06 マイファースト保健室・桐埼さん
「お注射しましょうか」
「どうして……!?」
転校三日目、
二段ベッドから転落して、床に頭を打って気を失ってしまったらしい。
保健委員のふたりに両脇から抱えられる格好で運ばれているさなか、エナガは意識を取り戻した。血も出ていないし大丈夫だろうとエナガは思っていたが、いちおう頭を打っているのだし、と保健室に連行されたのである。
保健室――そう聞くと、校舎の片隅にある一室を想像したエナガだが、実物はだいぶ違っていた。
校舎の片隅にあるのは確かだが、校舎と繋がってはいるものの、ほとんどひとつの建物として独立していた。
二階建てだし、診察室、検査室、病室等々、内部も区分けされていて、校舎外からも出入りできるようになっている。地方の小さな個人病院といっても差し支えない規模だった。
その場所を預かるのは、白いマスクに白衣姿、長く伸ばした黒髪をひとつに束ねた……一見すると清潔感のあるきれいな大人の女性、だった。
しかしいざ面と向かって診察されてみると、
「この程度の怪我なら、ツバでもつければ治るでしょう」
瞳には陰が差し、目の下にはクマが浮かび、表情は死んでいる。
「じゃあ、後ろを向いて」
「あ、は――、」
「舐めてあげるから」
「はい!?」
「冗談よ。フフ」
……コワい。
なるべく怪我をしないようにしよう、保健室に面倒をかけないようにしよう――そう思わせることで事故防止を狙っているのだとしたら、まさに効果は抜群だ。
「大丈夫そうなら、」
と、少し離れた位置に立ち、こちらを眺めていた少女が口を開く。
「私、戻りますから」
頭の包帯は外れていたが、腕はギプスと三角巾で固定されたまま。むしろエナガより診察されるべき格好の彼女は、エナガを寮から運んできた保健委員のひとり、桐埼カアヤだ。
「ええ、どうぞ。ご苦労様」
養護教諭がそう言うと、桐埼カアヤはそそくさと保健室を出ていった。
声をかけようとしたエナガは、結局何も言えないままに開きかけた口を閉じ、唇をかむ。
「あのう……」
それから、エナガは養護教諭に向き直った。白衣の胸元には社員証のようなものが下がっている。
「さっきの……その、桐埼さん、なんですけども」
「ええ。……そういえば、貴女も"桐埼さん"だったわね。同じ"施設"の出身、だったかしら。前にもいたわ、別の桐埼さん」
「あ、はい……」
前にもいたんだ……。複雑になる表現である。
ともあれ、エナガは思い切って訊ねた。
「あの――カアヤさんが"記憶喪失"っていうのは、本当なんですか?」
エナガと
この「コーセン」も一緒に受験したが、受かったのはカアヤだけだった。
そのこと自体はエナガも特にどうとも思っていない。なんだかんだ、当のエナガもこの学園に入ることになったのだから。
しかし、学園で再会したカアヤはまるで別人だった。
そっけない態度。久々に顔を合わせたエナガと目も合わせない。声をかけても、反応が薄い。どころか、むしろ少し迷惑そうだった。
あぁカアヤは大人の階段をのぼっちゃったんだ――
田舎くさいし貧乏くさいエナガとは関わりたくもないのだ――
……というかわたし、いじめられてる? いじめられてるから関わりたくないの?
「うぬ、"アレ"と知り合いかの?」
「そのヒト、記憶喪失なんすよ」
「いわゆる記憶喪失なんデスね。ワタシたちのこともきれいさっぱり忘れてマス。とはいえ、そもそも短い付き合いデスけど!」
――にわかには信じられなかったが、
「ええ。よくあるのよね。難しかったり厳しかったりする授業に、寮や学園生活での人間関係に疲れて、という子」
「?」
「彼女、飛び降りたのよ」
「!?」
「あぁ、いえ――突き落とされたのかも?」
フフ、と意味深に笑う。今のは絶対笑うタイミングじゃなかった。
「ともあれ、頭にケガをしたのね。そうして、自分がどこの誰で、ここがどこなのかも忘れてしまった。"いわゆる記憶喪失"という状態なのは確かだわ」
そっけない態度の真相もそうだが、再会した幼馴染みがあんなにも重傷だったことにも合点がいった。
「
保健室から出ると、トワシマ・カザキこと"ハナちゃん"が待っていた。
エナガをここまで連れてきた保健委員のもうひとりである。
彼女はなぜかマスク越しに鼻をつまんでいて、片手にエナガの上履きの靴を持っていた。エナガを見ると、上履きを床に放った。
エナガが出たのは、高等部の校舎の廊下だった。部屋から直行だったエナガは素足のままだ。ハナちゃんは校舎の玄関から靴を持ってきてくれたのだろう。
親切だし、お礼を言うべきところなのだけど、靴を前にあからさまに鼻をつままれているのは、なんというかこう、素直に喜べる状況ではない。
「ん? いや、ですね……この
そう言って数歩、彼女は保健室のドアから後ずさった。
「なんですか、ここ。初めて来ましたけど、生物兵器でもつくってるんですかね」
……そこまで?
中にいたエナガはあまり感じなかったが、しかし言われてみれば、保健室の中と外は少し空気というか、雰囲気が違った。確かに、ドアを開けていると薬品臭さが漂う。
慌ててドアを閉めてから、いちおうお礼を言っておく。靴を履こうと身を屈めて、それから顔を上げると、
「わ」
ハナちゃんの顔が近くにあって、思わず仰け反る。
「ん――」
彼女の手が、白い指先が、エナガの眼帯に伸びる。
(っ?)
エナガが感じたのは、乾いた冷気。
彼女の指は、とても冷たい。
エナガはとっさに身を引いた。
(なっ、なんでみんなわたしの
両手で眼帯を庇う。顔が熱くなっていた。
「どうしたんですかー? 照れちゃって。もうじゅうぶん恥ずかしいのに」
「は、はは恥ずかしい……!?」
「そりゃあ、もう。……ま、でも、あの"ロリババア"よりはマシ、ですかね?」
「ろ……、」
ガイコク語? 何かは分からないが、トゲのある言葉に聞こえる。誰のことだろう。
「んー? なんでも?」
笑顔で誤魔化してくる。
「ま、なんともないなら、教室へ行きましょうか。ホームルーム始まってますよ、たぶん」
「あ、うん――あ、待って。鞄とってこないと――あ、待ってなくてもいいよ!」
「どっちですか。まあ、先に行ってますね。ちゃんとひとりで登校するんですよ?」
くすくす笑って、ハナちゃんは去っていこうとして、
「んー? 頭隠してなんとやら、というやつですかねー?」
何かと思えば、廊下の向こう――黒い楽器ケースが、一瞬だけ。
(……
なんだろう。もうとっくに教室へ行ったものだと思っていたのに。
まさか、心配してくれた、とか――
(ないかー。うん、ないない)
気を取り直して、エナガは寮に戻ることにした。
校舎の玄関まで来て、外履きの靴がないことに気付く。
(……いじめ!?)
違う。靴は寮に置かれたままだ。
今履いているのは、ハナちゃんが持ってきてくれた屋内用の上履き。ちなみに、この学園への転入祝いに買ってもらった新品だ。なので臭くはないし、大して汚れてもいない。
「…………」
どうせ、裸足で来たのだ。
エナガは決意した。
紆余曲折あって、エナガは遅れて教室に辿り着いた。
手には鞄、肩からはクマのぬいぐるみを模した特大ポシェット、足には新品の上履き。
顔も洗って寝癖も直して、どうせ遅刻してるのだからと開き直って朝の支度を整えてきた。
距離の近い人がいるため、念のため眼帯には消臭剤をかけてきたが、そのにおいがエナガの鼻について困る。
ともあれ、準備は万端。本日は転校三日目だが、今からでもまだ"デビュー"は間に合うはずだ。三度目の正直ともいうし。
……とはいえさすがに遅刻しておいて前のドアから堂々と入る度胸はないため、後ろのドアからこっそり、教室に入ろうとした。
廊下は静かで、今がホームルームか授業中なのは分かっていた。
そういえばあのコワい
しかし。
(あ、あれー……? 間違えたかな?)
一歩、廊下に戻り、教室の番号を確認する。
1年A組。間違いない。エナガのクラスだ。
なのに。
「どうしましたか――桐埼さん。事情は聞いていますから、早く席に着いてください」
眼鏡をつけた細身の女性教師がそう言った。
声に硬さはあるが、それは生真面目な印象で、決して責めたり嫌味っぽかったりする響きではない。
エナガの知らない先生だった。
そして、
「あ、あの……そこ、わたしの席……」
右から三列目、前から三番目の席。
そこに、知らない顔が座っている。
ついでに言うなら昨日は空席だった十六番目の席にも人がいたりして――全ての席が埋まっている。
エナガの入る余地はなかった。
(あっれー……?)
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