第三章 縮まる距離、募る不安

第13話

エドガーは悩んでいた。


 ここ数日、何をするにも身が入らない状態が続いている。昨日はとうとう、夜会の招待状に断りの返事を出すよう指示してしまった。

 原因はわかっている。一週間前に助けたメアリのことだ。エドガーは、彼女の抱えている謎を八割方解明することができた。残るは、彼女の出自と厄介な提案に対する返事である。出自については、いずれ判明することなので無理に聞き出すことをやめていた。問題は、残る一つ。


 スケィル・クラブの一室で、エドガーは日頃は吸わない葉巻をくゆらせる。ゆらゆらと揺れる紫煙を眺めながら、もう二時間くらいこうしてぼんやりしていた。


「難しい顔だね、エドガー」


「マックスか。いつものことだ、放っておいてくれ」


 煩い男に見つけられた、とエドガーの気分は急降下する。マクシミリアン・グリーブスは、人当たりがよく会話が上手で、退屈な社交界を一緒に過ごすにはもってこいの男だ。しかし今の彼は、退屈でもなければ賑やかに喋りたいわけでもない。


「君がいつもの部屋にいなかったから探したよ。メイブリックトン侯爵夫人の夜会以降、招待を断っているみたいじゃないか」


 マックスの青い目は、興味津々とばかりに煌めいている。ほら来た、とエドガーはうんざりして適当な返事を返した。この男、ソルダニア帝国海軍の将校で、エドガーと似たり寄ったりな立場にいるいわゆる同志なのだ。


「毎晩興味もない女たちとくるくる回っていられるか」


 しかめっ面を晒したエドガーに、マックスはにやりと笑みを浮かべる。


「ダンスより馬だったっけ? それともいよいよ仕事に本腰を入れるのかな?」


 その時、カード台の周りから歓声と落胆の声が響いた。カード台では賭け事に興じる会員の他に、何やら議論をしている会員もいる。エドガーはマックスを体良く追い払おうとして考え直した。鬱積した愚痴を聞いてもらうのもいいかもしれない。


「マックス、場所を移そう……少し付き合ってくれ」


「へぇ、珍しい。それじゃあ、空いてる面会室にでも行こうか」


 二人はカード部屋から出ると並んで歩き出す。


 スケィル・クラブは軍人貴族のための秘密クラブだ。ここの会員は表向き、帝国評議会に議席を持たない軍人たちの溜まり場となっているが、実はエドガーやマックスのように、諜報員の仕事をしている者たちの情報交換の場であった。

 秘密を抱えて生きていかなければならない者たちの鬱憤を晴らす場所にもなっているので、賭け事や格闘技が盛んに行われている。また、ここで浴びるほど酒を飲んだとしても、酔いが覚めるまで泊まっていくことができた。酔っ払ってうっかり秘密を漏らしてしまう心配もないというわけだ。


「飲むかい?」


 マックスがグラスをあおる仕草をしたが、エドガーはそれを断る。もし飲んでしまえば、酔わない自信はない。酔ってしまえば街屋敷に帰られなくなるのでそれは避けたかった。


 こじんまりとした部屋に入り、とばりを閉めたマックスは、窓辺に置いてあった肘掛けのない椅子をエドガーの側まで持ってくる。そして逆向きにまたがると、背もたれに腕と顎を乗せて目を細めた。


「さて、僕に何を聞きたい? ついに結婚を考えるようになった? 何人か仕事の邪魔にならない女性を知ってるよ」


「いや、もう見つけたからそれは間に合っている」


「ふーん、そうなんだ」


 部屋に沈黙が落ちる。しばらくして何かがおかしいと気づいたマックスが、驚きのあまり椅子からずり落ちた。


「ちょっと待ってくれ。エドガー、君、君は、本当に結婚するのか?!」


 ずり落ちたその姿勢のままズリ寄ってくるマックスを、エドガーは気味の悪いものを見たかのような目で見る。


「落ち着けマックス」


「落ち着いていられるか! 一体誰と? まさか夜会を断っているのはそのせいなの? メイブリックトン侯爵夫人の夜会以降ということは、その時にダンスをした令嬢の誰かだね?」


 マックスがいつになく興奮し、エドガーの手を掴んで上下に振り動かす。しかし彼にはマックスが何故そんなにも興奮し、喜びを表すのか理解できなかった。この男とは寄宿学校時代からの付き合いだが、未だにわからないことが多すぎる。


は、結婚、するのだろうか」


「は? それは僕が聞きたいよ」


「結婚すればいいとは言ったが、もう少し時間がかかる……かもしれない。いや、そもそも結婚してくれるかどうかも怪しい」


「ごめん、エドガー。君の言っていることがさっぱり理解できない」


 要領を得ないエドガーに、マックスが首を傾げた。そんなことを言われても、自分ですらよく理解できていないのだから説明のしようがない。エドガーは首から飾りタイを外すと、それをもて遊び始めた。


「最初から話してくれよ。君がそんなに困っているのは珍しい」


 くされ縁のマックスはとても面倒見がいい。時折いたずらが過ぎることもあるが、軽く見えても海軍の将校で、ついでに策士だ。エドガーと同じように心に仮面を被っており、それゆえに騙される者も多い。


「メイブリックトン侯爵夫人の夜会でお前と別れた後、妖精が木から落ちてきた」


「真面目に話してよ。それとも酔ってる?」


 エドガーの冗談と思ったのか、マックスが半眼になる。しかし、エドガーは冗談を言っているつもりはない。


「真面目に話している。男に絡まれて逃げていた女性を助けた。彼女はとても綺麗な目をしていて……まあ、色々あって俺の元で保護している」


「君、本当にエドガーかい?」


 マックスが失礼なことを聞いてきたが、自分でもそう思うので訂正はしなかった。メアリと出会ってから、エドガーの錆びついていた感情がいきなり動き始めたのだ。これでは社交界を賑わす『銀の伯爵』の名が廃れる。苦労して作り上げた虚構の自分を、必要な時に使えないのでは意味がない。


「彼女は訳ありの令嬢で、シャナス公国からはるばるエーレグランツにやってきたんだ」


「シャナス公国出身……そうか、仕事で使えると思って油断していたら、まんまと惚れてしまったんだな、エドガー」


「そんなことはない。結婚も提案の一つにしかすぎない。ただ、彼女の問題を解決するのに結婚が一番いい方法だったんだよ」


 メアリが自分を大事にしないものだから、あの時は売り言葉に買い言葉のようになって、結婚という手段を口にしてしまった。そして、衝動に任せるようにしてキスまでしてしまったのだ。エドガーのキスに応えるどころか、驚愕に目を見開いていたメアリの顔を思い出し、エドガーは罪悪感を覚える。もちろん、エドガーとしては偽装結婚のつもりだったが、言葉足らずだったためにメアリはそのように解釈をしていないらしい。


「なら何を悩む必要がある? いつもの火遊びと同じと考えればいいじゃないか」


 マックスが立ち上がり、いささか冷ややかな目でエドガーを見下ろした。そうなのだ。いつものエドガーであればこんなにも悩まなかったに違いない。ひとときの恋人として、今までの女性たちのように期間を決めて付き合えばいいと考えても、何故かメアリには不誠実なことをしたくなかった。


「そんなことはできない」


「ならなんで結婚なんて言ったんだ……って言っても仕方ないか」


「どういうことだ?」


 マックスの言いたいことがよくわからず、エドガーは途方に暮れたような目で長年の友人を見上げる。


「君は、本気で恋をしたことないだろう?」


「そんなもの……いや、そうだな、本気ではなかった」


 虚を突かれたエドガーは、これまでの女性遍歴を思い浮かべて納得した。虚構の自分を演じることに必死で、『銀の伯爵』に群がる女性たちのことを真剣に考えたことはなかった。現に彼は、噂のあった女性の顔をよく覚えておらず、ただ記録のようにかろうじて名前を言えるだけだと気づく。


 結婚について口にした日から、メアリはエドガーのことを微妙に避けている節がある。彼も敢えてそのことを口に出すことはなく、お互い表面上は何もなかったように振る舞っていた。


 ――それが寂しいなんて、笑顔が見たいだなんて。


 お茶の時も晩餐の時も、憂いを帯びたメアリに、心から笑ってほしいと願っているのに。一度でも仕事で利用しようと考えた自分が許せなくて、それを口にすることがはばかられる。

 気持ちが塞ぎ込みそうになり頭を激しく横に振ったエドガーに、マックスが苦笑した。


「君っていつも肝心なところで抜けてるよね」


「マックスのくせにうるさいぞ」


「そう邪険にしないでよ。エドガー……その子を大事にするんだ。もし助けが必要なら、僕は協力を惜しまないからね」


 マックスが、いまいちピンとこないエドガーに焦れたのか、両肩を上から押さえつける。そして、何をするという抗議の声を無視して、その手を力を込めた。


「エドガー、よく聞いて」


「なんだ、いきなり」


「この鈍感伯爵、君はその子に恋をしているんだよ」


「まさか、出逢ったばかりだというのに?」


「一目惚れに時間なんて関係あるものか。要するに、その子が好きってこと。ここまで言ったらわかるよね?」


 何を言っているんだ、と思ったエドガーだったが、そう言う前に口をつぐみ、マックスの言ったことを脳で理解すると盛大に赤くなった。




 ◇




 恋をしていると言われても、エドガーは自分が認識している恋と、直面している恋の違いに戸惑った。


 ――恋愛とはもっと洗練されていて、駆け引きを楽しむものではなかったのか。


 スケィル・クラブからの帰り道の馬車で、エドガーはマックスに言われたことを考える。


 メアリのことは、最初から好ましいと思っていた。木から落ちてきた彼女を受け止めた時の印象が強烈で、大きな緑色の瞳に吸い込まれるかと思ったものだ。少し化粧を施した彼女もまた素晴らしく美しかった。唇にさした控えめな口紅がよく似合っており、伏せた目を縁取る睫毛は、頬に影ができるくらいに長くて……。


 ――やはり好きなのか……恋愛的な意味合いで。


 メアリを思い浮かべることなど容易たやすい。彼女のことは見ていて飽きず、もっと色んな表情を見てみたいと思いさえする。今はきっと自分たちのことで精一杯で、物思いにふける時間が多いが。たまに見せてくれるふわりとした微笑みはもちろん、心からの笑顔を見せてくれたらと思うのだ。


 ――そのためには、早く元家令を探し出さなければな。


 カハル・マクマーンという男は、去年の春に確かに正規の手続きを得てエーレグランツの港から入国していた。妻であるアンとその弟ナイオルの名前もあり、ソルダニア帝国内にいることはほぼ確実だ。そこから他の地方や他国に行った可能性も否定できないが、メアリは確信があるのかエーレグランツだと言っていた。そこでエドガーは、闇雲に探すよりはとシャナス公国の下調べに加えて、部下にエーレグランツの中流階級の者たちが住む地区を探させている最中だ。マクマーンという苗字はリングール系の家名なので、偽名を使って潜伏していない限りさほど時間を割かずとも見つかる算段であった。


 メアリに暗い影を落とす原因を取り除くことができた時、彼女はどんな顔を見せてくれるのだろう。シャナス公国に渡り調査を行う合間に、なんとかしなければならならない。その時はメアリたちをどうするのか、エドガーはまだ決めかねていた。エーレグランツの街屋敷に置いていこうか、レイウォルド領の本邸の母親の元に預けようか思案する。


 ――エーレグランツは危険が多い。どれくらいの期間シャナス公国にいなければならないかわからない現状、母上にお任せする方が安全だろう。


 レイウォルド領は他国との境にある豊かな土地だ。エーレグランツに行ったばかりの息子がいきなり女性を連れて帰って来て、後は頼むと言ったら母親はどう思うだろうか。


 ――駄目だな。ろくに説明もせずに預けるのは心象もよくない……ならば、一緒にシャナス公国に渡るか。


 一緒であれば自分が守ってやれる。またメアリであれば、シャナス公国の社交界に妻と装って連れて行くのもいいかもしれない。もしメアリの家を乗っ取ったという男が見つけたら、向こうの方から接触を図ってくるはずだ。それが正面から正々堂々と来るのか、それとも闇討ちのように闇夜に紛れてやってくるのか知れないが。


 エドガーは杖をトントンと鳴らして御者に合図を送る。程なくして馬車が止まり、御者台の背面に位置する小窓から御者が顔を覗かせた。


「お呼びでございますか、旦那様」


「ああ、繁華街に行ってくれ。今流行りの菓子類を置いているのはどこだ?」


 女性たちへの贈り物など、全部執事のバークレーに手配させて任せっきりにしていたエドガーは、買い物の足として使われる御者に聞いてみる。バークレーから報告はうけていたが、どこの店のどんなものを送ったのか、内容は例のごとくほぼ覚えていなかった。


「この間、マナリューズの店が新しい香茶とそれに合わせたお菓子を出したそうです。バークレーさんが次はそこだと申しておりました」


「なるほど。ではそこへ」


 メアリはソルダニア帝国の香茶が気に入っているようだから、お茶に誘って、あの酷い提案を撤回しなければ。ギクシャクしてしまった関係を一度精算しよう、とエドガーは考えた。

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