烏と太陽 1
引き金を引く直前にいつも考えるのは、皮膚の下で脈打つ血液のことだ。酸素とブドウ糖、その他にも体を生かすために必要なものを運び続ける血液の流れは、引き金を引くことによって止まる。
体は温度を失っていき、撃たれた人間はその後の人生も失う。
それでも撃たなければならないのは、被害を最小限に留めるためだ。しかしそれを理解しているからといって、安楽処置を無心で行えるわけではなかった。
どこを撃てば生命は停止するのか、わかってはいた。いざ銃を渡されると立ちすくみ動けなくなった。もう治る見込みがないとしても、子牛にはあまりにも『生』の感触が残っていた。変わりに子牛の額を撃ったのは診和だった。
撃てなかった変わりに、乾いた破裂音と同時に地面に伏せピクリとも動かなくなった子牛から目を逸らさないでいると、診和は言った。
「真面目過ぎるよ。そんなんじゃいつか潰れる」
須川は自分のことを真面目だとは思っていなかったが、診和からはそう見えたんだろう。
今思えば、その言葉通りになってしまったのは診和の方だった。
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須川は自室の机の上に置かれた資料を見つめながらため息をついた。窓際から差し込む朝日がホチキス止めされた資料と手の平を照らしている。
銛によって空いた穴がそう簡単に塞がるわけもなく、手の平には包帯が頑丈に巻かれていた。指先だけは動かせるようにしてくれと頼んだとき医者はかなり顔を顰めたが、おかげで報告書作りと資料漁りを一人で行なうことができた。
警察から先日送られてきた連続死体遺棄事件の資料を捲る。被害者の名前の先頭には、診和の名前があった。首から上だけを残されあとは骨だけになった診和の姿を思い出してしまう。
須川はゆっくりと煙草を取り出し、指先だけで苦労しながら火を付けた。紫煙が昇っていくと、少しだけ憂鬱が紛れる。
気分が晴れないのは今に始まったことじゃない。目指すべき姿をしていた人が死んで、更にこの役目を担うようになってから何度も、気分が底の底まで落ちそうなドロドロしたものに呑まれそうになった。それに呑まれないようにしつつ現実から目を逸らさないでいようとすると、少しずつ何かが擦り切れていく。煙草の本数は増え、目の下に付いたクマがなかなか消えることはなかった。正気を保つための精神の精一杯の抵抗か、態度と口調は段々と荒くなっていった。
現状が腹立たしくも虚しくもなかったが、須川は自分に何かが欠けている気がしてならなかった。
須川は煙草の火を灰皿に押しつけ再び資料に目を落とした。この事件の犯人、ナルと遭遇した日のことを思い出しつつ、様々な推察を繰り返し行なっていく。
包帯に巻かれた指でどうにか目頭を揉む。痛みが出ない範囲で指を動かそうと思っても大した力は出ないい。情けなく思いながらも、再び資料に向き合う。
擦り切れていこうが、理解者が少なかろうが、それでもこの仕事を続けているのは正義感なんて褒められたようなものではない。この世の中に希望を見出したいからだった。
部屋の中にノックの音が響き、須川は資料を捲る手を止めた。扉の向こう側にいる人物は大体予想が付いている。間もなく、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「須川さん、ちょっといいか」
「遊びに出てえなら今度にしろ」
「まだ何も言ってないだろ、普通に用事だよ」
「わかってるよ、今鍵開ける」
須川から見た
以前まで禄でもないことをやってきた、生意気で未熟なところも残っている成人したばかりのガキだが、真っ直ぐ生きられる気概を持っているんだろう。だからなのかはわからないが時々、矢至の目つきが診和と似たようなものに見える時があった。
重ねて見ているわけではない。それでも、馬鹿正直に向き合うせいで心が折れるような目にはあって欲しくなかった。
須川は席から立ち上がった。疲労が体に蓄積されているのはわかっているが、足取りは重くはなかった。
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「うわ、あんたの部屋ごちゃついてんな……」
ドアが開いたあと、矢至は須川の部屋の中を見回した。机の上に雑に積まれた資料に灰皿で山になっている煙草の吸い殻、ハンガーにぶら下がってずり落ちかけているスーツのジャケット。煙草の残り香がする部屋の中は、管理局のオフィスよりも雑然としていた。
須川は矢至の頭を叩けない変わりに圧を掛けるように睨んだ。
「片付ける暇がねえんだよ。それに用事があるからきたんだろ」
「ああ、昨日の夕方本郷さんに伝言を頼まれたんだよ。俺とあんたで『研究所』に行くようにって伝えてくれって」
「あー……わかった。準備できたら出るぞ」
須川の妙な間に矢至は首を捻った。心なしか顔つきもいつにも増して不機嫌そうに見える。
矢至の内心を察したのか、須川は額を掻いた。
「研究所ってのが何してるところかはわかるか」
「前に
「じゃあ概要は省くが、研究所の奴らはナルの詳細とお前の詳細を知りたくてたまらないんだろうよ」
「……俺の詳細?」
「自分の体質のこと忘れたわけじゃねえよな?」
須川に胃の辺りを指差されようやく気がつき、矢至は眉を寄せる。
知的好奇心が自分に向けられているのはあまりいい気がしなかった。
「研究所の職員達には今までもちょくちょく連れてくるよう言われててその度に本郷さんが上手くやってくれてたんだが、無視できなくなってきたんだろ」
「行かなきゃ駄目、だよな」
須川は少し考え込んでから、ハンガーからスーツのジャケットを抜き取った。
「丁度良い。研究所には用があったんだ。解剖されたりはしねえだろ、行くぞ」
「マジかよ……」
矢至は項垂れた。ジャケットを着る須川はどこか覚悟を決めたような表情をしていたが、それが一体何を意味するのかは見当も付かなかった。
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手の平の怪我で車の運転が出来ない須川の変わりにハンドルを握っているのは鹿倉だった。鹿倉が運転する車に乗るのは久しぶりだった。遺骸を吐き出すために入院していたころ以来だろうか。あの時はまだ残雪が所々に残っていたが、今は道端に花が咲き小さい虫が湧くのが当たり前になっていた。
「そういえば矢至、お前何で伝言のこと昨日のうちに俺に言っておかなかったんだよ」
「本郷さんから急ぎじゃないって言われてたんだよ。それにあんた最近疲れてただろ、夜に仕事の話しに行きたくなかった」
ルームミラーに映る須川の顔色は良いものではない。須川は短く「そうか」と答え苦笑するだけだった。
「安楽処置後に用意しなければならない報告書は多いですからね」
須川は曖昧に頷いた。
砂浜で行なった山彦の安楽処置について、現地での対応を済ませどうにか管理局に戻った後、須川はここ数日間ずっと忙しそうだった。
その間矢至はひたすら繰り返される会議の用意や不要になった資料の処分を任されていたが、込み入ったことは何も手伝えないことに歯痒さも感じていた。
「会議に出て説明を行なわなければならないこともある。それに加えてナルの件も任されてますから、須川さんがこういう顔色になるのもわかりはするんですが……睡眠は取ってますか?」
「動けるように休みは取ってる」
「本当だろうな」
「嘘ついてなんになるよ。余計なこと心配すんな」
「親父が過労死で死んでんだ。そら気になるよ」
「それは、そうか」
意図せずして車内に気まずい空気が流れてしまったことの矢至は若干申し訳なさを感じたが、体調を気に掛けているという意図は十分に伝わっただろうと思い、訂正するようなことはしなかった。
やがて車は矢至が想像していたものとは違い、小さな公民館のような場所に行き着いた。素朴な場所だ。玄関先に置かれた花壇には花の苗が飢えられていた。
「……ここで本当に研究だのなんだのやってんだよな?」
「前にも言ったじゃないですか。ここに居る人達は主にフィールドワーク……現地に行って観察を行なったりするのが主なので、施設自体はこういう感じなんです」
「こういう感じ、とは一体どういう意味かな?」
鹿倉が説明しながら来客者受付をしていると、奥の方から白衣を着た白髪交じりの女が現われた。あまり日に当たらない生活をしているのが見て取れる肌の色をしているが、すっと伸びた背筋から不健康そうな印象は感じない。
「
「どうも須川君。相変わらず窮屈そうな格好をしてるね。それに今まで散々要請を断ってたのに来てくれたようで嬉しいよ」
「すみません、なかなかお伺いすることができず」
「まあ来てくれさえば良い。じっくり話は聞かせて貰うよ」
眼鏡越しの目を細めそう笑った女に、須川は気まずそうに苦笑を浮かべた。須川はなんとなくこの人のことが苦手なんだと言うことが雰囲気からわかった。
「叔母さん、それくらいにしてあげて下さい」
「叔母さん?」
鹿倉の言葉に白衣を着た女を見返す。須川がさっき呼んだとおりネームプレートには『霞野』と書かれているが、言われてみれば鹿倉とは涼しげな目元が似ていた。
「その子が例のねえ」
まじまじとこちらを見つめてくる霞野をなんとなく見返す。須川はなんとなく不安そうにこちらを見ていた。鹿倉が傍に寄り、鹿倉に手の平を向ける。
「矢至君、さっきはああ言いましたがこの施設はよく想像されるような研究が全く行なわれてないわけでもないんです。以前、矢至君が吐き出した卵から孵った烏の解剖を行なったのもここですから」
「……もしかして」
「私が解剖を行なったよ。
矢至は顔を引き攣らせた。目元だけでなく、少し様子がおかしいところも鹿倉と良く似ていた。
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「人間の神使とは驚いたよ。できることならお目にかかってみたいものだ」
「ナルは神使ではありますがそれ以前に危険であることに変わり無いです」
「わかってるよ。それでも会って見てみたいと思うものなんだよ。知的好奇心が厄介だと言うことは君もわかっているだろう。毒茸の味を知りたがり食す人間がいるように、同じような理由で遺骸を口にする人間もいるからね」
「それにしてもナルは、あいつは異常です。神使自体の生き物としての特性は知っていますが、奴の気性は神使だからというよりも個体としての特徴でした」
声に圧を含ませた須川に霞野は平然と接していた。
矢至は種類が違う怪獣の争いを見ている気分だった。居心地の悪さを覚えつつ、応接室のソファに座り黙って茶を啜りながら二人のやりとりを見守る。鹿倉も同じように茶を啜っている。時折須川のナルの説明に言葉を付け加える程度だった。
「君にそこまで言わせるとは、そのナルと名乗った者は相当だね。余計気になる。気になるが、興味をそそられるのは人間の神使だけじゃない。矢至貴琉君、君のこともだよ」
名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばす。霞野は何が面白いのか愉快そうに口角を上げた。
「君が須川君と一緒に赴いた祟化事案の報告書を読ませて貰ったが、そこそこの命の危険や怪我では卵を吐き出さないようだね」
「あ、ああ……」
「そう緊張しないでくれ。良いことなんだよ。ちょっとしたことで卵を吐き出されてしまっては危険度は跳ね上がるからね」
霞野は目玉を上へ下へと動かしソファに座る矢至をまじまじと観察している。部屋を出たいと思ったが、流石にそうすることは出来なかった。
「それでね、君、視力がかなり良いね」
「はい?」
「俺も薄々思ってました。俺が見えない距離のものでも見えたりしてることが多いんです」
「そう、だったのか」
「自覚無かったのかよお前」
須川に呆れたような視線を向けられる。予想してなかった流れに矢至は呆気に取られた。無意識に腹に入っていた力が抜けていく。
「君が食べた遺骸は烏の肉と推察されているんだろう? その影響かもね。神使の五感が遺骸を食べた人間に備わることは珍しいことじゃない。ただ最も気になっているのは、五感が変化するというのは祟化が重度に進行している人間に現われる症状なんだよ」
霞野はそう言いコーヒーを啜った。不穏な箇所で区切られたせいで不安が募る。
「しかし君は一度だけ卵を吐いて以来祟化の兆候を見せていない。不思議だ。なにもかも本来の祟化の形とは違う。本当に祟化なのかさえ疑わしいが、現状そう判断するしかないからね……」
次第に独り言を呟くかのようにぶつぶつと喋り始める霞野の意識をこちらに向けるように、須川は声を張り上げた。
「霞野さん、矢至君みたいな祟化の症状はこれまで一度もなかったんですか?」
「……祟化の事案は今までこそナルが要因をばらまいたせいで件数は増加していたが、本来はもっと少ない。確認がされてないだけで、もしかしたらこういうことは時折あったのかもわしれない」
どこか周りくどい言い方に、矢至と須川は首を捻る。鹿倉だけが納得したような表情をしていた。
「いや、現代の資料には残されていないけどね、祟化のベースにしたと思われる民話には遺骸と思わしき物を食べてもなお祟化しないものが多くある。単純に伝えられていく中で悪い部分はそぎ落とされていったという場合もあるんだろうが、果たして全てがそのケースなんだろうかと私は思うんだよ」
部屋の中にはコーヒーの匂いが立ちこめている。須川は推察を語る霞野の言葉に顔を顰めた。
「こいつの今の状態を民話の元に考察する気ですか?」
「そのつもりはない。ただ可能性として考察するなら使えるものはなんでも使っておきたくてね。ただでさえ解明できないことが多い分野なんだ」
矢至は自分の体を見た。胃の中にある遺骸のことも、自分の今の状態も全く何もわかっていない。気味が悪いとは今更思わなかった。
霞野は企み顔で笑うと、矢至の傍に歩み寄った。
「それでね、今日は矢至君の視力のデータを取りたかっただけなんだ。是非協力して欲しい」
「それぐらいならいいけど、視力測るだけだよな……?」
「当然。生きてる人間に何かしたら私が捕まるからね。
霞野の言葉に薄ら不安を覚え須川を仰ぎ見る。気まずそうに矢至から視線を外した須川は「行ってこい」と呟き矢至の肩に手を置くだけだった。
検査の準備を始める霞野に、須川は声を掛けた。
「霞野さん、資料として保管されている
「良いけど何のためだい?」
「事件の考察の材料にしたくて。視力検査をしている間に簡単に済ませておきますので」
鹿倉に引き摺られながら、矢至は須川を見て自分の父親が脳裏に浮かんだ。しかしそれが何故なのかはわからず、ただ無駄に胸騒ぎを覚えてしまっただけだった。
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