第2話 呪いのひな人形

 時間を少し巻き戻してみよう。


 私は人として生きていた頃、呉服屋に生まれて、名家に嫁ぐ予定だった。ちょうど桃の節句に挙げる祝言を控え、幸せの絶頂――のはずだった。


 その前夜、女中が静かに差し出した茶を一口飲んだ瞬間、なんだか味が舌が痺れるような感じがしたのだ。そのあと、すぐに呼吸が苦しくなって、冷や汗を流しながらも助けを呼んだけどだめだった。


 目の前が暗くなっていく。苦しい。助けて。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない……!

 叫んだけど、声になったかどうかはわからない。


 意識が遠のいていく中で、許婚の顔が浮かんだ。優しい笑顔、温もりのある手。彼と幸せな家庭を築くはずだったのに、どうして――。


 ゆっくりと瞼が閉じていく。

 でも、視界は再び開けた。許婚が愛おしそうな眼差しをこちらに向けている。


 ――ああ、助かったんだわ。

 そう喜んだのもつかの間、なんだか体がおかしい。まったく手足が動かないどころか、声も出せない。


 許婚の唇が甘く紡いだのは、なぜか女中――そう、私に毒入りの茶を差し出した彼女の名前だった。


 ――は?

 悪い夢を見ているのだと思った。


 どうやら私は小さな人形――部屋に飾ってあった女雛に魂が乗り移っているらしかった。

 死にたくないと願った結果、どうやら魂だけがこの世に留まったようだ。

 そして、今は私が儚くなってから一年ほどの年月が流れていた。


 信じがたいことに、その間に女中と私の元許婚が、いい仲になっているではないか。


 彼はしばらく悲しんだらしい。けれど、その心の隙間に女中がまんまと入り込んだ。彼の心を癒して、寄り添って、やがて、いけしゃあしゃあと私のことなんて忘れさせてしまったのだ。

 私は人形の中で、女中のその独り言を聞いていた。


 そして、彼女は私の遺品の一部として雛人形わたしを持ち出し、彼と暮らし始めた。


 ――冗談じゃない。

 私を殺した女が……私からすべてを奪った女が、幸せになるなんて許せるはずがない。


 だから、じわじわと呪ってやった。彼らの幸せに、少しずつひびを入れるように。おかげで二人は悲惨な人生を歩むことになった。

 でも、どれだけ呪っても、私の心が満たされることはなかった。ただ虚しさと怒りだけが残って。


 二人の借金のかたに売られた雛人形わたしたち。桃の節句にしか出番がないので、日の目を浴びた時には泣いて喜んだ。でもなぜか気持ち悪いと言われてまた売り飛ばされた。


 なんとか持ち主と対話を試みたけど、カタカタと体を揺らすので精いっぱい、声を絞り出せば聞き取れないくらいの風の囁き程度。


 いつしか私はと呼ばれるようになり、人の手を転々とする。その度に仲間は減っていき、とうとう私とお内裏様の二人だけになってしまった。


 時代もすっかり移り変わる。明治? 大正? 今は昭和? ちがう、平成だ。持ち主たちの会話や生活様式も変わっていく。

 ちなみに空襲にも遭ったけど、私とお内裏様だけは火を免れた。不思議なことにこの体は火を通さないみたい。


 ――いつまでこんな虚しい時間が続くの?

 ――もう消えてしまいたい。


 私の存在を訴えることが逆効果ならば、いっそ目を閉じ、心を閉ざし、深い海の底へ沈んでいくように眠ってしまおう。


 そう願ったある日、隣のお内裏様が話しかけてきた。


『あれだけ威勢がよかったのに、どうしちゃったの?』


『人形が喋ったぁぁぁぁ!』

 私は驚いて飛び上がった。実際には少ししか動けなかったけど、そうしたらお内裏様もビクッと揺れてガラスケースにぶつかる。


「おかあさーん! お雛様たちがガタガタ鳴ってる、こわいよ~」

「きゃー! 捨てるのも怖いから、お店に戻してきましょうね!」

 持ち主たちの行動は素早かった。


『あ……』

『あ……』

 しまったと思った時には、もう車に乗せられてどこかのお店に連れていかれてしまったのだ。


『ねえ、あなたのせいで、また売られちゃったんだけど⁉』

『お雛様に転生とか草生える』

 意味不明なことを言った彼は、すまし顔なのに、なぜかお腹を抱えて笑っているように見えてしまった。

 ――いったいなんなの、この男は⁉

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