第18話 『母さんを解放してやってよ』
──私にポラリスを潰せなんて、よくもそんなことを!
「姉ちゃん!」
背後で航太の声がした。
今は誰の顔も見たくない。所詮、みな他人だ。多恵の亡き母に対する想いを、理解できるわけがない。
「待ってくれって」
航太はしつこい。幼い頃からそうだった。
静枝は、多恵の母が亡くなると同時に、旅館とホテルの女将になった。
航太は三歳。まだ母親が恋しい幼な子だ。寂しさにいつもぴいぴい泣いていた。
父は優しかったけど、口下手で不器用で、実の娘にもベタな接し方ができない人だったから、航太に対しても同様だったと思う。
結局、航太が甘える先は、多恵しかなかった。
どんなに邪険に突き放しても、泣きながら後を追ってくる。甘えん坊な子犬みたいで、いつも多恵の方が根負けしてしまうのだ。
考えてみれば、航太だけが、血筋や血縁関係に頓着せず、姉弟として関わってくれているのかもしれない。
「話を聞いてよ」
待合室を憤然と突っ切る多恵に、行き交うナースや患者たちが驚いたように振り返って行く。
松葉杖の少年がバランスを崩したのを、航太が寸でのところで救い上げた。
「頼むから、母さんをもう解放してやってよ」
多恵は、聞き捨てならないと、航太を振り返り睨みつけた。
「私が、いつ、あのひとを、縛り付けたって言うの?」
「姉ちゃんがじゃなくて、幸村の名前がさ」
言葉の衝撃と、外の陽差しの眩しさに、多恵は目を細めて足を止めた。
中庭の花壇を、チューリップやパンジーが賑やかに飾っている。外周道路の桜並木から、薄紅色の花びらが風に乗って運ばれて、多恵の足元に舞い落ちた。
「母さんはさ──。父さんの妻になったわけじゃない。ゆきむらの女将になったわけでもない。幸村家の人身御供になったんだ」
「何てことを言うの」
多恵は誰かに聞かれてはいなかったかと、辺りを窺った。
航太は不貞腐れたようにアプローチのベンチに腰を降ろし、背中を丸めて長い溜め息を吐いた。
「母さんはよくやってきたと思うよ。だけど、古い人たちは、どうしても母さんを幸村家の使用人として見るんだ。姫様は継母との折り合いが悪くて村を出たけど、必ず戻ってくるって信じてるのさ。佐武さんだって、伊佐山さんだってそうだ。他人の目なんか気にしなけりゃいいのに、母さんも卑屈なんだよなぁ。今でも姉ちゃんのことを〝姫様〞って言いかけることがある」
静枝は、多恵が生まれたときにはすでにゆきむらで働いていた。祖父母が亡くなる前に寿退社したので、〈お姉さんのような仲居がいたな〉というくらい、うっすらとしか記憶がない。
当時、多恵は幸村家のお姫様として君臨していたから、静枝はその頃の面影をまだ引きずっているのだろう。
「つまり、母さんを縛っているのは、幸村宗一郎氏と永和さんの亡霊なんだ。母さんが育った養護院の支援者で、親代わりになって夜学まで通わせてくれた宗一郎氏と、赤ん坊を取り上げられて家を追ん出され、自殺しようとまで追い詰められていた母さんのために、向こうの家に乗り込んで、息子を奪還してくれた永和さんには、血のつながり以上の恩義があるのさ。──もちろん、子持ちのバツイチ女に、生活の保障をしてくれた父さんにも、感謝していると思うよ」
「あんたねぇ」
ふたりの間に愛があったのかはわからない。
子どもの頃は、母を裏切った不純な関係としか考えられなかったけれど、大人の事情を鑑みれば、父はゆきむらの女将が早急に必要だったし、静枝も息子のために強い後ろ盾が必要だっただろう。
確かに双方、打算はあった。けれど──息子が言うか?
「母さんだけじゃない。父さんだって、永和さんの亡霊に縛られていたんだ」
父は優しいだけが取り柄と言われた人だった。世間にどんな悪口雑言を浴びせられようと、言い訳もせずただ静かに微笑んでいたことを、多恵は覚えている。
そうして父は、寡黙に淡々と永和の夢を実現することで、彼女への愛を貫き通した。
しかし、たとえ生活のためとはいえ、亡き妻の亡霊を追い続ける夫を、支え続けなければならない女の心境とは、いかばりだっただろう。
多恵になのか、静枝になのか、残された者にはわからない。
ただ、父の死に顔はとても穏やかだった。安堵のような微笑みは、ようやく旅立てることへの歓びにも見えた。
あの言葉は、長く待たせてしまった永和への詫びだったのではないかと、多恵は考えることがある。
そう思うと、静枝がいっそう哀れだった。
「ポラリスは、永和さんそのものなんだ。だから、母さんをポラリスから解き放ってあげられるのは、娘の姉ちゃんだけなんだよ。もう充分だろう? 母さんを自由にしてあげてくれよ」
静枝は、滅び行くホテルを処分することも、逃げ出すこともできなかった。このままポラリスと心中するつもりだったのかもしれない。
麗らかな花壇の上を、白い蝶が戯れている。
多恵は沈鬱な面持ちで、よろりと立ち上がった。
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