3、幸村の姫様
第17話 『ポラリスは中里のものよ』
──優しいのはあなたよ。
サービスエレベータの壁に頭をもたれ、多恵は大きく溜め息を吐いた。
なぜ、今、再会してしまうのか。多恵は意地の悪い神様を呪った。
どんなに忘れたふりをしても、逢えばやはり心が乱れる。今は私事に動揺しているときではないのに。
──しっかりしろ!
両手で頬を叩いたとき、エレベータの扉が開いた。
「何? 蚊?」
キョロキョロ辺りを探す弟に、多恵は作り笑顔でお茶を濁した。
「遅いから様子を見に行こうと思ってたんだ。悪かったよ、それどころじゃないのに」
多恵の手からワゴンを引き継いで、航太はファニーフェースに似合わぬ大人びた表情で歩き出した。
日焼けした顔、姿勢の良い体、耳や鼻のピアスホールは今は使われていない。
彼もこの二年で、本当に逞しくなった。
「それで……、どうだった?」
振り向けば姉を苦しめると思ったのだろうか、前を向いたまま航太は問う。
多恵は精いっぱい元気を装った。
「大丈夫、何とかするから」
「ごめん、オレ……なんもできなくて……」
慰め合っても何の解決にもならない。そんなことは百も承知だけれど、今は言葉が見つからない。
「でも、あの家は売らなければならないわ」
「仕方ないさ」
航太はさばさばと言う。
よけいに多恵は次の句を言いかねた。
察したように航太は、
「母さんにはオレが話す」
「ごめん……」
「姉ちゃんが謝ることなんかない。あの家も本来は幸村のものなんだ。意識がはっきりしてなくて、かえってよかったよ」
航太は冗談めかして言うと、多恵の肩をポンと叩いて、パントリーへと消えていった。
──ごめんね、コタ。
静枝が亡くなれば、航太も天涯孤独になってしまう。
多恵を「姉ちゃん」と呼んではいるが、多恵と航太は血のつながりもなければ、戸籍上も他家の人間だ。
航太の実父は、彼の誕生を前に他界している。父方の親族とは一切付き合いがないようだし、母の静枝は孤児で身寄りがない。
実際、静枝が入院しても、誰一人見舞う者は訪れなかった。
静枝が倒れたのは、二年前の春だった。
病室に駆けつけた姉弟は、佐武の大叔父から初めてホテルの窮状を報された。
半年前にがんの手術を受けたばかりなのに、人手不足のうえに金策に追われて、術後の治療を怠ったせいだと、大叔父は己を責めるように項垂れた。
手術のことさえ、多恵たちはまったく報されていなかった。
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「おふたりのどちらかに、社長代行をお願いしなければなりません」
ベッドに体を起こして、静かに頭を下げる静枝に、多恵はぶ然と目をよそへ向けた。
彼女が敬語を使ったのは、多恵を前にしているからだ。彼女を拒絶しておきながら、他人行儀な言葉に苛立つのは、邪僻と言われても仕方がない。
「そんなん決まってんじゃん。幸村の血を継いでんのは姉ちゃんなんだからよぉ」
ダボダボのストリート系ファッションに、金髪のブレイズヘアの間から荒んだ目を覗かせ、小生意気な口をきく航太に、多恵は両頬を抓って引っ張ってやろうかと思った。
とりあえずここは病室だ。
「ポラリスは中里のものよ。お父様が建てて、静枝さんが今まで守ってきたんだから」
〝静枝さん〞と、多恵は言いにくそうに言った。
「原資は幸村の遺産じゃん。父さんの遺言にあったろう? 〈幸村のものはすべて幸村へ返せ〉って。それを、姉ちゃんが勝手に相続放棄しちゃたんじゃないか。──姉ちゃん、ほんとは借金のこと知ってたんだろう?」
「まったく知らなかったわけではないわ」
「ほら見ろ! オレと母さんに借金を背負わそうなんて、ずるいじゃんかよ」
航太は感じたままにものを言う。ヒョロヒョロと背丈ばかり伸びて見上げるほどになっても、中身はまだまだ子どもだ。
「プラスの財産を放棄したのだから、マイナスの財産が免責されるのは当然です」
「卑怯だよなぁ」
多恵の片眉がピクリと動いた。
桓武平氏の門地である幸村家では、〝卑怯〞の二文字をもっとも嫌う。
「オレは、親の借金のために夢を諦めるなんて、真平ごめんだね」
「いい機会じゃない。大学卒業して就職も決まってたのに、映像芸術の仕事がしたいってロスにいるんだって? いつまでも夢見てないで、親孝行してあげたら?」
「姉ちゃんこそ、早く婿とって幸村の跡取りをつくってやれよ」
「私には仕事があります」
「負け犬のくせに、見栄はんなよ」
「何ですって?」
「ジャンヌ・ダルクなんてもてはやされているらしいけどさ、蔭では哀れな目で見られてんだよ。アラサー独身女のキャリアなんて、女からは〈ああはなりたくはないよね〉ってバカにされて、男からは〈かわいげのない女〉って敬遠される。姉ちゃんは会社のプロパガンダに利用されただけだ。賞味期限が切れて煙たがられる前に、引退した方が賢明なんじゃないの?」
痛いところを突かれた。
今春の人事で昇格できず、それどころか、夏目とのゲスな噂を流されたことで、香港への異動を打診されているのだ。
身重の新妻がいる男と不倫などと、まったくもって心外だ。
百歩譲って誤解される状況があったとしても、女だけが責任を取らされるのは納得できない。
加齢による肉体面の変調と、精神的な焦りが、多恵を怒りっぽくさせていた。
「コタこそ、バーテンダーのバイトが本業になるんじゃないの?」
「オレは焦ってないだけさ。中途半端に妥協して、自分を安売りしたくないんだよ」
「可能性の低い人間に限って、そんな屁理屈をこねるのよ。実績を作ってからものを言いなさい」
「崖っぷちのおばさんよりは、よっぽど可能性はあるけどね」
「おばさんって! 誰に向かって言ってんの!」
「おやめなさい。病室ですよ」
佐武の声に、姉弟は睨み合ったまま我に返った。
「航太君、君が今まで何不自由のない生活ができたのは、ご両親のおかげです。都合のいいときだけ親を頼って、何かあったら責めるなど、恥ずかしくはありませんか?」
航太も多恵も下向いた。
確かに恵まれた暮らしだった。進路にしても、金のかかる我がままを、文句も言わずに通してもらった。
「それに姫様、本来ならばあなたが背負うべき責務を、社長が果たしてくれたのです。他人事のように仰ってはいけません」
好々爺の顔に情けないと書いてあって、多恵は自分を恥じた。
だいたい佐武も、村長の激務をようやく息子に引き継がせて、悠々自適の老後を迎えていたはずなのに、ポラリスの専務など引き受けるから、めっきり老け込んでしまうのだ。
「そうではありません、専務」
力ない静枝の声に、多恵はこの日初めて彼女の顔に目を向けた。
花もない病室に差し込む薄ら陽に、彼女の肌は薄青く、三つ編みにしたほつれ毛が憔悴しきった頬に落ちている。昔から顔も体も線の細い人だったけど、一層儚げになって、薄青のカーディガンから覗く血管の浮き出た手が、痛々しかった。
「多恵さんがお戻りにならないのは、私のせいなのです。中里が亡くなって、私が社長に就任したとき、息子を後継者にするために遺言書を書き換えたと、厳しくお叱りになる方もいらして……。多恵さんは、ご自分が帰省されることで、再び私の立場が悪くなることを、憂慮してくださっているのです」
静枝は苦しい息を継いで、いまだかつて見たことのない厳しい顔を、航太に向けた。
「多恵さんが相続を放棄されたのは、私たちのためですよ。お屋敷からの退去を迫るご一党から、お屋敷の名義を会社に移すことで守ってくださった。そのうえ、放棄したお父様の遺産を買い取って、税金の支払いさえままならなかった私たちを、助けてくださったのです」
静枝は多恵に向き直ると、
「社長として私が至らぬばかりに、このようなことになってしまい、本当に、申し訳ございません」
体が二つに折れるかと思うほど腰を折った。
多恵は、鼻白んで顔を背けた。
静枝ほど多恵を理解している人はない。わかっているのに、素直になれない。静枝の思いやりが深ければ深いほど、やはり他人なのだととらえてしまうのだ。
多恵が中里の姓であれば、少しは母娘らしく接せられたのだろうか。
逆にまったく赤の他人であったのなら、感情が揺さぶられることもないのに。
重い沈黙があって、ようやく静枝は切り出した。
「私は、多恵さんの意思にすべてお任せいたします。お母様の夢であったポラリスの行く末は、娘のあなたにしか決められません。お父様の遺言は、そう言う意味なのです」
多恵はカッと顔を向けた。
「無責任なことを言わないで!」
言葉はしかし、喉の奥で止まった。ただ頭を垂れる静枝と佐武の、老いと困憊で小さくなった肩を見ていると、何も言えない。
多恵は怒りの矛先を失って、ものも言わずに病室を飛び出した。
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