして表現すればあの子と同じ、なのに全然違う。女の人は美味しいけど、あの子とはやっぱり全然違う。
…貴女に手を伸ばすことは出来ないと分かっているけど、あの夢で触れた貴女を、現実で抱きしめて触れた貴女を忘れることなんて出来なくて。でも、悲しいくらいに薄れていってしまう。他の全てに埋もれていってしまう。
それだけで。その度に。自分のキレイな部分がどんどん消えていく気がする。いっその事、ぜんぶ消えてしまったなら、私はサキュバスとして、貴女に会いに行けるのかな。
だとしたら、それもいいかもしれない。
この貴女に似つかないこの手に、
この先、そんな未来があるのなら――
――――!!
◇◇◇◇◇◇◇◇
「まだ恋にも会ってないんだから、そんなにすぐ終わらせなくていいんじゃない」
先輩が離れてから、奏は私を連れて大学ラウンジへと移動した。いつまでも廊下で話していても次の講義の邪魔だったり、講師の目について邪魔をされるかもしれない。席に着く前に互いにコーヒーを買って席に着いた。
「…奏は何を言いたいの?こんな回りくどいことしなくても、恋が誰かと付き合うなんて教えてくれたらよかったのに」
「そしたら、罪悪感なんて感じなかったって?悩むこともなかったってこと?」
「そんなんじゃない。けど、こんな形で知りたくなかった…ていうか」
「恋に連絡も出来なかったくせによく言うよ。あんな状態でどうやって知れたらよかったわけ?私から聞いたって、恋以外なら他人から聞いたことに変わりないでしょ。八つ当たりしないでよ」
奏の少し苛立ったような口ぶりに、怒られている気がして心臓が冷たくなる感じがした。体を力ませるだけの私に、奏は小さくため息をついた。
「佐紀を擁護する気はないよ。恋と向き合う覚悟も出来てないくせに、泣かせるようなことして守れるわけない。私が佐紀しか触れちゃいけないって言ったのは、佐紀がちゃんと恋を好きで手を伸ばしたからだって思ってたから」
それはやはり怒っているようで。それでも、その言葉で気づかされる。焦りも怒りも、今の感情すべてが今までの行動と反していて自分勝手なことだった。
悲しいなら、恋に連絡して言葉にすればいい。後悔するなら、恋を追えばいい。何もしていない逃げてるやつに、何も言えることは無いんだ。
指先一つ動かせば、恋に繋がると分かっていたのにそれをしなかった。手に握ったそれは、ただ一つの役割を果たさずに未だ画面は暗く何も映さない。
「………、恋に会わなきゃいけないって…分かってる」
「…」
何もしない。しようとしない。そんな自分が大嫌いで、なのに、感情だけがどうにかしろと叫んでいる。
「…ちゃんと言葉にして、そんな熱のせいなんかじゃない、でもあんなことになってごめんって言わなきゃいけない…」
「…だから、連絡しなよ」
「……っ、」
分かってるんだ。こんなの自分可愛さに背を丸めているだけの、臆病者だって。そのせいで、恋に向き合えていないって。
「佐紀。私は佐紀の代わりに動くことなんて出来ないし、佐紀の代わりに恋を守ってやることも出来ないんだよ」
「……、守るって…?」
「恋のこと、好きなんじゃないの」
些細な疑問は、奏の強い問いにかき消される。
――『好き』。それはきっと、なんの間違いもない言葉だと思う。
ひとりで考え込んで溜め込んで、身動き取れなくなって、もう二度と会えなくなってもいいの。もっと後悔することが起きてるかも知れない。
奏の言葉の端々から感じられる可能性が、不安を掻き立てていく。
付き合ってるって、恋の想いが実ったんじゃないの。好きな人と一緒になれたんじゃないの?なんでそんな言い回しするんだよ。恋に会って、笑顔を見て、本人の口から幸せだって聞かなきゃ安心できないじゃないか。
でも、だからって。ただの友だちにできることなんてあるのだろうか。
一方的な好意も、現実に侵食してくるほどの夢も、そんなものは、自分自身の中のものでしかないのに。
「……、」
「いつまでもぐちぐち考えてないで追いかけなよ」
「……私は…」
手を伸ばそうと、足を踏み出そうとするたびに、やだって言われた、あの光景が。ボヤけた記憶の中で強く、明確に蘇る。恋が、拒絶するほどのことをした。
そうだった。悩む以前に、そんなことをした私に何かをする資格なんてあるのか?
「……………」
無言が続く。無意識に逃げる口実と正当化への理由を探す。やりたいことから、苦しいことから逃げる理由も口実も、探せばそこら中に転がっている。そうやって、くだらない隙だらけの鎧を心に纏って気付かないふりをしていくんだ。自分を守るために、大事なものにさえ目もくれずに。そうして、それが正解だったと納得させて生きていく。
それは、必死に懸命に舎利選択をして選んだ答えを傷だらけになりながらこれで良かったと言い聞かせて生きるのとは全く違う。
「ねえ、ばかなの?」
「う、」
奏は、本当に私の心が読めるんじゃないだろうか。そう思うくらいに、その一言は私を一蹴する。
「根本が間違ってるんだよ。その思考回路捨ててもらっていい?永遠にたどり着きそうもないから言うけどさ、付き合ってなくて、しかも風邪で浮かされてるようなそんな状態の、やさしー真面目な佐紀に、恋はやな思いさせたくなかったんだろ」
「…は、?」
「絶対後悔するでしょ。しかも今よりもっと」
―これは夢じゃないから、後悔する
奏の言葉に、掠れた記憶がハッキリと浮かび上がる。
……私はそれに、なんて答えたのだろう。でもきっと、急に浮上してきた恋の言葉は、奏の言う通りな気がした。
「………だから?」
「………」
だから、やだって言ったの…?私が自分を責めてしまうから?
だから、恋はここにいないの?
「……っ、」
「佐紀、」
――♪
何かを言いかけたそのとき、奏の手元にあったスマホが鳴る。画面を確認して、迷うことなく通話を繋げた。
「はーい」
『奏?ちょっと、あの二人どうなってんの』
「あのふたり?」
『恋と佐紀!』
「あー、あぁ…えーと、」
奏のスマホから声が漏れて、通話の相手が彩夏だと分かる。奏は辺りを見回して、人の位置を確認すると、音量を調節して通話をスピーカーに切り替えた。
『佐紀まだなよってんの?あのへたれ!』
「あはは、」
「……、」
『高校のときはそんな印象なかったのに』
「……まぁ、好きな相手には…ってやつじゃない?」
『………はぁあ。ねえ、恋さ、うちに泊まってもらってるんだよ。なんか一人にするの怖くて。佐紀の根性入ったら連絡して。この間佐紀の連絡先聞き忘れちゃったからさ』
「…恋は?そこにいるの?」
『恋なら出かけるって言ってた。私も外だし、どこ行ったかまでは知らないけど』
私はいつの間にか両手を握りしめていた。それに気づいたころには、指先が白くて冷たかった。彩夏の言う「一人にしておくのが怖い」のは、どういうことなんだろう。好きな人と付き合ったんじゃないのだろうか。それとも、私のせいで何か思いつめているんだろうか。
『佐紀はなにしてんの?風邪治ってるんでしょ?』
「なんとかね。でも気持ちのダメージの方が大きいかな」
『ちゃんと話しなって言ったのに、出来てないみたいだし』
「…私からも言っておくよ」
奏が通話をスピーカーにしてくれている意図が感じられないわけじゃなかったけれど、言葉を発することができなかった。彩夏は、自分の想いだけで相手を傷つけるようなことはしない。人を想って、気持ちを察して行動する。それを自然にできる人。だからきっと、恋はそこにいられる。助けを求められる。彩夏の言葉が刺さる。恋にそれだけの何かが起きている。私が気を失ったように寝てる間に、彩夏と恋はどんな会話をしたんだろう。今の恋は、彩夏から見て心配しかないのは、なぜなんだろう。
付き合ったっていうのは、本当はただの噂だったりするんだろうか。そんな、人の不幸を願うみたいな最低なやつ。
「彩夏、恋何時頃帰ってくんの」
『いつも夜中だよ、大学行ってないの?』
「少なくとも見てない。今は、来れるような状況でもないのかもしれない」
『……恋、大学行けてるんだと思ってた』
「…心配かけたくないんだよ。でも、一人になってないなら良かった。彩夏のおかげだよ」
「………、」
『大学に顔出したら声かけてやってよね。佐紀にも、よろしく言っておいて。しっかりしなよって』
「ああ。言っとく」
奏がスマホの画面を閉じる。テーブルに伏せて置くと、私を見た。
「どうする?佐紀」
「……」
奏の聞いていることが、方法じゃないことくらい分かった。恋と、どうするんだ。これから先。どうしていくんだ。今までのように、逃げるのか。それとも………。
…君に届いて欲しい言葉が、いつも君にだけ届かないんだ。
息を切らせて、必死に走って、声が裏返ることなど構わずに声を張り上げても、君は背を向けたままで。
もう二度と、君に会えなくなる。
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