劣等感は猫をも殺す
――――随分、懐かしい夢を見た。思えばもう、12年も前の思い出を。
『……普通さぁ。高校生にもなればさぁ。……少しくらい、分別がつくもんだって、期待しちゃうじゃん? …………保育園児と同レベルだなんて……ムカつくくらい呆れる……』
俄かに賑やかになってきた、差し込む朝陽に照らされる校舎の中。
床を透り抜ければショートカットになるのは分かっていたけれど、だからって床へのダイブを勢いよく決める度胸はない。生前よろしく階段まで歩いて……いや、歩いてはいないのか。ふよふよ浮かんで、形だけ脚を動かして。
下の階にある、わたしの在籍していた教室へ、ちんたら向かう。
――――寝落ちを経験したのは、多分、これで2度目。
リノリウムを思わせる煤けた赤色の廊下へ飛び出したのが、ほんの数十秒前。美術室の並びにある3年生の教室が、無視し切れない喧騒を発し始めた辺りだ。
それまでわたしは、寝落ちてた。もっと言えば、疲れて気絶していた。
死んでるのに、幽霊なのに、ガンガンと片頭痛に襲われていることが、薄弱だけどその根拠だろう。首も痛いし肩も重い。声にすら覇気がなくて、窓の外にひとつもない雲が全部、わたしの胸に押し込められてるみたいだった。
『…………まぁ、最初っから上手くいくだなんて、そんな虫のいいこと、考えてないよ。考えてない……ない、けどさぁ……』
ちょっとくらい、感覚が掴めたっていいじゃんか。
本っ当にわたし……幽霊の才能すら、ないんだからなぁ……。
――――重い、重い、曇天みたいな溜息。
言ったって、別にひと晩じゅう寝こけていた訳じゃない。最後に時計を見た午前3時くらいまでは、必死に頑張っていた。もう死んでるけど、死に物狂いで努力していた。取説もマニュアルもないけれど、それでも懸命に試してみてた。
凛恩ちゃんが、造ってくれていた、わたしそっくりの人形。
その人形に取り憑くために、一生懸命、頑張っていた。
触ろうとしたけれど、当たり前に透り抜けた。けれど透り抜けるってことは、わたしの
多分、瞑想とかに近かったんじゃないかな。
集中、集中、集中、集中。手指の末端から心臓のあった胴体、脳や髪の毛に至るまで全部、凛恩ちゃんお手製人形と一体なんだって、思い込んで、思い込んで、思い込んで、思い込んで――――――――だけど、数分ともたずに姿勢が崩れた。どっと疲れて、地球の中心めがけて落ちていくばかりの汗が零れた。
勉強は苦手だ。机でじっとしているのが苦痛だから。
まさか、ここまで落ち着きがないだなんて、自分でも死んでから気が付いたけれど…………何度か、何十回か試した後、結局、集中疲れで気絶で寝落ち、なんて。
『……
見慣れた廊下、見慣れた窓の外、見慣れた教室の並び。2年生の教室が軒を連ねる階に下りてきて、何度目かの溜息が唇を撫でる。
…………正直、絶句はしたよ。なにをバカなことを、とかも少し、思ったかもしれない。
死んだら生き返らない。当たり前の常識じゃんか。マンガの世界じゃないんだ。集めたってネジを回したって雷に撃たれたって、人は死んだら、もう
けど、あの娘は、天才は、才媛は、万能は。
凛恩ちゃんは、そんな常識を踏み躙ろうとしてくれている。邪法だろうと外法だろうと、わたしを生き返らせることを諦めない。
わたしと、一緒にいることを。
諦めないで、いてくれている――――だったら、さぁ。
『……なんでもできる、なんて、火ぃ点けちゃったわたしがさ、勝手に諦めるなんてなし of the なしでしょ。…………それに――』
それに……邪法でも外法でもズルでも無理矢理でも、わたしも、生き返りたい。
ちょっとでもいい。ほんの30秒でもいいから。
せっかく貰えた、両想いの証。真っ赤な顔での告白。……その返事すらできないで、永遠にさよならなんて後味が悪過ぎる。
あと、それと、許されるなら。
やりたいこと……ううん、やらなくちゃいけないことが、もうひとつだけ――
――――びしゃあぁっ、って、時季外れのプールみたいな水音が、鼓膜を揺らした。
『っ……水、音――――っ、まさか!』
いつまで経っても慣れないけれど、わたしは脚を動かすのをやめて、ロケットみたいに腕を広げる。
動け――――そう、念じるだけでよかった。重力も空気抵抗もガン無視で、宙に浮いた
2年2組。凛恩ちゃんが在籍するクラス。
――――あははっ、なんて、せせら嗤うような声がして。
聞き覚えのあるそれに思わず、教室の中に飛び込むと…………ぴちゃっ、ぴちゃっ、と小さく鳴る、雫の滴りが目を、耳を支配した。
凛恩ちゃんの、細腕を露わにした夏服のワイシャツ。
真っ白なはずのそれは雨に打たれたようにびしょ濡れになって、色素の薄い肌の色を透けさせていた。
「毎日毎日さぁ……いい加減しつこいんだけど。もう1ヶ月よ? らてが死んでから」
プリン頭の女子生徒が、ひらひら、徳利でもひけらかすみたいにそれを揺らす。
逆さに振ってもなにもでない、空っぽの、白い花瓶。
昨日、掃除を押しつけられた凛恩ちゃんが、最後に、わたしのだった席に置いた花瓶。
『っ…………!』
見れば、振り返りもせず立ち止まったままの、凛恩ちゃんの足元には。
昨日のとは違う、色鮮やかなカーネーションが散乱していて。
床にできた極小の湖に、花びらを幾枚か浮かべて…………こい、つ……この、プリン頭……!
『凛恩ちゃんに、水ぶっかけたの……!? っ、せっかく替えてくれた花までばら撒いてっ!?』
信じられない。信じられない。3歳児の方がまだデリカシーがある!
けど、最低だと信じて疑わなかったそれを、こいつは、いや。
こいつらは、平気で、軽々と、下回ってくる。
「友達になってくれる奴がいないからってさぁ、いつまでも死んだ奴に縋んないでくんない? 気持ち悪いんだよね――――辛気臭いガチレズ野郎が」
「ねー。唯一のお友達亡くして可哀想アピールぅ? 見え透いててキモいよね~」
プリン頭の横で、追随するピンクのツインテ。
その後ろから、アシンメトリ―の変な髪色をした女が、べろぉ、と唇を舐めて続けて言った。
真っ当な人間なら、絶対に、言っちゃいけないことを。
「っはは! そんなに死んだらてのことが恋しいならさぁ――――猪間ぁ、あんたもさっさと死んじゃえばぁ?」
『――――――――っ!!』
不思議だった。でも違和感はなかった。
生前だったらやらなかっただろうけど、今は、なんの躊躇もなかった。
「あっははは! それ言えてるっ! こんな奴、死んだところであたしら困んないしねっ!」
「死ぃーっね♪ 死ぃーっね♪ 屋上から飛び降りたらぁ、愛しのらてちゃんと会えるかもちれないでちゅよぉ~?」
「っはははははははは!」
「あはははははははは!」
「きゃははははははは!」
『うるさいっ!! うるさい、うるさいうるさいうるさいうるっさいぃっ!! 嗤うなっ!! 嗤うなぁっ!! 嗤うなぁあああああああああああああああああああああっっっっ!!』
わたしは、無我夢中になって、我武者羅に遮二無二に。
殴った。引っ掻いた。拳を振り翳して爪を立てて、蹴って踏みつけて首を締めた。顔面を、胸を、鳩尾を、腹を、股間を。喉が裂けるくらいに叫びながらひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに。
全部、全部透り抜けてしまうのだから。聞こえもしないのだから。
なんの意味もないのに――――分かっていても、抑えが利かなかった。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなっ!!
なんで、どうして、おまえらなんかに、凛恩ちゃんを嗤う資格なんかないっ!! 何様のつもりで凛恩ちゃんの死なんか提案してんだっ!! 図々しい、厚かましい、烏滸がましいっ!! おまえらなんかよりずっとずっと、凛恩ちゃんは凄い人なんだっ! 立派で、なんでもできて、頑張り屋さんで、優しくて――――わたしなんかを、大好きになって、くれて。
それ、を。
バカにするな。バカにするな。バカにするなバカにするなバカにするなバカにするなバカにするなバカにするなバカにするなバカにするな、バカにするなあぁっ!!
「…………………………………………」
凛恩ちゃん、は。
後頭部から背中、スカートまでびしょ濡れのまま、なにも言わないで。
滑るようにして歩いて足音を失くし、廊下へと、静かに出ていった。
『っ――――凛恩ちゃ――』
「お、おい、おまえら……」
って。
咄嗟に追いかけようとしたわたしの背後で、男子の声が聞こえた。
プリン頭たちの横から、眼鏡の男の子が話しかけていた。……八の字にひん曲がった眉、おずおずと腰の引けた姿勢、控えめな声量……プリン頭たちとリアクションが同じなのは酷く遺憾だけど、わたしはその男子を、訝しむような目で見てしまった。
この期に及んで、なんのつもりだと。
……幸い、それは杞憂で終わってくれた、けど。
「あ? なに? なんか文句でもあんの?」
「……さすがに、あれはやり過ぎだろ。猪間さんが可哀想に思えちまうよ」
「きゃっははぁ。本ぉん当、男子って女子の顔と胸しか見てないよね~。まぁ猪間は胸もお粗末だけどぉ――――なぁにぃ? 顔がいい女には味方してあげんのぉ? やっさしぃ~」
「いや、そういうんじゃねぇけどさ……ただ、さすがに――」
「同情する必要なんかないって。よく考えてみ? 全国トップクラスの学力してるくせに、こんな底辺高校にわざわざ進学してんのよ? 嫌味な奴……あんたのことだって、あいつ、腹の底じゃ見下してるに決まってるよ」
「そうそう。ってか冷静に考えてよ。死んだ女友達に毎日毎日、飽きもせずに花供え続けてんのよ? 普通に考えたら気持ち悪いじゃん」
「…………で、でも――」
「大体さぁ、男には分かんないだろうけど、あのレベルで粘着するガチレズなんて、あたしら女からすればレイプ魔と変わんない訳。あんなべったりだったらてがいなくなって、あいつ、今女に飢えてんのよどうせ」
「遠ざけとかないとねぇ~。なにされるか分かったもんじゃないもんねぇ~」
「あたしたちは自衛してるだけ。正当防衛だから、こういうの全部。はぁ~……性犯罪者と席が近いっていう憂鬱、あんたにゃ分かんないでしょ?」
――――――――――――――――――――――――――――――――――。
気付、けば。
爪が、側頭部に喰い込んでいた。歯が、砕けそうなくらい噛み締められていた。床に打ちつけようが音ひとつならない足を、じたばたじたばた、みっともなく蠢かしていた。
は?
は?
はぁ?
はあぁっ!?
『……………………自意識過剰も大概にしろよ……クズ女共……!!』
あぁ、凛恩ちゃんに謝ることがまた1個、増えてしまった。わたしそっくりの人形を見た時に、絶句しただなんて悪い冗談だ。ちゃんと、謝らないと。
絶句っていうのは、言葉を失うっていうのは。
こういうクズ共にしか、使っちゃいけない言葉だった……!!
『っ……凛恩ちゃんが、こんな落ちこぼれ高校に来てくれたのは、わたしの学力に合わせてくれたから! ただそれだけっ! おまえたちなんかどうでもいいっ! 眼中にもないっ!! ……性犯罪者? ……言いがかりもいい加減にしなよ……凛恩ちゃんが、あの娘が好きなのはわたしだっ!! わたしだけだっ!! 中民らてただひとりだっ!! おまえらなんか……ただ同じ性別ってだけのおまえらなんかっ!! なんっとも思ってないよっ!! 普通に、常識的に考えて、そんなことも分かんない訳っ!? この……っ、ド低能共がぁっ!!』
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。それでも。
届かない。聞こえない。女共はけらけら嗤い、男の子は追い払われてしまった。ガリガリガリガリ、わたしの耳朶しか叩かない裂傷の音。幽体は傷なんて概念と無縁みたいで、頭皮や頬の肉が削れる度に、ふわりと消えて元通りに盛り上がる。
あぁ、あぁ、痛い。痛い。顔の横がじゃない。胸の内が。
小さい頃に刺さっていた小骨なんて、比較にならない。内側が爆発寸前みたいに騒ついて、吐きそうで、臓物から口を通り越して眼の奥までも焼き焦がしそうで。
あぁ、叶うなら臓腑の内側を、掻き毟ってしまいたくなるような。
どれだけ叫んでも、詰っても、罵っても……全部、全部……。
あの小骨を『我慢』と名付けるなら、それが億本あっても足りないくらい、痛くて痒くて辛くて鬱陶しいこれは。
これ、は――
「……………………」
『っ!! 凛恩、ちゃ、ん……?』
吐いても吐いても尽きることのない、罵言の濁流で溺れそうだった、わたしを。
掬い上げるように戻ってきた凛恩ちゃんは――――モップと、バケツとを持っていた。
自分はまだ、びしょ濡れのままなのに。
黒板へモップを立てかけ、バケツをその傍に置くと……凛恩ちゃんはまず、散乱した花たちを拾うところから始めた。
「…………ごめん、ね……」
一本一本、丁寧に拾っては水滴を払い、束の形に直していく。幾枚かの剥がれた花びらを寂しく笑いかけて、カーネーションの花束をもう一度、花瓶へと挿し直す。
それが終わったら、振り向いてモップを取ってきて。
床をしとど濡らす湖を、端からゆっくり、拭き取っていく。
「……………………」
「……っ、んだよ……どこまで上から目線だよあんたぁっ! 猪間ぁっ!!」
椅子を蹴倒して、恫喝の声を高らかに叫びながら。
プリン頭が立ち上がる。汚い唾を飛ばして、凛恩ちゃんの顔の真横で声を荒げる。
「自分のキモさを自覚してるって訳じゃないよなぁ……? てめえっ、あたしらとは話す価値すらないってかっ!? 変態のくせに、気持ち悪いガチレズ野郎のくせにっ!! どこまであたしらを見下せば気が済むんだよこの――」
意味が、分からなかった。支離滅裂だった。
嫌なんでしょ? 凛恩ちゃんから離れたいんでしょ? 性犯罪者と一緒にいたくはないんでしょ?
だったら、無視されているのはむしろ好都合なんじゃないの?
――――自分に危害は加えるな。
――――自分を不愉快にさせるな。
――――自分を無視するな。
――――自分を見下すな。
――――自分より上に行くな。
――――自分より上であるな。
――――――――あぁ、あぁ、吐き気がする。それは、そういうのは。
そういうのは、全部――
「おはようござい、ま……っ、い、猪間、さん……!?」
理不尽な怒号が掻き消していた予鈴。数十秒遅刻して教室に入る中年教師。
男の目には、ちゃんと、映っているはずだ。理解、できるはずだ。理解、できなきゃダメだ。
ずぶ濡れになった凛恩ちゃんが、濡れた床をモップで拭いていて。
その横で、プリン頭の女がなにか、叫んでいた。……あの声量だ、廊下まで聞こえなかった訳がない。
「あな、た、一体なにをして――」
「私、が」
…………なのに。
くるり、教師へと振り向いた凛恩ちゃんの目は、色のないがらんどうで。
湿ったモップを持ち上げ、バケツのところまで持っていって……跪くようにして絞りながら、淡々と、無感情な声で続けた。
「私、が……花瓶の水、零して、しまったん、です。……すみま、せん、先生。すぐ、片付け、ます」
『…………なんで、さ……』
腹が立って仕方なかった。
何事もなかったかのように座り直している女子共も。我関せずを貫く観衆共も。「……そ、う、ですか……」のひと言で現状を片付けた、職務怠慢な中年教師も。
ムカついて、ムカついて、できるなら、全員をこの場で呪い殺してしまいたくて。
でも、そんなの、できやしないから。
わたしには……幽霊の才能すらないから、だから。
悔しくて、悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて、歯を、まともに噛み合わせることすらできないくらい悔しいこの想いを――――ぶつける、先、なんて、……どこにも、なくて。
けど、だからって、噛み殺して呑み込むのにだって、限度があった。
なんで。なんで。なんで。なんで。
なんで――――なんで。
『違う……じゃん……。っ……
分かってる。分かってるよ。
わたしが、死んだのが悪いんだ。凛恩ちゃんの前からいなくなっちゃって、あの娘を、守れなくなったのが悪いんだ。ちっぽけで、罵倒の矛先を少しずらすくらいしか役に立てなかった、出来損ないの盾――――そんなものですら、あった方がマシだったんだ。まじまじと、痛感する。わたしが思ってたよりずっと、高校生は
『凛恩ちゃんは……違う、のに……! っ、こんなことに、こんな奴らのために人生割いてあげていいほどっ! 凛恩ちゃんはっ! どうでもいい人間なんかじゃないのにっ!! なのに、なのにぃ…………っ!』
涙が止まらない。ぼたぼたぼたぼた、拭っても拭っても零れ落ちていく。
凛恩ちゃんを守るための、小っちゃな盾にすらなれないのに。
凛恩ちゃんの敵を滅ぼす、呪いの怨霊にさえなれない事実が。
内から身を焼く幾億の針たちの名を、『無力感』なのだと告げていた。
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