実家と川上之嘆 3
ぶちん。みちみち、ぶち。
硬い何かが自分に突き立てられ、体の一部がなくなっていく。咀嚼音がしてから、また不快な音がした。
みちっ、ぶち、ごくん。
食べられている。こちらの体をちぎっては咀嚼する相手の顔を矢至は見上げる。醜い物だった。湧き上がる飢えを満たすことしか考えていない。歯を突き立て肉を咀嚼する、本能に従うだけの生き物。その生き物は、自分だった。青紫の唇を震わせ、酷くギラついた目で飢えを満たすように咀嚼し続けている。
手を動かした。動いたのは五本の指ではなく、白い翼だった。白い羽根が日の光を淡く反射し、青紫の光沢を浮かべていた。体の一部が今は開かれ、晒してはいけない臓物を晒している。赤く縁取られた口が腹に近づき、肉の一部を持って行った。白い羽根が、赤黒く汚れていった。
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矢至は跳ね上がるように起き上がった。過呼吸に近い呼吸を肺が勝手に繰り返す。混乱する意識の中、寝間着のスウェットが背中に張り付いているのだけが分かった。部屋の中は物の輪郭が薄く分かるぐらいの明るさしかないが、仏壇と天井間際に並んでいる遺影と、隣に敷かれた布団で動く人影を見て、脳がようやく夢から覚め始めた。
「矢至……? どうした」
「夢見が、最悪だっただけだ。クソ……」
悪態を吐き捨てても疾走した後のような心臓は少しも変わらない。布団を引くために端の方に寄せられたテーブルの方に向かい、そこに置いておいた煙草の箱に手を伸ばした。パニックを起こしかけた意識のままライターの着火を試みるが、指が震えている上に手汗で滑って上手くいかない。
ヤケクソ気味に舌打ちをすると須川が布団から起き上がってきた。ライターを抜き取られ、火が点けられる。
空気を欲するように、矢至は煙草を近づけた。
「大丈夫かよ」
「あ? これ俺のじゃない」
矢至は暗い部屋の中で、ゆっくりと煙を吐き出してから呟いた。須川が照明の紐に手を伸ばし灯りを付ける。矢至が抜き取った煙草は須川のもので、その隣矢至の煙草の箱が置かれていた。
「……この分は後で返す」
「年下に一本をたかるほど飢えてねえよ」
「……変なこと言うな」
「は?何がだ」
飢えという言葉が悪夢を蘇らせて矢至は項垂れた。
須川はため息をつくと部屋から出て行った。一人取り残された部屋で無意味に頭を振る。半端に伸びた髪がうざったらしかったからだ。呼吸自体は段々と落ち着いて来たものの一向に気分の悪さが拭えない。服も髪も周りの空気でさせも、重苦しく感じた。畳と煙草の匂いだけが意識を支えてくれている感覚がする。
聞き慣れた足音が近づいてきて、襖が開けられた。戻ってきた須川の手にはコップがある。水がなみなみと注がれているのを渡され、引ったくるように受け取った。
「顔色が青いのに悪いんだが、寝直す時間はなさそうだ。日が昇ってきてる」
矢至は部屋の外に視線を向けた。須川が入ってきたまま開け放たれている襖の向こうの空はまだほとんどが暗いが、山の際辺りから色が付き始めている。
「行けそうか」
「行かなきゃ駄目だろ。調子が悪いわけでもない、大丈夫」
夜明けの空を、烏が喚きながら横切っていく。奔放な飛翔を眺めながら、矢至は腹を押えた。
前向きに生きようと思っていても、あの白い烏の肉を食ってしまったことに罪悪感を感じているのは変わり無い。だからあんな夢を見たんだろう。
矢至は煙草を強めに灰皿に押しつけ、悪夢の余韻を脱ぎ捨てるように着替え始めた。
もたもたしている時間は無い。今もあの山のどこかに、須川の姉を殺した人物がいるかもしれないから。
視界を濁すような霧が周囲に立ちこめている。日が昇ってきているとはいえまだ周囲は薄暗く、足元が全く見えないわけではないがうっかりしていると足を滑らせそうになった。腐ってぐずぐずになった木の葉を踏んでバランスを崩す度に、須川は矢至の襟を引っ掴んでいた。
離れた所から見るとただの荒れ山も、足を踏み入れてみると山道はしっかりと整えられている。矢至は懐中電灯で先を照らす鹿倉の後を追いかけた。
「鹿倉さん、流石に慣れてるな」
「あまり大股で歩かない方がいいですよ。十分過ぎるぐらい足元を確かめながら歩いて下さい」
鹿倉はシャツの上からベストを着て猟銃を背負っていた。須川や鹿倉よりも動きやすい格好なのに何度も躓く自分を情けなく思いながら歩を進める。ある程度進んでから、矢至は須川の背を突いた。
「なあ、さっきから何きょろきょろしてるんだ?」
「いや、ずっとこの山には来てなかったんだがな、割と整ってんなって」
山道のすぐ脇は斜面になっている。霧で底が見えない藪を須川は眺めた。
「これでか? 俺は何回も転び掛けたぞ」
「慣れてないからだろ。山歩きは遭難して以来か?」
「そういやそうだな」
矢至は相づちを打ち考え込んだ。デタラメな地図を渡され遭難した時の記憶は今だって思い出したくはないが、ある程度時間が経ったおかげか以前と比べて落ち着いて思い出すことができる。といっても思い出すのは飢えと寒さぐらいしかなかった。
「二人とも静かに」
前を歩いていた鹿倉が後ろ手で矢至と須川を制止させる。懐中電灯の明かりを消すと、斜面とは反対側の茂みを指差した。耳を澄ますと、枝を踏む音が僅かに聞こえる。
山道から外れ、鹿倉が指差した茂みに身を隠した。ズボンに朝露が染み込み冷えていく。死体遺棄事件に関わりがある男は長身の汚いキャップを被った男だったはずだ。もしその人物だったら。
矢至が生唾を飲んだとき、山道の奥の方からゆらゆらと揺れる光源が見え始めた。歩きに合わせて上下する光は、段々と眩しさを増し近づいてくる。現われたのは恐らくまだ学生だと思わしき若い男だった。帽子は被ってなく、パサついた金髪が見える。耳にはピアスが何個も付いていた。
あまり健全な印象は受けられない。
「須川さん、あいつ」
「霧が濃くて見えづらいな……」
「ほんとかよ? 若い男だけど、キャップは被ってないしピアスを何個も点けてる。死体遺棄の方じゃなくて囮にされてる方じゃないか?」
「よく見えるな」
男はしきりに周りを見渡しながら山道を進んでいく。須川は立ち上がると、茂みから出て躊躇うことなく男に近づいた。
「ちょっといいか!」
「うわ!? なんだよいきなり」
男は脇から急に出てきたスーツを着た人物に、目を見開き声を出して驚いた。
無理もないと矢至は思った。自分が同じ立場だったら同じ反応をしただろう。
いっそ不憫さを感じながら、矢至とは須川の後を追った。少し遅れて鹿倉も茂みから出てくる。増えた人物に、男は恐怖心からか酷く狼狽え始めた。パサついた金髪で眉が無い男の風貌はパッと見チンピラだが、須川がいつものように険しい表情で話しかけたのでその圧に若干気圧されている。
「この辺で不審な人物が目撃されているらしい。話を聞きたいんだが」
「なんなんだよあんたら。警官か?」
「違う。管理局の人間だ」
「管理局? 知らねえなどこの誰だよ」
「じゃあこういえば分かるか? お前、妙な肉に覚えはないか」
男は息を止め顔を青ざめさせた。図星というのはこういうことを言うんだろう。
「須川さん、聞き方が尋問じみてるぞ」
「仕方ねえだろ、こうでもしないと分かんねえんだから」
「だとしてももうちょい力を抜」
言い終える前に、矢至は横に吹っ飛んだ。矢至を突き飛ばした須川は体勢を整えると、ナイフを持って突進してきた男に向き合う。刃の先が赤く濡れていた。遅れて矢至の二の腕に痛みが走る。
須川は男の懐に飛び込み腕をひねった。短い苦悶の声が上がった後ナイフが地面に落ちる。矢至は駆け出し、ナイフを遠くに蹴飛ばした。
「俺はただ肉を食っただけだ、なんもしてねえだろ!」
「たった今傷害罪背負ったんだよ! 遺骸吐き出させたらすぐに警察に引き渡すからな」
須川に取り押さえられながら男は喚く。拘束を振りほどこうと暴れる男に須川は動じてはないものの、どうすべきか考えあぐねているようだった。見かねた鹿倉が男に近づいていく。分かりやすい銃器を背負った鹿倉に。男は悲鳴じみた声を上げた。
「私が背負っているものがあなたの額に押しつけられてないうちに大人しくして下さい。遺骸を食べたことに後ろめたさがあるから暴れたんでしょうが、経緯や理由は後ほど聞きますので」
鹿倉の脅しに男は身を固め、短く息を漏らす。引き攣った顔のまま、大人しくなった。
「名前は」
「か、
「分かりました。大人しくしてて下さいね。矢至君、腕大丈夫ですか?」
寄ってきた鹿倉に矢至は身を強張らせる。鹿倉の声色が男を脅していた時とあまり変わらないのが余計恐ろしかった。
「鹿倉、矢至の方はどんな具合だ」
「血は出てますが、本人が言った通りあまり深くはないですね。須川さんが突き飛ばしたお陰です」
「……危なかったわけか。助かったよ」
須川は曖昧に頷くと、男を拘束したまま矢至の傍に寄り傷を観察した。何かに気付いたように動きが止まる。
「矢至君の傷を応急処置できるような物が今ないので、須川さんの家に一旦戻った方が良さそうですね」
「いや、俺は大したことない。それよりこいつを保護、というか引き渡しというか……とにかくそっちをしなきゃいけないんじゃないか?」
「……おかしい」
「え?」
須川は辺りを見回した。昇ってきた太陽の光によって木々の輪郭は先程よりもはっきりしている。松の木に絡みついているツタウルシが風で葉を揺らしていた。
矢至も同じように見回したが特に変わった様子は感じられず、ただの山の風景がそこに広がっているだけだった。
「どうしたんだよ、なんも変なことなんてないだろ」
「それがおかしいんだよ」
呆然と立ち尽くしている加志に、須川は射殺すような視線で詰め寄った。
「お前、監視役に何をした!」
「監視役!? 知らねえよ、そんなの付けやがってたのかよ!」
「須川さん、何言ってんだ?」
「親父が言ってただろ、監視役を付けてあるって! 何でこいつを拘束してんのに気配が全くしねえんだ」
昨晩の桐一の言葉をようやく思い出した。確かに監視役の姿は見当たらない。
矢至は加志が歩いてきた方へ足を踏み出す。顔のすぐ近くで、何かがうねった。
風を切る音がして何かが飛んできたのだと理解する前に後方から呻き声があがる。振り返ると、加志の肩から血が流れている。加志の後方の木には、矢至が蹴飛ばしたはずのナイフが突き刺さっていた。シャツに血が滲み始め、刃から滴が伝って落ちる。
「あら、なんだ外れか。首狙ったんだけどなあ」
枝を踏む音がした後、霧の向こうから一人の男が現われた。男は長身で、泥の付いたキャップを深く被っている。周囲の空気がヒリついた。矢至も男の風貌とこんな状況でも薄ら笑いを浮かべている異質さに息を呑む。
死体遺棄の件に関わりがあるとされている男だ。
この山の中で、男は薄い長袖にジーパンとまるでコンビニにでも来たかのような格好をしていた。周囲の光景から浮き立っている中でも一際目に付いたのが、肩に担いでいる猟銃だった。紐で猟銃を肩に掛けている鹿倉と違って、抜き身のまま鷲掴みにしている。そこに弾が入っているのか否か、判別がまるで付かない矢至は顔を引き攣らせた。
「須川さん、こいつ」
乾いた喉から出た声は掠れている。矢至は浅く息を吐き出しながら、少しずつ後ろに下がっていった。長髪の男は矢至の方に銃口を向けることなく、鳥の水浴びを観察でもするみたいに微笑を浮かべている。矢至は須川のところまで後退した後、呻き声を上げる男の傍まで近づいた。
「矢至、加志は祟化の兆候は出てねえか」
「ああ、まだなんとも」
「それぐらいじゃどうってことないだろ」
軽くそう言い放った男を、須川は飛びかかる寸前の猟犬のような雰囲気を出しながら睨み付けた。
「首から下を全部骨だけにした変死体。覚えはあるか。」
「あー……、そこの怪我したガキはそのままでいいのか?」
「質問に答えろ」
「そう怒んなって。ちゃんと気になってることには答えるって」
長髪の男は目を三日月のように細めると、寒気がするような薄ら笑いを浮かべた。
「数は途中から数えられなくなったけどよ、確かに俺だよ、やったのは。遺骸を食わせる、祟化させる、殺す。全部な。これでいいか? 診鶴君よ」
男は青白い顔を傾けた。目を見開いた須川の顔を、興味深く観察しているようだった。
なぜこいつが須川の名前を知っているか。理由は一つしか考えられない。
矢至は息を呑んだ。
「姉貴のこともよく知ってるよ。ちゃんと墓参りはしてたか?」
須川の姉を殺したのも、こいつだ。
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