第9話
「シザ……?」
熱いシャワーを頭から浴びつつ、深く目を閉じていたシザは瞳を開き、振り返る。
ユラがシャワールームの扉を開き、心配そうな顔をしていた。
「ずっと、シャワーが流れてたから……」
シザは「ああ」とシャワーを見上げる。
「煩悩を流してたんだ。あのまま寝てたら、またユラに手を出しそうだったから」
心配そうだったユラが瞬きをしてようやく、くすくすと笑った。
「……ぼくは、そうしてもらっても嬉しいけど」
シザが息を呑むような顔を見せた。
数秒後すぐに手が伸び、ユラはガウン姿のままシャワールームに引き込まれる。
何をするのかと問う間もなく、シザはユラを抱えたまま張られたバスタブに飛び込んだ。
ガウンのまま湯に引き込まれたユラは目を丸くして言葉も無かったが、シザはというと、呆然としてもこういった時に人を怒ったり詰ったり出来ない、そういう反射神経を持たない弟の反応が可愛くて、少年のように声を出して笑ってしまった。
自分ならこんなことされたら、反射的に何をすると相手に肘鉄でも食らわせて失神させている所だ。
幼い頃は自分と弟を比較してその違いを憎んだこともあった。
だけど今は、自分と違う弟の優しさや穏やかさを、シザは深く愛している。
驚いたものの目の前のシザが笑っているので、数秒後ユラは体の力を抜いた。
こういった兄弟の戯れを、二人はあまり持つことが出来なかった。
ある時期は分かり合えず不仲で、
ある時期からは逆に相手が大切過ぎて、からかって困らせることなど出来なかったから。
だからシザは今自分といる時、時々こんな子供のような悪戯をすることがある。
今、こうして兄弟で笑い合える。
シザがあの男をこの世から、消し去ってくれたからだ。
ユラは分かっていた。
臆病な自分はきっとあの男が刑務所に入ろうと、生きている限り安堵して生きていくことが出来なかったと思う。
――だからシザは殺したのだ。
虐待していた父なのだと誰かに訴えるのではなく、二度と存在しなくした。
そうしてくれたからユラは今、段々と普通に笑えるようになっていっている。
……だけどその為にシザの手は血に汚れてしまって、
彼は【グレーター・アルテミス】から一歩も出ることが出来なくなった。
それでも幸せだと、彼は言ってくれる。
過去のどの時間よりも今が幸せで自由だと。
ユラはシザが笑ってくれると安心するのだ。
シザは自分がいくら殴られようと、能力を使って養父に反撃するようなことはしたことがない少年だった。ユラはそれをずっと見て来た。
一度も、あの男に逆らったことが無かったのに。
自分が暴力を振るわれた時、たった一度。
彼は力を使ってくれた。
自分の為じゃない。弟のために。
全てを犠牲にして自分をあの暗がりから救い出してくれたひと。
ユラはだからシザが何をしてこようと、彼の全てが大好きだった。
笑いながらシザがシャワーを手繰り寄せて、髪だけは濡れていなかったユラの頭から浴びせて来る。瞬く間にユラの身体も、頭のてっぺんから温かい湯に流されて行ったけれど、ユラは楽しそうなシザに優しい表情を向けたまま、彼の額に張り付いていた髪をそっと指でよけてやった。
その仕草を見た途端シザは笑みを消して、真剣な顔になるとユラの両頬に手を当て、鼻先に見つめて来る。
湯気の立つシャワーの降り注ぐ中で、体を抱き寄せて、足を絡めて、指を絡め、口付けを交わす。
しばらくそうして、ようやく唇が離れると、
ユラは静かに瞳を開いた。
シザの美しい碧の瞳が、一瞬の静けさで自分を見下ろしている。
シザはユラの瞳の奥を探っていたのだ。
そこに求めるものが自分と違っていたら、たった今の瞬間欲情に戯れていたとしても、一瞬で兄の表情に戻らなければならない。
いつだってそのことを自分に課している。
自分はユラが幸せになるために存在している。
そうでない自分になるくらいなら、この世からいなくなった方がマシだ。
だから彼と自分の望みが違うと分かったら、
どれだけ愛しく思ってもこの場から去らなければいけない。
それを望んだりしてないけれど、
そう出来る自分であることはいつも願った。
だから尚更、見つめ返してくれるユラの瞳の奥が優しいと、
泣きたくなるほど幸せでたまらなくなるのだ。
自分は何も間違ったことはしていないと、この世で彼だけが教えてくれる。
【グレーター・アルテミス】はアポクリファだけが居住権を許される国だ。
ここでは世界中で迫害を受けるアポクリファも普通の人間のように堂々と暮らしていける。
だけど、この地でも認められない倫理観はある。
許されないことが。
ここも完璧な楽園というわけではない。
(世界が許してくれなくてもいい)
ユラが微笑いかけてくれる限り、
シザは自分を許し、愛せる。
ユラはシザの裸の胸に頭を預けた。
安心しきったように彼は目を閉じている。
こうしていられるのは数日だけだ。
彼の音楽家としての才能は天から与えられたもの。
音楽の神に呼ばれたら、彼はまた旅立たなくてはならない。
自分の弟でも、
……彼はそういう人なのだ。
シザは一瞬、辛そうな表情を浮かべた。
それをユラに見られる前に、彼の体を両腕で深く抱きしめる。
「ユラ……、愛してる」
うん、とユラは頷いた。
「愛してるよ。」
繰り返すと、ユラもシザの体に腕を回してくれた。
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