第26話
翌日、予定通り馬車に乗ってフィゲンズに向かった。エドガーは昨日のことには触れず、レインリットの隣に座って手を握っている。力のことについては、とても言い出せる雰囲気ではなかった。
そうして小一時間くらい進んだところで、エドガーの方からやっと話題を振ってきた。
「フィゲンズの教会の教導師様はどんな人だい?」
「ディーケン教導師様は、三年前に来られたお若い方です。父の葬儀の時にもお会いしたはずなのですが……」
フィゲンズの教会は、ウェルシュ子爵との婚儀を執り行うはずだった教会である。仕方なくそのことを告げると、エドガーは呆れたように呟いた。
「子爵領の教会ではなく近場で済ませようとは……いや、結婚しなくて済んだのは幸いだが、ウェルシュ子爵とやらも大概な男だな」
「愛人がたくさんおられたそうです。爵位をウィリアム・キーブルに譲渡するとして、私との結婚の利点などあるのでしょうか」
レインリットは本気でそう思っていた。隣のエドガーや、向かい側のエファが微妙な顔になったが、本人はどこ吹く風だ。
「レインリット、君は自分の価値をもう一度見直すべきだよ」
「伯爵様、私もそう思います。むしろお嬢様は今すぐにでもご自分の価値を見直さねばなりません」
二人が話している時はなるべく邪魔をしないように口を閉ざしているエファが、饒舌になって会話に参加してくる。珍しいこともあるものだ、とレインリットはのんきに考え、見えてきた教会の屋根を指差した。
「エドガー様、あそこがフィゲンズ・グイ教会です。私たちの旅は、ここから始まりました」
フィゲンズの町がよく見える高台にあるその教会は、変わらずにレインリットを迎えてくれる。しかし、決死の覚悟で逃げ出したあの時とは、レインリットを取り巻く状況は激変した。
――ようやく、ここまでやってきたのね。
白ばむまで力を込めて握りしめていた手の上に、隣からエファが手を添えてくる。そして、エドガーもその上に手を乗せてきた。
「大丈夫だ、私もいる」
その言葉に胸が一杯になったレインリットは、静かに頷いた。
◇
フィゲンズ・グイ教会は、建立から五百年以上経っているという古リングール文化を色濃く残した石造りの建物だった。エファと従僕たちを馬車に待機させ、エドガーとレインリットだけで中に入る。そしてエドガーは、まず天井から差し込む光に目を奪われた。
「中は随分と広いのだな」
「はい、音がよく響くように造られていて、別名『光と音の教会』と呼ばれているのです」
敬虔な信徒たちが熱心に祈りを捧げており、エドガーは邪魔をしないように囁き声で話す。
「教導師様はあちらの部屋か」
正面に向かって右奥に扉がある。しかしレインリットは左奥の隅を指し示した。よくよく見ると、石壁の段差の一部から薄っすらと光が漏れている。
「あそこの階段から礼拝堂の裏に回って二階にあがるのです」
「なるほど、一見したらわからないようになっているんだな」
半螺旋状になった石の階段を昇ると、レインリットが説明したように裏手の居住部があった。窓から外を覗けば、小さな香草園や畑がある。世話役の者たちがせっせと農作業をしている姿も見えた。レインリットはある扉の前に立つと、エドガーを見上げる。
「ここにおられると思います」
「わかった。ディーケン教導師おられますか?」
すると直ぐに中から応える声がした。
「懺悔ですか、少しお待ちなさい」
「いえ、懺悔ではなく、後見人名簿を見せていただきたいのです」
エドガーの言葉に扉が開き、中から予想より随分と若い男が出てきた。素性がバレないようにヴェールを被っていたレインリットが、エドガーの手をギュッと握る。どうやら彼がディーケン教導師で間違いないようだ。
「後見人名簿を、ですか」
「はい、私はエドガー・ハーティと言います。実は私は後見人を指定されているのですが、何やら手違いがあったようでして」
「なんと! わかりました、どうぞこちらへ」
人のよさそうな顔をした教導師が、突き当たりにある部屋の扉を開ける。わずかにかび臭い部屋の中には、古い革表紙の聖書や、貴重な本の数々が並べられていた。教導師はいくつかのランプに火を灯すと、分厚い本を取り出してくる。
「これが後見人名簿です。それで一体、何の手違いがあったのでしょう」
「いえ……私は姪の後見人だったはずなのですが、親戚の一人がそれは違うと言い張りまして。それでこうやって確かめに来たのです」
「おやおや、それは一大事ですね」
教導師が差し出してきた後見人名簿を受け取ったエドガーは、近くに置いてあった机を借りてめくり始める。レインリットが生まれたのは十八年前。後見人登録をする者はそれほど多くないようで、あっという間に十年ほど前まで遡った。
「彼女が姪御さんですか?」
「え、ええ……私の兄が他界してしまって、彼女の婚姻のための支度金が必要になったんですよ」
好奇の視線を感じて顔を上げると、教導師がにこやかに微笑んでいた。レインリットも居心地が悪いのか、エドガーの身体を盾にして隠れようとしたのだろう。ヴェールの端がエドガー上着のボタンに引っかかり、半分取れてしまった。慌ててヴェールを被り直すレインリットに、教導師が近づいてきて手伝い始める。
「美しい瞳をしていますね。一度見たら忘れられない宝石の瞳ですか」
「教導師様、あの」
「私は聖職者ですから心配ありませんよ」
エドガーはさりげなくレインリットを庇いながら、教導師から遠ざける。顔を見られてしまったのは仕方ないが、その賛辞は必要ない。
「ハーティさん、ゆっくりどうぞ。私は礼拝堂におりますので、終わりましたらお知らせください」
「ありがとうございます、教導師様」
「ではまた、美しいお嬢さん」
教導師がそう言い残して部屋を出ていくと、エドガーはその扉を睨みつけた。
「ごめんなさい、エドガー様……顔を見られてしまいました」
「いいんだ。あの教導師と直接面識は?」
「父の葬儀の時だけ。今日と違って黒いヴェールで上半身を覆っておりましたから、私の顔は知らないのではないかと」
「あの目が実に気に入らない」
エドガーはぼそりと呟く。レインリットの顔を見ただけではなく、明らかに見惚れているような顔であった。若い教導師とはいえ、まったくもって油断ならない。エドガーは気を取り直すと後見人名簿をくまなく見る。するとまもなく、レインリットの名前を見つけた。
「レインリット・メアリエール・オフラハーティ……君は四月生まれだったのか」
「はい、シャナス公国では十八歳で成人します。実は私は大人になったばかりなのです」
「そんなことわからないくらい、君は大人だよ」
教導師から直してもらっていたヴェールがどうにも気に入らず、エドガーはほつれ毛を直すふりをしてさり気なくヴェールを正す。
「後見人は、クロナン・ヒギンズになっているな。カハルの見た書類も保管してあるのだろうが、今はこれだけでも十分だ」
名簿には頁数や追番が打ってあり、易々と偽造できないようになっている。クロナン・ヒギンズという人物が、本当にいるのかもしれない。ウィリアム・キーブルがその人物に成りすましているとしたら、本物はどこにいるのだろう。
――すでにこの世にいないか、そのために殺したか?
そうは言っても未開の地ではないので、安易に殺人などできるはずもなく、危険度が高すぎるような気もする。エドガーの経験が、何かが違うと訴えてきた。
考えをまとめていると、礼拝堂に行ったはずの教導師が戻ってきた。申し訳なさそうにしているが、何かあったのだろうか、とエドガーは抜け目なくその動向を見張る。
「ハーティさん、下のお連れ様が困っておいでなのですが」
「下の連れ? 何があったのですか?」
「あの、女性の方が……えっとですね」
少し恥ずかしそうな顔で教導師がレインリットに近寄ると、その耳元で何か伝えた。するとレインリットがオロオロとし始める。
「
「あ、あの……エファのところに行ってきてもいいですか? 詳しくは、言えませんが……急な、女性の問題、と申しますか」
もじもじとするレインリットが何を言わんとしているのか。なんとなくだが事情を察したエドガーも顔を赤らめ、許可を出す。さすがにご婦人の事情に一緒に行くとは言えず、ホッとしたような顔になったレインリットは、礼拝堂に戻る教導師に礼を述べながら、急いで部屋を後にした。
――女性は大変だな。
一人になったエドガーは、目の前の名簿に目を落とし、気を取り直して自らの思考にふけっていく。
ソルダニア帝国で使う機密文書には、わからないように透し彫りが施されていたり、特殊な刻印がしてあるものもある。試してみるか、とエドガーは天幕を開けて部屋に光を取り入れた。貴重な本もあるので直射日光はよろしくないが、仕方がない。
その頁を取り外すことができないので、エドガーは名簿を持ち上げて紙を陽射しに透かしてみた。
「これは……二重になっているのか?!」
紙の端の方に、わずかだが文字のようなものが見える。他の頁をめくって同じように陽にかざしても、そんな風に文字が見えるものなどない。それに、レインリットの名前が書いてあるその頁だけ、他の頁よりも若干分厚いものでできていた。
「見つけたぞ、名簿自体に特殊な紙を貼り付けていたのか」
ソルダニア帝国の軍部でも、そういった手法はよく使う手だ。ウィリアム・キーブルであれば当然やり方を知っているだろう。
――これで、牙城が崩せる。
証拠はここにある。しかし、この名簿に小細工をするのであれば相当な時間がかかるものだが……。
そうして、エドガーは自分の最大の失態に気づいた。
「
エドガーは名簿の頁を袖口から取り出した小型の仕込刃で切り離し、乱暴に懐にしまいながら部屋を飛び出した。
「メアリ、メアリ……レインリット!!」
礼拝堂にいた信徒たちが何事かとエドガーを見るが、それに構わずエドガーはレインリットを呼ぶ。
「茶色のドレスの女性を見なかったか?!」
「あっちの裏口から出て行ったがよ、教導師様もご一緒だったさよ」
自分たちは、正面から入ってきた。馬車も表側に止めている。裏口を開けようとして、何故か鍵がかかっていることに舌打ちしたエドガーは、油断していた自分を盛大に呪った。
「教導師までも買収したかっ、ウィリアム・キーブル!」
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