2話 点火
午前の講義を終え、エミリーは足早に図書館へと向かっていた。
中庭に面した廊下を行く。
遠巻きにこちらを見て噂したり指差してくる者もいたりするが、そんなことを今気にしている場合ではない。
(なんてったって、20万冊以上の蔵書が読み放題…しかもタダ!
最高すぎる!新技術の本とか読めたらいいな〜!)
グローブでフリルのスカートをたくし上げて、エミリーは廊下を走っていく。
ここで知識を身につけて、工場のみんなと早く試したい。みんなの役に立つように、もっともっと勉強したい。
期待と焦燥感で駆けていくエミリーの背後から、気取った声が投げかけられる。
「おやおや、さすが
眉間に皺を寄せ、エミリーは立ち止まって振り返った。
声の主は、中庭のベンチにふんぞり返って、顎を上げてニヤニヤとこちらを見ている。
自分が座るものはすべて玉座だとでも思っているのだろうか。
「……ごきげんよう、
「
取り巻きの子息が、庭の芝生をちぎってエミリーに投げつけてきた。
咄嗟に手で目をかばったが、髪やジャケットが芝生まみれだ。
「…申し訳ございません、
苦々しい顔を隠して挨拶し直すエミリーを見て、ロイが満足そうに手を振る。
「なに、構わんさ。お前たち、たかが
「へへ、申し訳ございません殿下。」
媚びた笑いを浮かべる取り巻き令息たちに軽蔑の眼差しを向けながら、エミリーは黙々と芝を払う。
まったく、貴族のくせにやることが幼稚で呆れる。
先の戦争で優秀な後継者候補たちが軒並み戦死してしまったと聞くが、その結果がこれとは彼らも浮かばれまい。
とはいえ、今は急いでいる。腹立たしいが、従順なふりをしてやり過ごす他ない。
頭を振って芝を取るエミリーの耳に、野次馬の令嬢たちの声が届く。
「まあ、なんてひどいお姿かしら。私ならとても耐えられないわ。」
「本当ですわね。しかも殿下の前でなんて…私なら一刻も早く退学しますわね。」
「ねー!」
ヒソヒソ話というには、あまりに大きな声。それは、彼女たちがその声を聞かせたい相手が、エミリーではなくロイだからだ。
彼女たちに限らず、皆ロイの“次期皇帝”という権力に対して目配せしているに過ぎない。
それぞれの家を盛り立ててもらうため、忠誠心を示すポイント稼ぎとして、エミリーは恰好の燃料なのだ。
(ほんと、ご立派な“忠誠心”ね…)
淡々としているエミリーがおもしろくないのか、ロイが舌打ちをして立ち上がり、こちらに近づいてきた。
カツ、カツ、と威嚇するように杖を地面に打ち鳴らしている。
「まったく…こんな者を特待生として学園に入れるなど、伯父上は何を考えておいでなのか…。」
ロイの亡くなった父は傍系の
この国の最高権力者をそのように呼ぶこと自体が、権力の中枢にいるという特権の証。
それをチラつかせれば、どんな相手も意のままだと、わかっていてそうしているのだ。
虎の威を借るとはまさにこのこと。エミリーの心のボイラーに火が付く。
「……皇帝陛下の御心は計りかねますが、あたしの入学を許可してくださったのは事実です。
学力試験も満点で、入学基準はクリアしました」
「はッ、お前が満点などあり得ぬ。所詮、父親の金でねじ込まれたに過ぎんわ
。」
「父の献金があったとしても、そんなものは皇族の財産からすれば端金でしょう。
陛下がそのように金で動くお方とは思えません」
「貴様ッ、伯父上を愚弄するかッ!」
顔を真っ赤にしたロイは、エミリーに向かって杖を打ち付けた。鈍い音が骨を伝わる。
咄嗟に腕でガードしたものの、ちょうどグローブとジャケットの間の素肌に当たってしまった。
(愚弄してるのはどっちだよ…!)
痛みに顔をゆがめて打たれた右腕を擦った。くっきりと赤く腫れて、じわじわと熱を持った痛みが広がっていく。
理不尽に腹が立つ。だが、この力の差ではやり返せるはずもない。
どうして女の体はこんなにも弱いのだろう。それが心底腹立たしくて、憎らしかった。
そのとき、ざわつく人垣の向こうから聞こえたのは、コツ、コツというヒールの音。
「殿下、何を騒いでおいでなのです。」
人垣がざっと左右に割れる。その先に、背筋をピンと伸ばした令嬢が見えた。
ベアトリス・ミロス・オブ・メルボーン。
建国以来皇族に最も信頼されている重臣、名誉と伝統のメルボーン公爵家のご令嬢だ。
彼女の全身から、自信に裏打ちされた誇りが光を放っている。こちらに近づいてくるその足運びさえ優美だ。ただの石の廊下が大理石に見える。
「ベアトリス、何用だ。」
「…何かあったのかと思って立ち寄ったまでですわ。」
ロイにそう応えた後、こちらに視線を向けた。その意味を察し、エミリーは慌てて身なりを整えて頭を下げる。
それを待って、ベアトリスが声をかけた。
「ごきげんよう。」
「ごきげんよう、
あたしは
「ご挨拶ありがとうございます、ミス・ハースト。」
極めて儀礼的ではあったが、学園に来てから初めてきちんと挨拶が成立した。
この学園に、こんなちゃんとしたひともいるのか。
会釈を返すベアトリスに、エミリーは内心驚いた。
そのやりとりを忌々しげに見つめ、ロイが苛立った声で言い募る。
「とにかく! 身の程を弁えるんだな。
この学園の秩序を守ることが、ひいては国益に繋がるのだ。
まあ、女に政治などわからんだろうが。」
まだ言うか。落ち着きかけたエミリーの心が再び沸騰し始める。
「今や女性の人口のほうが多いんですよ。それなのに、政治を担うのは男性だけ。
国民の半数以上が発言権を持たない国家で、国益がなんですって?」
「女が政治に口を出す必要などない!
女の務めは、子を成して国家の繁栄を支えることであろう。」
「何かを決める権利もないまま、ただ子を産むだけの人生が『幸せ』だと?」
「 強い男に守られ、子を産む。それが女の人生だろう。」
「皇女殿下も女ですよ!そんなお考えで、お支えできるのですか? 」
「“お支え” だと? はッ、笑わせる。」
ロイがエミリーの右腕をぐっと掴んだ。先ほど打たれたところがさらに痛む。
青痣も浮かんできたエミリーの腕を、ベアトリスがじっと見ていた。
痛みに歪むエミリーを見下ろしながら、ロイが歯を剥き出して囁く。
「いいか、我々皇族には国益に対して責任があるのだ。
私はこの国の政治を取り仕切り、皇女殿下はお世継ぎを成す。殿下が、私を支えるのだ。国母としてな。」
「それでは…皇女殿下ご自身の幸せは、どうなるのですか!」
「国家の繁栄の前に、女ひとりの幸せなど些事なこと!」
勢いのままに突き飛ばされた。ふらつきながらもエミリーはロイを睨みつける。
ベアトリスが顔を隠すように扇を広げ、ひとつ咳払いをした。
「殿下、お戯れもそのくらいになさっては?」
「私に意見するのか、
「………、…いいえ、
「…ふん、まあいい。こいつの相手はもう飽きた。皇女殿下のご機嫌でもお伺いしよう。
行くぞ。」
「はい。」
苦々しい表情のエミリーを残して、ロイとベアトリスは立ち去っていく。
扇の奥に見えた彼女の瞳に、複雑な色が揺れている気がした。だが、エミリーにはその理由など知る由もない。
エミリーも2人に背を向け、再び図書館へと歩き出す。
グレン先生の言うことは受け入れられなかったが、ただ「強くなれ」というところだけは頷ける。
何度でもこういうことが起こるのならば、何度でも抵抗してみせよう。何度でも立ち上がって見せよう。
決して屈しないところを見るがいい。
エミリーは腕まくりをして、大股で廊下を歩いて行く。散らばった芝生が、風で庭へと押し戻されていった。
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