或る一皿
jessie -ジェシー-
第1話 沢崎家という屋敷
沢崎家は私にとって初めての、そして最後の出勤先だった。
その洋館は、沢崎一族がまるごと所有する鬱蒼とした木立の中に建っていた。私が同僚の運転する車の窓から初めてその屋敷を認めた時、屋敷は木々の向こうに重厚で立派そうな屋根の一部を覗かせる、私にとっては現実味のない風景に過ぎなかった。
「沢崎」の表札がかかった門はひと夏のあいだに丈を伸ばした草と低木にほとんど埋まりそうになっていた。黒い鉄格子の門扉は開いたまま蔦に絡め取られ、蝶番が錆びたのか具合悪そうに傾いている。車はその門を抜けて曲がりくねった私道を進み、着々と屋敷へ近づいていった。
前庭で車を降りた。所長が小柄な全身に力を込め、バンのドアを横に引いて閉める。その大きな音は屋敷を囲む庭に広がり、さらにその周囲の森に吸われて消えた。バンの横腹が、この車は児童養護施設の持ち物であることを主張している。私たちは通告の電話を受けてこの屋敷に駆け付けたのだった。
この屋敷の近所に住んでいると述べた女性は、電話口で語った。三ヶ月ほど前にこの屋敷の女主人が亡くなったのだが、彼女の子どもたちがまだ屋敷に取り残されているかもしれない、と。
確かに屋敷周辺の深い森に入る前、日本ではごくありふれた雰囲気の住宅街を通りすがった。電話主もあの家々のどれかひとつに暮らしているのかもしれない。だがよく子どもたちの存在を把握していたものだと思う。森に隔てられて、住宅街がらは屋形の屋根され見えないだろうに。
そうは言っても、一夫人の観察眼か詮索好きが、困難な状況に置かれている子どもを助けるかもしれない。そもそも通告の電話があったのだから、どちらにしろ私たちは現地へ向かわなければならない。所長がいたのは幸運だった。さまざまな判断が迅速にできる。
一方の私は緊張していた。私は通告のあった現場へ駆けつけるのは初めてだ。施設職員として採用されてからまだ半年ほど。私はこれまで、すでに施設に保護された子どもたちを世話することを主な仕事としていた。
屋敷は二階建てのようだった。この建物を構成する石のひとつひとつ、使われている部材のひとつひとつが良質なものの気配を纏って威厳を醸している。近づいた玄関扉は見たところ本物の木でできていた。扉には不気味な生物の頭部を模したと思われるノッカーなどついているし、脇には呼び鈴のボタンもある。所長が代表して呼び鈴を鳴らした。誰も出なかった。
所長を玄関に残し、私は同僚と共に立派な建物をぐるりと見て回る。屋敷の奥に広がる庭園は小学校の校庭を思い出させるほどの広さがあった。全面がふさふさとした芝生に覆われ、しかも綺麗に刈り揃えられている。遠くに、この庭園を縁取る森が見えた。振り返って屋敷に向き直れば、そこには澄んだ水の張られたプールがあった。小さいが、それでも七、八人程度は賑やかに遊べる大きさだろう。覗き込むと砂の一粒すら入っていない。まるでつい今しがた掃除を済ませ、水を張ったばかりのようだ。
目を上げて建物を見る。窓はどれも曇りなく磨きぬかれ、品よくたるみのつけられたレースカーテンがかけられている。放置されていたらこうはいくまい。屋敷は無人ではないと見える。少なくとも、庭や建物を手入れする人間が存在するはずだ。
所長が私たちを呼ぶ声が聞こえる。戻ってみると玄関扉が開いていた。というより、そもそも鍵などかかっていなかったらしい。
少し開いて中を確かめた。豪奢な玄関ホールがひっそりと存在していた。やはりここも綺麗だ。大理石の床が、天井に吊るされたシャンデリアを映すほど磨きぬかれている。この建物は徹底して洋風の造りだった。玄関ホールは平坦なまま奥の廊下に接続しており、およそ三和土と呼べる部分が見当たらない。
中に入ってすぐのところに二階へ続く階段が設けてあった。木目の美しい段差はL字に曲がりながら二階の暗がりへ消えている。私はその暗がりに吸い寄せられた。
階段の上部は暗くてよく見えない。だが暗闇に溶け込んだ何かがそこに佇んでいて、私たちはその「何か」にじっと観察されているように思われたのだ。
一階の廊下をやってくるぺたぺたとした足音に、私の注意は逸らされた。ヒトが素足で石造りの床を踏む音。小さな少女が姿を現した。
私たちはその子の姿に思わず息を呑む。あまりに汚れ切った姿。垢に塗れた手足は黒ずんでまだらになっているし、髪はずっと櫛を入れていないのだろう、頭の周囲でもつれにもつれ合っている。全身やせぎすで、ただでさえ大きく見える目が私たちの姿を認めてますます見開かれた。
少女の悲鳴が耳をつんざいた。金切り声はまっすぐ私たちの脳に突き刺さり、ホールの高い天井にぶつかり合って反響し、どこまでも鋭く広がる。私たちは思わず耳を塞いだが、屋敷の住人と思しき少女に叫ばれるいわれは充分こちらにあることももちろん理解していた。
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