第2話 フォークと絶望
国家保安隊員の青年が恋人に殺されたのとほぼ時を同じくして、城下第8ノモスのとある集落。人っ子ひとり見当たらない通りを乾いた風が吹き抜けていった。そこに立ち尽くすそばかす顔で小柄だが筋肉質な一人の青年。名を、シュリ・ゲーゲンベルクと言う。彼の目は変わり果ててしまった故郷を前に大きく見開かれていた。
もともと頑丈なつくりではない家々は大きく壊れ、今にも崩れそうなものもある。そして人の気配は全くなかった。
ヒュッ、と青年の喉が鳴る。蒼い顔で涙を浮かべ自らを落ち着かせようと速い呼吸を繰り返す青年は、こうなってしまった今となっては無意味だが、現実を受け止めきれず自分の故郷がどうしてこうなったのかひたすら問うていた。
どうして…こんなことに?オレがいない間に何が起きた…?竜巻か?それとも
「おい、誰か!!いたら返事をしてくれ…!!」
シュリの声は虚しく響くだけで、彼の声に対する返事はなかった。
まさか、全滅なのか…?ふとそんな恐ろしい考えが頭に浮かぶ。いや、まだだ。シュリは不吉な考えを振り払うように頭を振った。まだだ。探せば誰かがいるはずだ。何が起きたにしろ、全滅はないだろう。きっと、いや絶対、みんな生き残ってどこか他の安全なところに身を寄せ生活を再建しようとしているのかもしれない。そう思ってふらつく足でどうにか近くにあった家に転がり込む。
びちゃん。家に入った瞬間、足を水たまりに突っ込んでしまった。
「ったく、雨漏りしてんならふさげよな、オレ以外にも頼めるヤツはいるだろ」
ここに住んでいるのは独り身のばあさんで、オレはいつもこのばあさんに頼まれて買い物を手伝ったり雨漏りを修繕したりしていた。また新たに雨漏りでもしたか、と天井を見上げるが、それらしき跡はない。じゃあ、これは一体…?その時、ふわりと金属のような無遠慮で暴力的な香りが鼻腔を刺して、おそるおそる足元の「水溜まり」に目を落とす。
「…!!」
それは水溜まりなんかではくて、血溜まりだった。
心臓が嫌な感じドキリと鳴る。その音は耳の中でこだまする。
「ヒュッ、カヒュッ、…ガハッ、」
冷や汗がどっと吹き出し、胸が苦しくなる。目がちかちかする。
「っは、ばあさん!!なぁおいばあさん!!いるんなら返事しろ!!」
血が足元でびちゃびちゃズボンに跳ねかかるのも、薄暗く散乱した部屋の中物にぶつかるのも気にせずに血の海を超えて奥に進む。
ぶん、と耳元で嫌な羽音がする。それは奥に進むにつれて大きくなっていく。つん、と鼻腔を刺す嫌な臭いが濃くなった。こつん、と見覚えのある靴が自分の爪先にあたる。そこには…
「うあ゛っ、うわあ゛あ゛あ゛あ゛!!」
シュリは、さっきよりも激しく血を跳ね上げながら血の海を戻り家の外に出るとドアをバタンと閉め、もたせかかる。
今までにないくらい大きな音で心臓が鳴っている。
ばあさんは、死んでいた。見開かれたままとなった目は白く濁り一部身体が腐敗して崩れていた。そして何よりも、首がざっくりと切り裂かれていた。あれは、獣の仕業ではない。明らかに刃物で、人間の手によって殺されたのだ。…ラミ、カイ!!
シュリは、走った。狭い田舎道を転げるように足を縺れさせながら走った。心の中で自分のたった一人の家族である可愛い可愛い妹の名を呼びながら、世界でたった一人の親友の名を呼びながら走った。溢れる涙を振り払いながら走った。荒い息遣いが乾燥した生命を感じさせない静寂の中に吸い込まれていく。家々から流れ出た血を吸いこんでどす黒くなっている砂地にたったひとりの人間の足跡が伸びていく。
「ッ…!!」
見覚えのある顔、見覚えのある長めでさらさらな黒髪だった。毎日道を挟んで見ていた玄関のドアに力なくもたれかかっていた。唯一無二の親友は、無言でオレの帰りを迎えた。
「おい、カイ!!オレだ、帰って来たんだよ、オレ…。お前まで…なァ!!…っく、何とか言えよォ!!」
カイの左手には自らのシャツの裾を切って結んだのであろうナイフ。きっとカイはその時、異変を察して外に出て中にいる兄弟と母親を守るためにこの集落を襲った人間と対峙したのだろう。そして全身に傷を負いながら最期まで戦ったのだろう。だから、ドアを自分の体で庇うように死んだのだろう。ドアの前に座り込んだまま冷たくなっている親友の前にしゃがみ込んでその顔を見る。自分よりもはるかに強く、そして明確な殺意ある人間にたった一人で立ち向かうのは、怖かっただろう。死がどんどん近づいてくるのを感じながら背に家族を庇い立ち続けるのは、痛かっただろう、苦しかっただろう。それなのに、親友の顔には苦悶の表情は一切なかった。綺麗な切れ長の目が特徴だったその顔はまるで眠っているかのように穏やかだった。その目は二度と、開かれることも、オレを見ることもない。このまま、朽ちて自然に還っていくのみだ。
「…ッ、テメェ、なんって顔してやがる、悔しくないのかよ、やられておいてその顔はねェんじゃないのかよ…⁉やられた分はタダじゃおかねェ、っていつも言ってたじゃねェかよ…ッ、なんでっ、なんでオレを置いて死んじまうんだよ、オレたちいつも一緒なんじゃねェのかよ…!ふざけんじゃねェ、カイ!!」
オレとカイはいつも一緒だった。ここから少し行ったところにある缶詰工場に働きに行く時も、仕事を終えて帰路につく時も、帰り道の商店でひと瓶のキンッキンに冷えたサイダーを買う時も、路地裏でチンピラにケンカふっかける時もふっかけられる時も、チンピラの歯ァ折る時も。そんで一緒に怒られる時も。なんかよく分かんないけど、オレの方が怒られるんだよなぁ、オレよりも歯ァ折ってたのはお前なのに。
唯一、一緒じゃなかったのは、オレがワケあって街に出た時だ。街で賞金首と呼ばれる指名手配犯を捕まえ警察に引き渡すことで渡される報酬金をどっさり持って帰って来るつもりだった。そしてその後はまた、カイと缶詰工場で働こうと思っていた。
「なァカイ。お前をこんな目に遭わせたのは一体誰だ?オレが見つけ出して、そいつの歯ァ全部引っこ抜いてお前の墓前に供えてやるよ…」
今にでも、「別に俺ァ歯が好きだったワケじゃない、野郎の歯なんざ、要らねェよ」とカイは言い出しそうだったがもうそれも叶わない。
「最後にお前ともう一回話したかったなァ…オレ、お前にずっと謝りたかったんだよ…」
カイの顔についた血痕を指でそっと拭ってやった。
「ほら、これで村いちばんの男前に元通りだ。オレは、ラミに会ってくるよ」
そう言って立ち上がると向かいにあるオレの家に入る。もうこの時には心は妙に静まってしまった。兄弟も同然であったカイの受け容れがたい死に直面してしまったせいで、その他の死を受け容れる心構えができてしまったのかもしれない。
歪んだ自分の家のドアを苦戦しながらも開ける。
「ラミ、ただいま。兄ちゃん、帰ったぞ」
そう言った瞬間、在りし日が昨日のことのようにありありと蘇った。
***
「ラミ、ただいま。兄ちゃん、帰ったぞ」
「おかえり、お兄ちゃん。ラミ、ずっと待ってたよ。今日はけがしてないんだね」
家族は、七つ離れた妹のラミだけ。母親は数年前に病死、父親はもとからいなかった。
「まァな、今日はオレとカイに喧嘩売ってくる命知らずの連中はいなかったからな」
この村は、都会からは遠く離れた田舎中の田舎だ。ぱっとした娯楽なんてあるはずがない。やることと言えば、喧嘩とかそんなことしかなかった。だから体力有り余る若者は、街に出稼ぎに行くほかはこぞって喧嘩した。喧嘩といってもハードめなじゃれ合いくらいなもので、力加減はしっかりとしていた。知的産業なんてあったもんじゃない、農作業、工場での労働等々肉体労働ベースの社会では相手を再起不能にすることは御法度中の御法度だったからだ。
「もうっ、ラミ、ケンカするお兄ちゃんきらーい」
「ははっ、嫌いか?兄ちゃん、傷ついちゃうなァ」
「んーん、お兄ちゃん大好き!」
「兄ちゃん、工場で頑張って働いて、ラミになんでも好きなもの買ってやるからな」
妹は、決して豊かではないなにかと不自由なことが多い暮らしの中でオレの生きがいだった。それなのに。
***
「もーっ、けんかしちゃダメ、ってラミ言ったのに!!お兄ちゃんのバカッ、」
「えーその、スミマセン」
そう言われてしまうともうこう言うしかない。怒る妹を前に縮こまるオレの横でカイのやつは悪びれもせずに笑っている。コイツは、オレが喧嘩してけがをして帰るとラミが一定期間口を聞いてくれなくなることの恐ろしさを知らないから笑っていられるんだ。
「カイお兄ちゃんも!一緒にいたなら止めてよ!!」
「あのなァ、ラミ…」
オレよりもコイツの方が率先して暴れてるんだぞ…。カイはずるい。村の女の子たちの誰もが惚れるような爽やかで甘いマスクのせいで、こういう時にカイではなくむしろオレが先に喧嘩を買ったと思われがちなんだ。
「はっはっはっ、それはそれはラミ嬢、失礼しましたー」
これもカイの常套手段である。爽やかな笑みですぐさま相手の怒りを鎮め、まぁいっか、と思わせてしまう。カイは男兄弟で、家には母親の他に女はいないはずなのに妙に女の扱いがうまくてツラがいいのがたまにオレのハートにかなり突き刺さる。
「ほらっ、お兄ちゃん動かないで!」
ラミときたら本当に容赦がない。消毒はいつも沁みるったらない。
「痛ってェ!容赦してくれよ」
「お兄ちゃんがけんかするからでしょ!」
ラミは目を合わせてくれない。こりゃ大変だ。今回は機嫌が直るまで一週間コースだぞ。ラミがオレの額に絆創膏をぺちん、と貼る。
「ったぁ…!」
額を押さえて涙目で悶絶するオレをよそにラミはにこにこと脱脂綿に消毒液を浸している。「ゴゴゴゴゴゴ…」という効果音が聞こえそうな気がする。
「次はカイお兄ちゃんね!」
大抵なことでは動揺しないカイの顔が引き攣った。いい気味だ。
「いやぁ、ラミ嬢、俺は家に消毒液あっから…」
「なんだよ、水臭いじゃねェかよ、なァ、カイ?」
逃げようとするカイの腕をオレががっちり掴む。
「ははは…」
「カイお兄ちゃん、痛くなーい?」
決していい意味ではない黒いニコニコ笑いを浮かべながらラミが言う。
「あ゛っ、ああ…痛ッ、くねェよ。優しいなァ、ラミ嬢は…」
カイが涙目になっている気がする。こんな表情は見たことがない。ちょっと気の毒になってきたかもしれない。
***
「お兄ちゃん聞いて!ラミはね、将来お嫁さんになるの!」
朝食の席で突拍子もなくラミはそう言った。昨日、結婚式をやっているところを通り過ぎて花嫁のドレスを見たからそう言いだしたのだろう。
「へぇ、お嫁サン、ねェ。誰のだ?」
「カイお兄ちゃん!」
「…は、」
一瞬意識がどこかに行って手からぽろりとフォークが落ちカラーンと音を立てる。
「はっ!!ダメだ、アイツだけはダメだ!!いいヤツだけど…オレのラミが…ああ…オレの心が保たん!!」
***
「…なんてことがあってさ」
工場の従業員用の食堂のカレーをつつきながらがっくりと項垂れた。
「よろしくお願いします、お義兄サマ」
「よーし、カイ。ちょっと表出ようか」
「おいおい、冗談だって。そのくらいの女の子なんてそうやって言うもんじゃないか。『将来はお父さんと結婚する!』みたいなさ。ラミ嬢にとってはその身近な男が俺だったってだけだろ。他意なんざないよ」
「だったら…だったら…『お兄ちゃんと結婚する!』とかでいいだろうがよォ」
「あー…まァほらあれだよ、いつかそういう日も来るって。お前だってラミ嬢には幸せになって欲しいだろ?」
「そうだよ⁉そうだけどさぁ…なんかフクザツ…。オレのちっちゃくて可愛いラミがいつか嫁に行っちまうと思うとオレは…そんじょそこらのぽっと出の野郎にくれてやるかよ…」
「…」
「オレよりも弱いヤツは認めん!決闘でオレに勝ったヤツしか認めん!」
「…めんどくさいお兄ちゃんムーブしてると嫌われっぞ。なんなら結婚してから事後報告かもしれないぞ?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、ラミィィィ、お兄ちゃんを捨てないでくれぇぇぇぇぇっ」
「えっ、ちょっ、おっ、おい」
***
「おう、じっちゃん、ばっちゃん、どうした」
ある日、オレが缶詰工場から帰ると隣の家に住んでいる老夫婦がなにやら心配そうな顔でオレの家の前で落ち着きなく待っていた。彼らはオレやラミとは血は繋がっていないものの、うちの母親が死んだあとふたりきりになってしまったオレたち兄妹に良くしてくれた。
「ラミちゃんがねぇ、高熱出して倒れたんよ」
ばっちゃんがしわしわの顔を心配そうにもっとしわしわにさせながら言った。
「ラミッ…!」
ラミは赤い顔をしてベッドに横たわっていた。一目みただけで相当に高い熱なのだと分かる。
「おかえり、おにいちゃん。きょうはけがしてないんだね…」
弱々しく笑ってオレを見上げるラミの目には涙の膜が張っている。
「こんな時に兄ちゃんの心配なんかすんな、ラミ、兄ちゃんいなくってごめんなァ」
「ううん、ラミ、へーきだよ」
心配をかけまいとそう言う妹の姿に今までにないくらい胸が痛んだ。できることなら、兄ちゃんが代わってやりたい…。
「安心しろ、ラミ。兄ちゃんがすぐに医者呼んでやるから」
汗ばんで驚くほど熱いラミの額を撫でる。
「じっちゃん、ばっちゃん。オレは医者を呼びに行くからラミを頼んでいいか?」
「ああ、気をつけるんだよ」
「悪ィ、」
オレは一目散に駆けだした。一刻でも早くラミに医者を、早く楽にしてあげたい。貧しいこの集落には医者なんかいない。だから医者を呼ぶには隣町に行くしかない。安くて使い古されに古された靴の底は走るうちになくなって、靴はあっという間に使い物にならなくなった。オレは無我夢中で靴を脱ぎ捨てて裸足で走った。足の裏が血だらけになっても、そんなことはどうでもよかった。一刻でも早くラミに医者を、早く楽にしてあげたい。この時のオレは、そのことばかりでこの世の真理に目が向いていなかった。
隣町についたころには真夜中に近かった。オレはやっとの思いで医者の家の戸を叩く。
「助けてくれ…、オレの妹…ラミを助けてください…!」
永遠にも思える間の後、ようやく扉がゆっくりと開き始めた。オレはそれを待ちきれず、ドアをぐいっと開けた。しかし、かけられたのは思ってもみなかった言葉だった。それは、オレにこの世の真理を嫌というほど突き付けた。
「今、何時だと思っている?」
医者はオレを冷たい目で見下ろした。その視線の冷たさ、鋭さに一瞬怯んだ。
「真夜中だってのは重々分かってる、でもっ、妹が病気なんだ、今すぐ助けてくれよ!!」
「百万マルだ」
「は…?」
目の飛び出るような額に思わず耳を疑った。生まれてこの方、そんな大金を目にしたことはおろか、耳にしたこともなかった。もちろん手にしたこともない。オレの工場での給料は一日十マルだ。
「治療費に加え、薬代、出張代、夜間料金」
「あの、オレお金持ってなくて…オレん家貧乏で…」
「残念だが
「おい医者っ、お前らは助けるのが仕事だろう⁉」
「そう、仕事だ。仕事とはカネを貰ってやるものだ。困ってりゃ誰でも助ける慈善活動とは違う」
「ふざけんな、命よりもカネかよ!!」
「命、命とお前は言うが、こちらの治療に対して対価を支払ってくれない人間も全員助けていれば、こちらの生活が、命がない。それでもお前は自分の妹の命を助けようと?」
「そんなこと…」
「第一、カネも払えないような貧乏人を助けてやる義理はない。そういう連中は何かしら理由があるんだ。そしてたいていそれはロクでもない。そんな人間はさっさと野垂れ死ねばいい。そうすりゃこの世ももっと良くなるだろうよ」
「…ッ、テメェ…!好き勝手言いやがって…!オレたちは好きで貧乏なんじゃねェ…!悪いことをした覚えもねェ…!」
「話は終わりだ。とっとと消えろ、でなきゃ迷惑料取るからな」
鼻先でドアがぴしゃりと固く閉ざされる。それは、まるでラミの未来をも閉ざしているようだった。オレは、その場に崩れ落ちた。
悔しくて悔しくてその場でうずくまって泣いた。もしも、貧乏でなかったら、今頃医者はいそいそと診療道具をまとめてこの戸から出て、ラミは明日の朝には薬を貰って安らかにぐっすり眠っていただろう。好きで貧乏なんじゃない。ラミだって好きで貧乏の家に生まれてきたわけではない。カネがなきゃ生きていけない。どれだけ困っていても誰も助けちゃくれない。貧乏ってだけで軽蔑の対象となる。誰も、自分がもしその立場だったら、だなんて考えもしない。自分がもっているものを誰もがもっている当たり前のものだと思って無頓着にそれを消費し時に浪費もする。それが、この世の真理。
「あっ、おいおい!探したんだ」
遠くからよく知った声と自転車の灯が近づいて来る。カイだった。きっとじっちゃんとばっちゃんがなかなか帰って来ないオレを心配して、それを見たカイが迎えに来てくれたのだろう。キキーッ、と音を立てて古ぼけた荷台つきの自転車が目の前に止まった。
「裏のおっさんにわけ話して借りてきたんだ。立てるか…ってその足!靴はどうした」
「途中で使い物にならなくなったから脱ぎ捨てて来た」
「ハァーッ…」
カイが頭を抱えて特大の溜息をつく。
「まったくお前は無茶するな…まァいい、乗れ。俺が漕いでってやる。こういう時は頼れよ、友達だろう?」
オレは荷台に乗り、帰る道中で事の顛末を話した。それをカイは黙って聞いていた。カイは一度もこちらを振り向かなかった。きっと情けなく涙でぐしゃぐしゃになったオレの顔を見ないという気遣いなのだろう。
「じゃあ…カネ稼いで少しでも安く診てくれる医者を探すしかないだろうな」
カイは静かに言った。
***
「オレ、
オレがこんなことを言いだしたのはもちろん、ラミの医療費を稼ぐためだ。ラミが倒れてから三ヶ月が経とうとしていた。オレはカネを貯めるために食を切り詰めた。今ではそれを見かねたカイの母ちゃんの申し出でオレはカイの家でご馳走にっている。じっちゃんやばっちゃんに協力してもらいながらラミの看病をしても、回復の兆しは見えない。カイの家だって経済的に余裕があるわけではないからいつまでもご馳走になるわけにはいかない。オレが缶詰工場で働いてもカネは一向に貯まらない。ほとんどが生活費に消えてしまう。だから学のない、喧嘩しか取り柄のないオレでも大金を稼ぐにはもうそれしかないのだ。そのためにオレは留守の間を頼もうとこの話をしたのだが、案の定ふたりとも良い顔をしなかった。
「なにも、そこまでしなくても…それに、あんたがいてくれる方がラミちゃんにとってもいいんじゃないかと思うけどねぇ…じいさんや」
「そうだねい」
「いいや、もうオレにはそれしかねェんだよ。じっちゃん、ばっちゃん、お願いだよ、ラミを頼むよ」
「そこまで言うなら…」
そう言いながらふたりは互いに困ったように顔を見合わせた。
***
「聞いたぜ、
その翌日、どこから聞きつけたのか、カイが言った。その目は工場の流れていくベルトコンベアーにじっと注がれていて、作業の手が止まることはなかった。
「ああ、そうだよ」
オレも作業の手を止めず隣にいるカイに目もくれずに返事した。
「なんでだよ」
カイはなおも話を続ける。
「決まってんだろ、ラミのためだ」
「本当にそう思ってんのかよ」
「思ってるよ」
「俺はそうは思わないが。ただでさえ病気で心が弱ってるのにその上兄貴がいなくなったらラミ嬢が可哀想だろ」
「でもカネがないばっかりに治る病気が治らなかったらそれこそ可哀想だろ」
「別に俺ァ、もっとカネを稼げる仕事に転職するのを咎めちゃいねェんだ。むしろ賛成だ。ただ、ラミ嬢置いて、この町離れてまでカネを稼ぐ必要はないんじゃないのか、って言ってんだ」
「お前には関係ない。オレが行くって決めたんだから行くんだよ」
「おい、考え直せよ。街の賞金首どもは普段俺たちが相手にしてる楽しい喧嘩仲間とはわけが違う」
「わぁってるよ、」
「いや、わかってないよ」
「あ゛?」
「お前が万が一にでも賞金首とやりあって死んでみろ、そしたらラミ嬢はどうなる⁉一生治らない傷を負わせるつもりかよ」
「オレが賞金首にほいほい殺されるとでも?」
「そうは言ってない。し、その…間に合わなかった時にお前が後悔するんじゃねぇの」
「おい、カイ・アッシュ、今なんて言った」
オレがいない間にラミが死ぬようなことがあるかのような物言いをしたカイにオレは我慢がならなくなって、カイの胸倉を掴み上げた。
「おいおい、いちいち食ってかかるのは止せよ」
オレに胸倉を掴み上げられたカイは呆れたような冷めたような嫌な表情をした。それがよりオレを苛立たせた。
「頭冷やしてよく考えろ、と俺は言ってるんだ。ラミ嬢のためにできることは何でもしたい、早く楽にしてやりたいって思う気持ちはよくわかるし、ラミ嬢が死なないって信じるのは結構。だがな、何が起こるかなんてわからないんだ。今まで運良くラミ嬢は悪化しなかったかもしれない。でもこれからもそうだっていう確証はない。最悪、お前がいない間にラミ嬢が力尽きちまうかもしれない。そうしたらラミ嬢が可哀想だろ!お前だって後悔するし、自分で自分を許せなくなるだろ!ただ妹のためを思って街に出て頑張っただけで何も間違ったことをしちゃいないお前が自分を責めるのは俺が…!嫌なんだよ」
「…」
さっき瞬間的に燃え上がった怒りが嘘のように引いていった。カイの胸倉を掴んだ手の力が緩んだ隙にカイはその手を振り払った。しかし、ほぼ八つ当たりのような態度をとってしまった以上、後には引けない感じがして謝罪を口にすることはできず、それよりも悪いことにオレは余計なことを言った。
「お前が心配することじゃない。他人なんだから」
カイの顔に傷ついたような表情がさっと現れたあと怒りが燃え上がった。やってしまった、という時にはもう遅かった。「もうこの話は終いにしようぜ、俺ももう何も言わないから」と言って足音荒く作業場を出て行ってしまったあとだった。これが、カイとオレの最後の会話らしい会話だった。それからは顔を合わせてもぎくしゃくとした挨拶かこれまたぎくしゃくした最低限の会話しかしなかった。
その一か月後、オレは
***
そうして今日、一年ぶりにオレは故郷に戻った。賞金首を家にあったフォーク一本で狩って狩って稼いだ千万マルを持って。オレが
寝室のドアが少し開いている。
「…!」
鼓動がいきなり騒ぎ出す。「サー」という音が聞こえそうな勢いで血の気が引いていくのが分かる。
「ラミ…ラミ…!」
死臭。
みすぼらしいが可愛らしいカーテン。
血の海。
いつもラミが伏していた小さなベッド。
壁に散った血飛沫。
ラミ。びっくりするほど、ツクリモノかと思うほど真っ白で見ただけで生物としての柔らかさや温かさを失っているのが分かる。
ラミの腕の中の、自分がいつか誕生日にプレゼントしたウサギのぬいぐるみと目が合った。
「ヒュッ、」
その瞬間、まざまざとラミの最期が脳裏に浮かんできた。
それは、あまりにも凄惨で苦しい、恐ろしいものだった。
「アッ、ガハッ、ハッ、うっ…!」
眩暈がする。うまく息ができず苦しくて咄嗟に自分の服の胸元が皺になるくらい強く掴む。顔の横をヘンな汗が流れ落ちていく。耳の中に心臓があるのかと思うほどに早まった鼓動がうるさい。鼓動に合わせて世界が揺れている。蹲って手をついた木の床に自分の目から熱い雫がぽたぽたと床に落ちる。
「ラミ…ごめんな…‼兄ちゃん…兄ちゃん…なんにもっ、分がっでなかった…‼独りにしてごめん…!!兄ちゃん、お前になんにも、なんにもっ!してやれながっだぁぁぁ」
どんな気持ちでラミはここで独りで死んだのだろう。自分を助けると言って、周囲の反対を押し切り待ちに出て、挙句本当に助けてほしかった時にはいなかった兄を恨んだだろうか。病に倒れ、挙句見知らぬ誰かに殺される自分の運命を憎んだだろうか。どれほど怖かっただろう。どれほど苦しかっただろうか。
もう、妹の声を聞くことも、その病気を治してやることもできない。食べたこともないようなうまいものを食わせてやることもできない。綺麗な服を買ってやることもできない。いつか、嫁に行くその日を見届けてやることもできない。
「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
悔しさ、悲しさ、不甲斐なさに任せて拳を床に叩きつけた。何度も。手が血塗れになるまで。床が割れて木片が散るまで。
なんのために。
なんのためにオレはラミを置いて街に出たのだろう。
こんなことになるんだったら、ラミをこんな風に独りで死なせることになるんだったら、置いてなんか行かなかった。街になんて行かなかった。地道に缶詰工場で働いてカネを貯めていたはずだったのに。ラミを助けるために身を切られるような思いでここを出たのに、助けられなかった。
許せない。自分が、許せない。許さない。
赦せない。犯人を赦せない。赦さない。犯人はオレが必ず見つけ出して必ず殺す。
静まり返った集落の、静まり返った家の中でぶん、と耳元で唸るような音がした。それは、蠅の羽音だった。ラミの可愛い顔の上に止まっている。オレと、蠅。それだけがいまここに在る命だ。
妹は、もういない。
蠅の羽音が、オレにより強くそう感じさせた。思い切り泣いて暴れたせいか、心は妙に静まり返ってしまっていた。
このままでは、体は何か月もかけて腐り崩れていくのだろう。死んでいるとはいえ、それでは苦しいだろう。あまりにも可哀想だろう。
「待ってろ、いまオレが楽にしてやる」
もうオレにできることはこれしかない。オレが、やらなくちゃいけない。
***
オレの故郷は殺された。
オレは心を殺して故郷を荼毘に付した。
オレは、自分の生まれ育った故郷がなくなっていくのを火の届かない高台から見ていた。
集落の端の家まで一軒一軒確かめて回ったが、生き残りはいなかった。カイを除き全員が喉をざっくり斬られて絶命していた。
集落の端の家に放った火が、もうオレの家にまで届きそうだ。二軒先の家が火の粉を上げながらスローモーションのように崩れ落ちて、火がじっちゃんとばっちゃんの家に燃え移る。じっちゃん、ばっちゃん、随分と世話ンなった。ありがとな。オレはまた出かけるから、ラミが寂しくないように側にいてやってくれるかな。じっちゃんとばっちゃんの家が轟音とともに崩れ落ちる。カイの家もそろそろ崩れそうだ。最期まで中にいる家族を守ろうと外でひとり戦ったカイの意思を尊重してカイの遺体は中に運ばずにそのままだ。赤い火が血の気を失って白いカイの顔を照らした。カイの家の裏口辺りが崩れ落ちた。もうすぐ火に飲み込まれるであろう親友の顔を目に焼き付けた。あんなこと言って本当にごめん。あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。本当は次の日にでも謝りたかったんだ。人の話も聞かないし、頑固で馬鹿なオレを許してくれるか?一発殴ってもいいからよ。でもなぁカイ、楽しかったなァ。朝から缶詰工場で働くのも、喧嘩ふっかけてきたやつに思い知らせてやるのも。今までも、これからもお前はオレの最高の親友だ。オレがこんなことした犯人を必ず見つけ出すから見ててくれよ。オレが瞬きをしたその瞬間にカイの家は崩れて一瞬にしてカイは瓦礫の下に消えた。火はとうとうオレの家に燃え移った。オレは自分が生まれ育った家が焦げ、焼けていくのから目を反らさなかった。ラミが寂しくないようにここでしっかり見送ってやることしか、もうできないからだ。ここでラミが生まれた日のこともつい昨日のことのように覚えている。ほら、と差し出した手を、生まれたばかりの触れただけでも壊れてしまいそうなちっちゃなラミが驚くほどの力で握り返してきたその日から妹がオレの全てとなった。ちょっとマセてて、近所でも有名なお転婆娘だった妹。外に出て友達と遊ぶこともできず、どれほどつらかっただろうか。あんな小さな子供にそんな運命を背負わせる神をオレは何度ぶん殴ってやりたい、と思ったかしれない。なのに…オレが治せる医者を連れてくることもできずに終わっちまった。家が赤々と火の粉を派手に巻き上げながらがらがら崩れて、亡き妹を護る墓となった。なァ、ラミ。兄ちゃんはまた出かけるから、じっちゃんとばっちゃんの言うこと聞いて待ってるんだぞ。今から始まるこの暗くて長くて痛い旅が終わったらオレもすぐそっちに逝くから。
春、一人の青年、或いは一人の兄は故郷を殺した犯人への復讐を胸に長くつらい旅に出た。
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