皇女自室にて
蒸気機関大国の我が国において、最も清浄な場所は間違いなくこの温室だろう。
宮殿の南庭園に面した皇女の部屋、そのサンルームが温室になっている。
この温室は、喘息持ちのヴィクトリアのために作られた。パイプを巡る蒸気が室内に春の陽気を保ち、花々を彩っている。
これだけ花が多いと水やりだけでも大変だろうが、本人は鼻歌まで歌っているのだから、まあ良しとしよう。
「ヴィクトリア殿下。」
ベアトリスは温室の入口から声をかける。その声に気づいて振り返ったヴィクトリアは、顔を綻ばせた。
「ベア!」
光に透けるシュミーズも相まって、花の精霊と見紛うほどの愛くるしさだ。この世の至宝とは彼女のことだと、ベアトリスはつくづく思うのだった。
こちらへ駆け寄るヴィクトリアの足がふと止まる。そうだ、今日は一緒に来ていたのを忘れていた。
「
ロイがベアトリスを押しのけ、気取った様子で温室の入口に手をかける。
ヴィクトリアが慌てて近寄ってロイに挨拶した。
「
ヴィクトリアは微笑みながらロイの腕に触れて押し出し、後ろ手に温室の扉を閉めた。
ロイはそれを意にも介さず、ヴィクトリアの手の甲にキスをする。
「私の姫が恋しくなりましてね。」
「まあ…、ふふっ」
よくもまあそんな歯の浮く台詞を、とベアトリスは内心呆れ返る。顔に出てしまったのか、ロイ越しに目があったヴィクトリアがおかしそうに笑った。
ロイは王子様然とした様子で微笑んでいる。先ほどまで同い年の女を杖で殴っていたとは思えない変貌ぶりだ。
エミリーの腕を掴むロイの姿が、脳裏に甦る。
(あんなにも、簡単に他人を痛めつけられるなんて……)
痛みに歪んだ記憶の中のエミリーの表情が、ヴィクトリアとかぶる。
まさか、そこまでのことには…。
ベアトリスは自分の空想に思わず身震いした。
「ベア、わたしが支度している間、殿下のお相手をお願いね?」
「え、ええ。ごゆっくりどうぞ。」
ベアトリスの言葉にこくりと頷き、ヴィクトリアが
それと入れ替わりに、別の
彼女たちの邪魔にならないように、スカートの裾の広がりを抑えておく。幼い頃、ヴィクトリアと作法の練習をしたのが懐かしい。
当然だと言わんばかりにロイがひとりソファで足を大きく組んで座っている。こちらも幼い頃から相変わらずだ。
「はぁ…少しは皇子らしくできませんの?」
「殿下の前ではそうしているだろう。お前が望んでいる通りに、な。」
ロイが組んだ足の上で頬杖をついて、こちらを見る。心の内を見透かすようなその目が、昔から苦手だった。
こちらを見つめたまま、ロイは口の端を上げて呟く。
「…惚れた女を嫌いな男に差し出すのはどんな気分だ、ベアトリス?」
カシャンっと陶器の割れる音が響く。
あまりのことに思わず立ち上がりかけて、カップを落としてしまった。
傍で準備をしていた
「お嬢様、お怪我は?!」
「いえ、大丈夫よ。ごめんなさいね。」
「お怪我がなくて何よりです。片付けてまいりますね。」
ベアトリスは
あの銀貨が彼女の口に戸を立ててくれると良いのだが…。
はあ、と深くため息をついてから、ベアトリスははっきりとした口調で否定する。
「殿下は勘違いをしてらっしゃいますわ。
断じて…そのようなことは、ございません」
「…ふッ、それでもお前は私を皇帝にするために尽くすさ。
皇女のためには、それしかないのだからな。」
ロイはおかしそうに眺めて、喉の奥でくくっと笑った。ベアトリスはテーブルの下でぐっとドレスを握りしめる。
知る限りのありとあらゆる罵詈雑言が、ベアトリスの頭の中を駆け巡る。気を抜いたら、それらが歯の隙間から漏れ出てしまいそうだ。
ロイはぐっと身を乗り出して、さらに囁いた。
「私が皇帝になったら、お前を側室にしてやる。」
その言葉に全身が硬直した。体に油を塗りたくられているような不快感で、息が詰まる。
ベアトリスは自分を落ち着けるようにゆっくりと瞬きをした。
「そんな、こと…皇女殿下が、おられるのですから…。」
「側室を持った皇帝は先例がある。それに、子産み袋があれだけでは心許ない。」
「…………は?」
蒸気で満たされたシリンダーに冷水が差されるように、ベアトリスの頭が一瞬で冷える。
溢れ出たのは、思っていた以上に低く、冷たい声。
怒りというのは、激しく燃え盛る炎なのだと思っていた。けれど、炎の向こうがあると今知った。
本当に許せない怒りは、一気に心に押し寄せる洪水だったのだ。
怒り以外の感情が全て押し流されていく。
ベアトリスの瞳が見開かれる。この怒りは当然伝わっているはずだが、ロイは依然として冷徹な表情のまま。両手を組んでこちらを見下ろしている。
「…男児が生まれなければ、皇后陛下と同じ末路だ。文字通り、“袋叩き”だろうな。
それとも、“友好の証” として大陸国にでも差し出すか?
万が一のときはお前が生んで、殿下の子ということにすればいい。そうすれば、少なくとも皇妃の二の舞は避けられる。だろう?」
皇妃の最も重要な仕事は、世継ぎを生むこと。それも、男児を生まなくてはならない。
それが叶わなかった現皇后は、痛烈な批判とプレッシャーに押しつぶされて別荘で療養中だ。今や廃人同然の状態と聞く。
以来、直系男子による皇位継承は絶望的。だからこそ、皇位継承順位がロイに回ってきているのだ。
枢密院をはじめ、貴族社会がヴィクトリアに寄せる期待は大きい。その分、それが叶わないとなれば、きっと現皇妃のとき以上に苛烈な批判がヴィクトリアに襲いかかるだろう。
(あの方を守りたい…けれど、そのためには、よりにもよってこの男に託すしかないなんて…
わたくしが側室になって子を成したら…
国のためとは言え、とてもあの方には耐えられない…
…一体…どうすれば……)
重苦しい沈黙のなか、ドアが開いてドレスに着替えたヴィクトリアが入ってきた。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい。」
「待つのも楽しい時間ですよ、どうぞこちらへ。」
ロイが恭しくヴィクトリアの手を引いて、ソファへ座らせた。彼女がいるだけで、先ほどまでの刺々しい空気が少し和らぐ。
口を噤むベアトリスと交代に、ヴィクトリアがロイに話しかける。
「そういえば、例の特待生とはお話しされました?」
「ええ、でもやはり
「まあ…でも女の子で
素晴らしい才覚で、憧れるわ。」
ヴィクトリアは羨ましそうに呟いて視線を落とす。
彼女の目に映るのは、クリームの乗ったケーキと紅茶、テーブルを飾るピンクの薔薇。どれひとつとして、自ら選んだものではない。
それらを眺めるヴィクトリアの瞳に浮かぶのは、深い深い諦観。
何度この表情を見てきただろう。その度に何もできない自分にも腹が立つ。ベアトリスは眉間に皺が寄るのをなんとか抑える。
それに気づかず、ロイは上機嫌に話し続けている。
「とんでもない! あんな者が
父親の功績を自分のことのように言っているだけでしょう。そうでなければ、地下街で娼婦でもして客の設計図を盗んだのか…。
殿下のような女神が気に掛けるほどの価値もありませんよ。」
そう言って、ロイがヴィクトリアの右手をとって、絹の手袋ごしにキスした。
持ち上げられて袖からのぞく白く細い腕に、ベアトリスは青痣の幻想を見ずにはいられない。
この男は、いつかヴィクトリアにも手を上げる。正式に結婚すれば、いつそうなってもおかしくない。
「そんなこと、ありませんわ…。」
ヴィクトリアの左手が、スカートの上でぎゅっと固く握りしめられている。
ロイに言い返していたときのエミリーの手も、同じように強く握りしめられていた。
「殿下、ヴィクトリア様は体調が優れないご様子ですので、そろそろ。」
ベアトリスが事務的に声をかけると、ロイがヴィクトリアの顔を覗き込んだ。
「……そうなのですか、姫?」
「え、ええ…少し胸が苦しくて…。」
ベアトリスはさっと立ち上がり、ロイからヴィクトリアを引き剥がす。
「では、本日はここで失礼いたします。」
「ご無礼をお許しくださいませ。ごきげんよう、殿下。」
「…お大事に、私の姫。
……ベアトリス、しっかりと忠義を果たせよ。」
「……ええ。」
ロイの視線から逃れるように、ベアトリスは足早にヴィクトリアを支えて彼女の部屋へと身を滑り込ませた。
ドアを閉めて、しばらく息を潜める。
ロイが出ていく気配がしてから、やっとヴィクトリアが大きく息を吐いた。
「ありがとう、ベア……今日はいろいろと限界だったわ……。」
「同感ですわ…よく堪えましたわね、ヴィーカ…。」
お互いを労わるように抱き合う。ヴィクトリアの肩が、ベアトリスの胸で僅かに震えている。
その肩を撫でながら、ベアトリスの心は揺れた。
外国の王家と婚姻を結んでも、我が国は傀儡にされるだけだろう。かと言って、ロイの妻となれば、ふたりして子を産まされ続ける未来しか見えない。
じわじわと、だが確実に、ロイは道を塞ぎに来ている。
(あの男が玉座に着いたら、いよいよ誰にも止められない…何とかして手を打たなくては)
ベアトリスは、少しだけ力を込めてヴィクトリアを抱きしめた。
今にも折れてしまいそうな細い肩。この繊細な宝石を、曇らせるわけにはいかない。
(ヴィーカ、あなたを守ってみせますわ。どんな手を使ってでも。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます