第9話 影狼

 夜の闇の中。

 木々の間に、暗闇が揺らめいた。

 雲の切れ間から月明かりが出て、暗闇を照らす。

 そこでようやくその正体がわかった。


 狼だ。


 夜闇のような黒い毛並み。

 2mはありそうな全身。

 その大きな体とそれを支える太い四肢。

 不吉な月のように、赤に染まった双眸。

 2つの赤い目がこちらを見つめている。


 隣にいたキリさんは、そんな狼相手に口笛一つ。


「随分と立派な影だな」

「あれが、影ですか」

「ああ、プレイヤーの間ではそう呼んでいる。理由はわからんが、怪物は出現した場所から動けない。だから怪物は自分の分身を作る。分身はプレイヤーを殺すため、どこまでもついてくる。だから影だ」

「勝てますか?」

「テル次第だな」

「ボクにできますか?」

「テルにしかできない」


 キリさんは静かに断言した。


「こいつを倒すことは、テルにしかできない。影はボスと同じだ。その原因になったプレイヤーしかとどめをさせない。テル以外の攻撃で受けた傷はすぐに再生する。でもボスと違ってダメージ自体は受けるからな。私が攻撃をしてあいつの動きを止めてやる。だからその間に」


キリさんはボクの背中に手を当てた。


「テルが最後の一撃を入れろ」

「ボクにでき……」「できなきゃ死ぬだけだ」


 キリさんの強い口調に、ボクは息を呑んだ。


「そうだろ」


 そういってキリさんは、片目を瞑って口の端をあげた。

 その表情は「大丈夫、テルならできる」と。そういってくれているようだった。


「来るぞ」


 キリさんは弓に矢をつがえた。

 狼は遠吠え一つ。

 それが始まりの合図になった。

 赤い目が走り出す。

 直後、キリさんが矢を放つ。

 素早く走る矢を、風を切る音が追っていった。

 影はその矢に真正面から走り向かって行った。

 当たる直前、僅かに体を横にずらした。

 矢は狼の中心を外れ、何本かの毛を掠り切って通り過ぎた。

 あんなにあった距離は、一息のあいだに詰められてしまった。

 目の前。

 熊のような巨躯が、ボクに躍りかかっていた。

 鋭い風が通り過ぎた。

 それは狼の肩口に刺さり小さな音を立てた。

 キリさんの矢だ。

 連射とも言っていいくらいの、間断無い攻撃。

 その刺さった矢の勢いは、狼の体勢を崩させた。

 同時にボクへの軌道がずれた。

 そのまま、すぐ横の地面に体をぶつけ、滑り転げた。

 立ち上がる間なくさらに2本。

 前足と後ろ足に、矢が打ち込まれる。

 目まぐるしい状況変化についていくのがやっとだった。


「今だ!」


 キリさんの声で、はっとした。

 皮鞘シースからダガーを抜いて、地面の狼に向けて振りかぶった。でも、刃を振り下ろすことが出来なかった。動けない影狼はボクに向かって咆哮ほうこうした。その咆哮ほうこうは音の爪だった。不可視の爪で、耳の内側が引き裂かれる。反射的に耳を塞いでしまう。

 音が止むと同時に、狼は蒸発でもするように消えてしまった。

 逃げられしまった。


「っつ。こいつは厄介だ」


 キリさんの言葉から、余裕が消えている。


再生速度リジェネレイトが異常だ。私の攻撃じゃほとんど足止めできない。難易度はイージーじゃないみたいだな。仕切り直しだ。気合を入れろよ、テル」


 キリさんは、矢をつがえ、構え、引き絞る。

 その先を追った。

 ずっと向こう。

 さっきまで地面に縫い付けられていた狼が、何事もなかったように立っていた。

 荒い鼻息一つ。

 影が動き出す。

 今度は走っては来なかった。

 ゆっくり歩き、一歩ずつ近づいてくる。


「もう一度動きを止める。今度は絶対に仕留めろ。傷は治る、だからどんなことがあっても躊躇するな」

「はい」


 影は距離を詰めてくる。

 それに合わせるように、ジリジリと音がした。

 隣にいるキリさんの矢が引かれ、弦が絞られていく。

 狼が近づくたびに、僅かずつ引きを大きくしている。

 矢の先が小さく震えていた。


「なるほど、根比べか。賢いワンちゃんだな」


 そんな軽い口調とは裏腹に、キリさんの額には汗が浮かんでいる。

 影が近づけば近づくほど、矢を当てるのは簡単になる。

 と同時に、もし躱された時には、

 二の矢よりも先に狼の牙が飛んでくる。

 結果を分ける境界線。

 間違いの許されない一線をめぐっての根比べ。


「チャンスは次で最後だ」キリさんは言った。

「必ず射抜く。だからアイツが逃げる前に、必ず止めをさせ。いいなっ!」

「はいっ!」


 短剣ダガーに手をかけた。

 持った柄が汗で滑る。

 でもその汗を拭う余裕なんてない。

 影との距離は唸り声が聞こえるほど近くなっていた。

 キリさんは彫像のようにピタリと動きを止めている。

 狼は姿勢を低くして、地面に擦るように、足を前に出した。

 右足、左足。

 狼からすれば、一蹴りで届く距離。

 呼吸の乱れさえ、許されない距離。

 影はそこで止まった。

 その周辺が境界線のようだった。

 その見えない線を巡って、キリさんと影の駆け引きが、鋭くなっていく。

 狼は探るように、前足を出したり、戻したりを繰り返す。

 キリさんはぴたりとして動かない。

 一瞬でも気を抜けば、その矢が音よりも早く飛んでいく。

 狼の方も手を変え品を変えながら、その緊張を崩そうとしている。

 一本の糸がぴんと張られて動かない。

 そんな息苦しい状態が、ずっと続くように思えた。


 横目に映るキリさんの額に、玉のような汗が見えた。

 それが、額からするりと滑り始めた。

 長い睫毛をすり抜け、目に入る。

 目に入った違和感に、キリさんの片目が閉じられた。

 その瞬間を、影は見逃さない。地面を蹴る。


 ほぼ同時の風切り音。


 射られた矢は、狼の中心を捕らえていた。

 もんどりを狼。

 間断なく、第2射。

 狼の肩口を地面に縫い付ける。


「いまだ!」


 キリさんの声に突き動かされるように、

 短剣ダガーを抜いて狼に突き立てた。

 柄を握る手の下で、狼は暴れた。

 爪が服をかすり、引っかき傷を作る。

 影の動きを抑えるように全体重をかけた。

 抵抗はだんだんに弱くなっていく。

 痙攣したように震え、抵抗する力は弱まり。

 そして完全に止まった。

 狼はまるで泥のようにグズグスと溶けて、崩れた。


「やったな」


 キリさんがボクの頭に手を置いて言った。


「はい。キリさんのおかげです。キリさんの目に汗が入った時はどうなるかと思いました」

「あんなの何でもないんだけどな。エルフに鷹の目はいらない。耳で射るからな」


 そう言って耳を指差し、動かして見せた。


「そうだったんだですね。心配しました」

「テルは心配性だな。私はベテランだぜ。多少の……」


 キリさんは途中で言葉を止めた。

 その場を蹴り、右手を突き出す。

 突き飛ばされながらボクは、キリさんの右腕に狼の牙が食い込むのを見た。

 キリさんの対応は早かった。

 腰から短剣を抜くと、狼の喉に突き立ててそのまま掻っ切った。

 肉の切れるブチブチという音がして、黒い霧が切り口から吹き出る。

 狼の赤い目から光が消え、それから煙のように消えた。

 そこでやっと、ボクは理解した。


 狼は、2匹いた。

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