潮風と後悔 4
「水喜さん! やめてくれ!」
山彦はとっくに空になったバケツを振りかぶり叫んだ。水喜が止まることはない。
「山彦、無駄だ。人としての理性はもう無くなってる。今まで腹を満たすことを優先してたのが奇跡なんだ」
「そんな……」
スニーカーの底を滑らせつつ砂浜を進んでいく。人影は二人組の男女だった。
「矢至それ以上近づくな、危険だ!」
「そうも言ってらんないだろ!」
矢至は金切り声を上げる女と水喜の間に、山彦のバケツをひったくりながら割り込みに走った。須川が止めようと手を伸ばしたが、それを振り切る。
水喜の黒い滴のような目はじっと二人組の片方、激しく狼狽えている背の高い男の方を捉えていた。二人組はどちらも恐怖で足が竦んでいる。
魚とは比べものにならないほど腹が満たされるであろうその男を丸呑みしようとするのが、瞬きした後のことでもおかしくはなかった。
矢至は水喜の正面に立つ。鱗の境目と、口から細かく出される二つに分かれた舌がはっきりと見え、上がっていた息が恐怖で止まった。指先一つでも動かしたら腕が無くなる気配さえする。
しかし水喜は矢至には目もくれず、避けるように這い進んでいく。矢至は、山彦から奪ったバケツを水喜の鱗に覆われた頭部に投げつけた。それでも水喜は男の方へ這っていくのやめない。
動揺したのは矢至だけではなかった。
「あの男、水喜さんの元婚約者に顔が似てる……」
聞こえてきた呟きに、矢至と須川は互いの顔を見合った。
婚約者のことで心を病んだのなら、その男に強い殺意を抱いたまま死んでいてもおかしくはない。それが習性として残っているとしたら。
「須川さんその人を逃がしてくれ!」
「わかってる!」
須川が二人を促し遠ざかろうとした矢先、水喜の体は躍動した。一瞬身を縮めた後に跳ねるように男の方に飛びかかっていく。須川が男に身をぶつけ、砂浜に伏せさせる。乾いた木を突き破る音が聞こえたあと、水喜の牙は男の背後にあった流木に刺さっていた。
「水喜さん、その人はあなたの婚約者じゃない、やめてくれ……!」
虚しい叫びが砂浜に響く。
襲われていた二人組はパニックを起こしながら逃げて行った。
水喜は狂ったように身を捩らせ流木から牙を引き抜くと、男が逃げていった方向を向いた。乾いた流木には、牙が刺さっていたところだけ毒液によってシミができている。
須川は顔を歪めると、手を震えさせながらもホルスターから銃を抜いた。
「須川さん無理するな!」
「今無理しなきゃ全員死ぬだろうが」
しかし須川は銃を持ち上げるのもままならないようだった。手に穴が空きそこに異物が突き刺さったままでいるのが、気合いでどうこうできるわけがない。
行き詰まりの絶望を感じて目眩がしたとき、矢至はいつの間にかすぐ近くまで来ていた山彦の言葉を聞いた。
「僕が、全部間違えたんだな……」
山彦の方を振り向くと、山彦は銛の先だけを握り締めていた。先程須川の手に刺さっていたのを矢至が撃って落としたものだ。いつの間にか拾っていたらしいそれを、山彦は自分の首に向けた。
「止めろ!」
駆け出すも間に合わず、山彦は首の横に銛の先を突き立てた。首から血が細く飛び出し、砂に染みこんでいく。
止血しようと首に近づいた矢至を、山彦は思い切り突き飛ばした。
目に砂が入り込んで矢至は思わず目を瞑る。異物感に涙が溢れ視界が滲んだ。どうにか立ち上がり視界がクリアになっていく中で見えたのは、体のほとんどを鱗に覆われた山彦の姿だった。
風が吹いて舞い上がった砂が、山彦の白い鱗に絡まるように渦を巻く。四肢はまだ人間の形を取っているが、鱗に覆われていない箇所といえば時折口から出てくる二股に分かれた舌ぐらいだ。
後悔も悲しみも感じてないような真っ黒い滴の目は、水喜だけをつぶさに見ていた。
喉に刺さった銛を山彦は抜いた。体の構造が変わりつつあるのか、血は先程のように吹き出してこない。銛を手にした山彦は水喜の元へ走り、そして平らな頭に銛を突き刺した。身をもだえさせた水喜は尾を砂浜に打ち付ける。癇癪を起こしたようにのたうち回る水喜の体は何度も山彦を砂に叩きつけたが、山彦は決して突き立てた銛を離さなかった。二人の泥で汚れたような色が混じっている白い鱗は、徐々に赤く染まっていく。
蛇が絡まり合っているようだと、矢至は頭の傍らでそう考えながら山彦と水喜を見ていた。荒い呼吸が聞こえてきて見上げれば、須川も矢至の隣で二人を見ているところだった。
「須川さん、山彦は……」
須川は顔を歪め、静かに首を降った。
「ただでさえ遺骸を食ってから時間が経ちすぎてたんだ。更にあんな負傷を重ねられたら、恐らく手遅れだ。遺骸が胃に根付いてる可能性が高い。」
矢至は唇を噛みしめながら山彦の方を向いた。水喜が暴れるうちに二人は波打ち際まで移動している。水喜の動きは徐々に鈍くなっていく。顛末を見届けるため、矢至と須川は目を逸らさなかった。
やがて水喜はのたうち回ることをやめ、波打ち際で頭を海水につけた。
時折体を痙攣させる水喜は、山彦が銛の先を突き刺してる頭部を一度だけもたげさせ辺りを見回し、そして海水を飛沫させながら崩れ落ちた。
須川がその骸の傍に駆け寄っていき、矢至もその後を追いかける。矢至達が近づいても、波が体に打ち付けても、水喜の体が動くことは少しもなかった。
頭部に視線を移すと、山彦が水喜の頭を覆うようにぐったりとしている。人の姿に戻ったのか、服の隙間から窺える肌に鱗は見受けられない。ただ、砂と血と流木の破片がこびり付いている頬からは色が失せ、呼吸に合わせ上下する背中は浅くゆっくりと動いていた。
矢至と須川は暗い顔で山彦の傍へ行った。
「なんで……」
矢至の問いかけに山彦は目を瞑った。山彦の手は、何度も水喜の鱗を撫でている。
「水喜さんは、優しい人だった。誰かを恨むことはあっても、それを原動力に人を傷つけることができない人だった。そんな彼女が好きだった。守りたかったんだ……」
弱々しく声を震わせる山彦の首筋を覆うように、皮膚が鱗へと変わっていく。
「彼女と真正面から向き合おうとしなかったからこうなったんだろうね。僕は、意気地なしだったんだよ……」
そして山彦は訴えかけるような視線を須川に投げた。その瞳孔でさえ徐々に形を変えていく。
「閉じる瞼が残ってるうちに、お願いします」
須川は短く息を吐き左手に巻かれていたネクタイを口で外すと、山彦の傍に屈んだ。震える手は必死に銃を握っている。手に空いた穴から垂れる血で銃は滑り落ちそうになっていた。
須川は自分の手から出る血が山彦に垂れないように気遣いながら、首筋に触れた。矢至も傍に屈み、同じように脈打つ箇所に触れる。
皮膚の向こう側で、懸命に流れる血液の流れを指先に感じた。
「大丈夫だ、一瞬で終わる。俺につけた傷のことは閻魔にでも怒られればそれでチャラだ。あとはゆっくり水喜さんと腹割って話してきな」
須川の穏やかな声に、山彦は瞼を下ろした。瞼の間から涙がこぼれ落ち、砂のこびり付いた頬に滴が落ちた跡がつく。
「ごめんなさい……」
五本の指先は一つに合わさり始めている。山彦の謝罪が果たして誰に向けられたものなのか、確かめる時間はなさそうだった。山彦が人間の心を残しているうちに、終わらせないといけないからだ。
「須川さん、俺が」
頑なに首を横に振った須川は左手で銃を構える。右手の人差し指を引き金に通すと、通した指先を強く噛んだ。銃口を山彦の鼻の先に押しつけた直後に身を引く。乾いた破裂音が砂浜に響き渡り、山彦の顔の真ん中にはぽっかりと穴が空いた。
引き金を引き終えるまで、須川の銃を構えた左手は少しもブレなかった。
「あれ、その人、さっきの……」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、先程逃がした筈の二人組が戻ってきていた。
「なんで戻ってきたんだよ、危ないだろ」
矢至が帰るよう促すが、二人の視線は砂浜に横たわる水喜と山彦の骸、そして須川に向けられていた。
「とっさに逃げちゃったけど落ち着いてきたら貴方たちは大丈夫なのかなって心配になってそれで……その、銃声みたいな音もしたし」
二人は山彦の変貌した姿を見て、二人組は全てではないにしろ何かがあったことを察したんだろう。非難する声は上げなかったものの、二人分の怯えと恐れを含んだ目が須川に向けられていた。
須川はゆっくり立ち上がると、銃と手の傷を隠しながら二人の前に立った。
「警察も呼びますので、この場は大丈夫です。お二人には事情聴取があるでしょうから、連絡の為の電話番号をそこの若いのに渡して下さい。よろしくお願いします」
事務的な雰囲気で語る須川に気圧されたのか、二人組は電話番号を渡すと砂浜から離れていった。
「須川さん、手……」
「先に警察と救急に電話しろ。その後でいい」
須川はそれきり山彦と水喜の亡骸に視線を向けた。矢至はできるだけ急いで連絡を済ませると、須川の元へ行き、穴の空いた手を見た。銛の柄が抜けずに残っているので出血量はそこまで多くはないが、痛々しい見た目をしている。先程巻き付けていたネクタイは須川が外したあと砂浜に落ちたせいで砂が付着し汚れてしまっていた。
須川は疲労と、あとはやるせなさに溺れそうになっている目をしていた。
砂浜には波の音が繰り返され、虚しさと少しの哀悼の空気が満ちていた。やがてその静寂に割り込むような救急車のサイレンの音が訪れる。須川の手の傷を眺めることしかできていなかった矢至は、ようやく少しだけ安堵することができた。
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