第2章 諦念のイカロスは獄に繋がれて

出ている杭への好奇心

 思えばわたしは、中民らては。


 生まれてこの方、死ぬまでずっと、ひたすら『いい子』に徹していた。頭の良し悪し、学力の点数はともかくとして――――そうするのがだと、なんとなく察していたから。


 昔から。

 小さい頃から。


 それこそ、凛恩ちゃんと初めて出会った、保育園児の頃には、もうとっくに。




『新しいおもちゃ買ってもらったんだ!』へぇいいなぁ羨ましい『わたしピアノひけるんだよ!』すごいねとっても上手だね『見て見て! ベイハンマンの絵ぇかいたの!』うわぁそっくりじゃん『この服かわいいでしょ? にあうでしょ?』にあうにあう、ぴったりだよ『かけっこしようぜ? おれが勝つけどな!』わたしなんかじゃ勝てないよぉ『ぼくはもう、じぶんの名前を漢字でかけるんだぞ!』すごぉいわたしひらがなもまだできないやぁ『このまえカラオケで87点もとれたんだよ!』天才だねぇ70点すらとれないやわたしなんか『おまえ、せかい三大びじょって知ってるか? よーきひとクレアパレスとおののいもこなんだぜ? 知らないだろぉ?』ぜぇんぜん知らなかったやおしえてくれてありがとう。




 上手く話を察して合わせる。

 同意をあげる。肯定を手向ける。

 自慢には、欲しがるような羨みを。

 傲慢には、拍手と絶賛とを贈る。


 無知の振りして褒め称え、際限ない承認欲求に水をあげる。踏ん反り返って反り立って、得意気になって笑えるように。


 そうやって、誰にとっても都合のいい『おともだち』として、わたしは振る舞ってきた。


 誰とも揉め事を起こさず、敵対も連帯もせず、問題も軋轢も起きないよう調整する。



 ……漫画の中で、就活生が自分のことを『人間関係の潤滑油』って言ってた。面接官にアピールするまでもなく、わたしはそれだった。就活するまでもなく天職だった。間違いなく才能があって、だから、わたしの周囲はいつでも気持ちよさげな笑顔で溢れていた。



 …………間違っている、とは、思わない。少なくとも。最低限。



 事実として、わたしはそんな生き方を貫き続けて、なんら痛い目に遭うことなくあの日まで過ごしてこられた。虐めにも阻害にも迫害にも妨害にも、無縁でいられた。絶縁でいられた。


 親御さんたちから、保育士たちから、『いい子』と褒められるのも、悪い気はしなかった。むしろ、大人たちからそういう賛辞を受けられるなら、やっぱりこれでいいのだと、正しいのだと、自分を納得させられた。



 ――――チクリ、と、胸の奥。


 今と大差ないサイズしかなかった、あの平たい胸の中に。


 小骨が刺さったみたいな違和感が、しこりが、不愉快が……いつも、居座ってはいたけど。





 その疼痛がなんなのか、気付かせてくれたきっかけは、派手に椅子が蹴倒された音だった。




 ――『……っ?』


 ――『ちょーしのってんじゃないわよっ! ブタ女のくせにっ!』



 保育園の遊戯室は、今思うと随分と広かった。


 わたしが『おともだち』たちと遊んでいたのは、ブロックが詰め込まれた棚のところ。その逆端に当たるお絵描きスペースで、3人の女の子たちが仁王立ちになっていた。


 細い脚の隙間から覗くのは、椅子ごと床へと蹴倒されて。


 起き上がることすら、震え過ぎて儘ならない、やけに背の高い、女の子――



 ――『ぜったいズルしたんだよっ! こんな風にかけるわけないもん!』


 ――『ちょっと見てあげようとしたら……じまんしたかったの!? こんなことで!?』


 ――『みっともなぁい。ズルしてほめられてうれしいの~? ひきょーものだー』


 ――『ブタのくせに、人間のふりしないでよね! っ、こんなもの――』



 ――『っ、ぁ――』






 ――『ねぇ××ちゃん! ××ちゃんも、××ちゃんもさ! こっちでみんなと遊ばない?』




 女の子が、なおも遠慮がちに手を伸ばすその先で。

 彼女が描いたという絵が、画用紙が、ビリビリと声よりよほど大きな悲鳴を上げ始めて――――わたしは、思わず叫んでいた。反射的に、名前を呼んでいた。


 今はもう、憶えていないけれど。

 あの場所にいた3年くらいの間だけ憶えていた、彼女たちの名前を。



 ――『っ、……らてちゃん?』


 ――『人数いるしさ、かくれんぼしようよっ。?』



 ……呆れるほどによく回る口。詐欺師にうってつけなアドリブ能力だったと、我ながら思うよ。


 関心を惹きたかったんじゃない。苛立ちの原因から意識を逸らしたかったんだ。だからわざわざ、そんなことを口にした。……頬が引き攣っているのが、バレやしないか冷や冷やしながら。


 幸いなことに。

 怒りを煮え滾らせていた女の子たちは、他人の機微を察せられるほど賢くはなかった。



 ――『いいねっ! わたしかくれる役やるーっ!』


 ――『えー? じゃんけんで決めようよー』


 ――『いちばん見つかんなかった人のゆうしょーだからねーっ!』



 容易く釣れた少女3人と、周りで遊んでいた子供たちとを合流させる。慣れた流れでルールを確認し、じゃんけんで甲高い声を合わせる。



 ――『よーっしっ! 10分でぜんいん見つけたらおれの勝ちだかんなっ!』



 負け残った男の子がひとり、壁を向いて100からカウントダウンを始める。残りの何人だかの子供たちは、ベージュの部屋を、虹色のマットレスを、踏み荒らしきゃいきゃい騒ぎ、各々ここだと確信する場所へと身を潜めていく。


 男の子は何度も、何度も何度も、カウントを間違えていた。いきなり5つも進んだかと思えば、10の位を前へと戻してしまうこともあった。100秒は数分と言い換えても差し支えなくて、それに目くじらを立てる賢さは誰にもなくて。





 ――『ねぇ。絵、見てもいい?』




 だから。


 立ち上がることすら諦めて、寝ている椅子を背後に置いて、床を眺めるその娘に。

 わたしが声をかけることに、意識を割く子供なんて、誰もいなかった。



 ――『っ……!? ぁ……ぁ、ゃ……!』



 手を、今度は伸ばすこと自体を躊躇ったようだった。それでも艶めいた黒髪の奥で、赤に近付いた瞳を潤ませていたその娘は、当時のわたしには新鮮な表情を浮かべていた。


 怯え。怖れ。……恐怖。


 床に放られていた、半ばまで破られていた画用紙を。

 手に取ったわたしに、彼女は、殺人鬼でも見るかのような震えた瞳を向けていた。



 ――『……………………』



 尤も。

 わたしはわたしで、そんな目新しさにも目がいかないくらい、その絵に釘付けになっていた。


 描かれていたのは、当時大人気だったアニメのヒロイン。古式ゆかしい変身系魔法少女の衣装は、フリルをはじめとした装飾が多くって、保育園児のお絵描きの題材としては甚だ不向きだった。色鉛筆を使った塗り絵でさえも、鬼のような難易度になっていただろう。


 なのに、その絵は。

 保育園児が、画用紙に、クレヨンで描いたというのに。


 服も、身体も、構図も、顔も、髪の毛の一本一本、表情の緻密さに至るまで。



 ――『……す、ごぉ……っ、うま、すぎない……えぇ? すっ、ごい……!』



 ――『……………………ぇ、え……?』



 褒めるのは、慣れていた。称賛も絶賛も羨望もヨイショも、手馴れた作業だった。


 けど……違った。そもそもその娘の元に近付いたのも、常の『いい子』ムーヴからではなかった。



 気に、なったんだ。


 わたしが言葉ひとつ、誘いひとつ、笑顔ひとつで容易く笑わせられる、そんな簡単な奴らを――――ああまで、激昂させたことが。笑わせるのも得意にさせるのも、調子に乗らせるのも酷く簡単なのに。


 一体なにをすれば、あの単純な連中を、あんなに激怒させられるのか。


 嫌味ではなく、純粋に、気になったのだ。



 そして――――叩きつけられるように、納得する。



 この絵は、。あまりにも、あんまりにも、



 レベルが違う、格が違う、桁が違うし、段さえ違う。


 まるで本職のアニメーターが描いたのかと見紛うほどの、流麗な線。意志も台詞も場面すらも、全部伝わってくる表情。精緻に描き込まれた衣装は最早美麗を通り越して妖艶でさえあって、塗りには一分のムラすらない。


 上手い。上手い。上手。上手過ぎる。





 破かれていても分かるほどに上手いからこそ、この絵は、この上なく下手っぴだった。




 ――『……絵、かくの、好き、なの? えと……りおん、ちゃん』


 ――『っ……、…………は、ぃ……』



 びくっ、と小動物みたいに震え、伸ばしかけていた手を引っ込める。胸の前で縦に並べて、盾のように腕を組み上げる。


 りおんちゃん――――猪間凛恩は、そう、昔っから、下手くそな娘だった。


 図抜けて頭抜けた才能を全方面に持った凛恩ちゃんは、でも、上手に生きる才能に、致命的なまでに欠けていた。



 ダメ、ダメだよ。こんな絵を描いたら、そりゃあ、嫉妬される。憤慨される。



 自分が如何に不出来かを見せつけられるのだから――――『調子に乗るな』と、上に立ちたくなってしまう。


 それが、人間だ。

 凛恩ちゃんが怖がる、人間の、どうしようもない性だ。



 …………けど。



 ――『すごい……すごいうまいね! こんなに絵がうまい子、ほかにいないよ!?』


 ――『……、…………で、も……もう、やめま、す。……描き、ません……』



 たどたどしく、何故か敬語で、震えながら俯いて。


 ぽた、ぽた。塩水の雫を、眼から落として。


 凛恩ちゃんは、まるで懇願するように、言ってきた。



 ――『……そし、たら…………っ、お、……怒ら、ない……です、よね……?』


 ――『…………!』



 …………あの時に憶えた嫌な納得を。

 わたしは、10年以上が経っても憶えている。





 ――『かきなよ、りおんちゃん。ダメだよ、もったいないよ』




 考えなんてなかった。全部後付けだった。理屈をすっ飛ばして、わたしは、嗚咽すら零さずに泣く凛恩ちゃんに、そんなことを言っていた。


 よっぽど、予想外だったのか。


 凛恩ちゃんは、既に真っ赤に泣き腫らした顔を持ち上げて、わたしのことを見つめていた。



 ――『っ……なん、で……、っ、だ、だって、だって――』


 ――『わたしがまもるから、大丈夫。つぎからは、わたしのそばでかいててよ。なにか言われそうになったら、わたしが全部、そらすから』


 ――『………………な、ん……で――』


 ――『だって、もったいないじゃん。こんなにうまくて、そんなに好きなのに』



 ……必死、だった。それを表情に出さないようにするのが、本当に大変だった。



 正反対だけど、いや、当たり前か――――猪間凛恩は、中民らての鏡だった。



 あの頃、ずっと胸の奥でじくじく違和感を訴えてきた小骨。……その正体は、『我慢』だった。やっと分かった。理解した。納得した。だって目の前に、わたしそっくりなあべこべがいるんだもの。


 身を守るために、仲間外れにされないように。


 ……凛恩ちゃんみたいに、ならないように――――わたしは、我慢、してきたんだ。


 言いたくもないことを言って、笑いたくないのに笑い、つまらないのに面白がり、興味がないのに関心を寄せる。


 そういう我慢が、やりたくないの集合体が。

 ぐずぐずと心を、腐らせていた。



 ――――ダメだ、って、初めて、心の底から思ったんだ。



 ――『せっかくさ、好きでやってて、すっごくうまいのに、むりしてがまんする必要ないよ』



 わたしは、いい。不満はあっても、閊えがあっても、それを押してでもやりたいことも、できることも、別にないから。



 けど、この娘は違う。



 猪間凛恩は違う。わたしとも、他の有象無象とも全然違うって、あまりにも自明だった。



 ――『りおんちゃんが、がまんしてあげるなんて、そんな理由どこにもないよ?』



 凛恩ちゃんは、凄い人だ。初対面からそうだと理解った。


 こんな絵を描ける人が、この幼さでここにまで至れる人が――――自分の才能に、好きに、蓋をしようとしている。


 それは、ダメだって、思ったんだ。


 凛恩ちゃんは、わたしみたいな凡人とは、全然、違うんだから。



 ――『…………どう、して……そこまで……』


 ――『りおんちゃんがすごいから。知ってる? すごいっていうのはね、すごいことなんだよ?』



 努力も天才も才能も才媛も。


 凄いのが当たり前だ。本当に凄いのは、そういうものであれることだ。


 投げ出すなんて、蓋をするなんて、捨てちゃうなんて――――勿体、ない。



 ――『……………………!』


 ――『えっへへぇ。しょーらいはマンガ家かな? イラストレーターかな? 楽しみっ』



 ――――背後で拙いカウントダウンが、ようやくひと桁に突入した。わたしは、近くのカーテンの中へと身をくるませながら、顔だけを覗かせて、凛恩ちゃんに言った。



 ――『かいたら、また見せてね。楽しみにしてるからね、凛恩ちゃんっ』



 最前より何故だかずっと、ずっとずっと多くの涙をぼろぼろと零しながら。


 凛恩ちゃんはこくこくと、何度も頷いていた。返答の言葉はなかったけど、頬を濡らすそれはなによりも雄弁だった。




 ――――今思うと、わたしは甚だ失礼な奴だ。


 群衆、群体、グループとしての『人間たち』じゃなくって。



 ただひとりの、猪間凛恩という個人に興味を抱いたのは、多分、生まれて初めてだったのだから。

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